第10話 今までよりも少しだけ
(姫宮視点)
掛け持ちしているバイトの一つの居酒屋から帰宅した私は、母と二人で暮らしているアパートの一室に帰った。
外見は完全に古いけど内装はそれなり……あくまで外見と比べればの話だけど、二人で暮らすには不足のない部屋。
この生活になったのは一年ほど前、高校入学直前のこと。
父親の不倫が発覚し、離婚を強いられた末に母と私は捨てられた。
表向きには元父が母に慰謝料を払ったが、それは後腐れなく新しい妻を迎え入れるためだったのだろうと思う。
なんせ、浮気相手との間には子どもがいたのだ。
私と母よりも浮気相手とその子どもを愛するために、私たちを捨てた。
「ただい、ま……?」
そんな家に帰ると、玄関に見知らぬ靴が一足並んでいた。
男物のスニーカー。
こんな夜に来客? と不思議に思った私の耳に、高い悲鳴のようなものが届いた。
恐らくは母のものだろう。
けれど、悲鳴にしては……どこか甘やかな響きを孕んでいる。
誰とも知れぬ男が家にいて、母が出したと思しき声が聞こえる状況に緊張を感じ、身体が硬くなる。
それでも真相を突き止めようと恐る恐る、足音を殺しながら玄関に上がり、リビングの様子を壁から顔だけ出して窺えば――
「…………ッ!」
見知らぬ男が、母を犯していた。
「亜希……っ! ほらっ、ここがいいのかよっ!」
「んっ! そこっ! すごいいいのっ!」
軽快なリズムにも似た音と、二人の声が重なる。
男は楽しげな表情を浮かべているのに対し、母は……女の顔をしていた。
飛び出そうになった声を必死に押し殺し、思考が急に回り出す。
あの男は強姦魔? ……いいや、多分違う。
母の名前も知っていたことから知り合い以上の関係であることは確かだし、母の声も悲鳴ではなく嬌声だったように思えた。
それに、いくら精神的に病んでいても、見知らぬ人間を夜に家へ上げるほど無警戒ではないはず。
だとしたら……ううん、だとしても、私はここにはいられない。
母は私がこの時間に帰ってくると知っている。
なのにあんな男を家に招いたまま、私の帰りを待つ?
私が帰る前に男を帰す予定だったけど、男の方が居座ってしまったと考える方が自然……違うわね。
これは先入観の問題。
私がたった一人の家族である母親を信じていたいという、それだけの話。
でも、あんなことをしている部屋に堂々と入るほどの勇気はなかった。
あの男が私にとっての味方かどうかすら確定していないのだから、下手に顔を出すのはリスクが大きい。
私は非力な女で、男の力なら容易に押さえつけられる。
その後どうなるかなんて考えるまでもない。
気付けば、私は音を鳴らさないように家を出て、夜道を歩いていた。
行く当てなんてどこにもない。
親戚の類いは母が元父と結婚するときに色々あったとかで頼れないし、学校には友達がいないからもってのほか。
バイト先の先輩で助けてくれそうな女の人はいるけれど、猫を被っているのがバレたくないからダメ。
制服のままではネカフェもホテルも入れてくれないと思う。
「私、どうしたら……」
とりあえず明るい場所にいたくて、近所のコンビニへ。
人の出入りは少なく、明かりに群がる羽虫の方が多いくらいだ。
ここで一、二時間くらい潰してから様子を見に戻ろう。
男がいなくなっていればいいけど、もしまだいたら――
「……泣いたって、どうにもならないんだから」
ふいに熱くなった目の奥。
自分の意思とは関係なく溢れてくるそれを袖で拭い、スマホの画面へ視線を落とす。
そうしていると、コンビニの入口へ歩いていく人影が視界の端に映った。
私も通う上里高校の男子制服を着た彼は別のバイト先の先輩であり、クラスメイトの幽深くんだった。
私よりも頭一つ以上は高い身長で、同年代と比べて落ち着きのある男の子。
学校での様子は私が周りに構わないせいで印象にないけれど、バイト中は冷静かつ的確に物事をさばいているのをよく見かける。
言動も同年代と比べれば理知的で、私への興味関心が不自然なくらい薄い。
私は相当モテるし、学校でもバイト先でも言い寄られることがある。
なのに彼からはその気配すら感じなかった。
そんな彼を、私の意識が追っていた。
こんな時に見かけた、知り合いと言っていい相手だからかもしれない。
我ながら都合が良すぎると思いながらも顔を上げて、
「……幽深くん?」
口に出した彼の名前は掠れていたけど、それに気づいて私の方を見てくれる。
「姫宮か。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「……そうね」
「バイト帰りか? 気を付けて帰れよ。気温が上がると不審者も増えるって聞くし」
幽深くんは長話をすることなくコンビニの中へ。
思いのほか普通に話してくれたことに安堵を覚え、またしても不安が押し寄せる。
彼と話しても解決する悩みじゃないのに声をかけてしまったのは、私に靡かない幽深くんが希望の光に見えてしまったからか。
それからも立ち尽くしていると、今度は足音が近くで聞こえた。
顔を上げると大学生くらいの三人の男に囲まれていた。
「君可愛いねえ、どこ住み? てかラインやってる?」
「こんな時間にどうしたのさ。家出? 夜出歩くのは危ないって習わなかった?」
「行くとこないなら俺たちのとこ来ていいからさぁ。ああ、お代は貰うけど」
調子よく話しかけてくる男たちに囲まれ、頭が真っ白になっていく。
言葉と視線に乗った欲望が、身体にまとわりついてくるみたいで気持ち悪い。
思い返してしまう家で目にした光景。
もし、このまま彼らに連れられたら……私はあれよりも酷い扱いをされる。
うすら寒いものが背を駆けあがって、喉の奥が詰まったような錯覚に見舞われた。
「……なによ、あんたたち。離れて。指一本でも触れたら――」
それでもなんとか吐き出した言葉を、彼らはへらへらとした笑みを浮かべながら聞き流す。
「警察でも呼ぶのか? 俺たちは善意で声をかけてるってのにさぁ」
「世の中を知らねえ女にはお仕置きが必要だよなぁ?」
「こういう強気な女の方が泣かせ甲斐があるってもんよ」
にじり寄ってくる三人の男。
どうにかして逃げないと、と思うのに、足がちゃんと動いてくれない。
意志に反して後ろへ後ずさるばかり。
視線だけが右往左往し――コンビニから出てきた幽深くんを捉えてしまう。
……ダメよ、そんなの。
私のせいで、迷惑はかけられない。
そう思って、目を逸らしたのに。
「――悪い、遅くなった。帰るぞ」
「え、ちょっとっ」
割り込んできた幽深くんに手を引かれ、走り出す。
私は突然のことに困惑して幽深くんを見上げながらも、足を縺れさせないよう必死について行った。
しばらくしてから幽深くんは足を止め、手を離す。
それから私があそこにいた理由を聞かれ、助けられた手前で嘘をつくのも違うだろうと思い、素直に白状した。
実質的な家出、しかも行く当てがないと告げると、幽深くんは困った顔をしているように見えた。
そんな幽深くんへ私は何を思ったか泊めて欲しいとお願いしたら、私を遠ざけるような言葉を並べながらも納得できるならと許可をくれた。
内心本当に襲われないのかと心配になりながらも、突然転がり込んできた人間には余りあるもてなしをされ、一夜を明かした。
目が覚めると見知らぬ天井。
寝起きでぼんやりした頭で考えること数十秒、幽深くんの家の部屋だと思い出す。
「……本当に手を出さなかったのね」
身体のあちこちを調べてみるも、何かをされた形跡はなかった。
痕跡を残さずにした可能性もあるけれど、考えだしたら切りがない。
それから私を起こしに来た幽深くんと顔を合わせ、寝起きを見られたことに恥ずかしさを感じながら着替えを済ませて、作ってくれた朝食もいただく。
色々おかしなことは言われたけど手も出されなかったし、朝食やらなんやらも含めて逆に疑ってしまうくらいの居心地だ。
「……でも、ありがと。ちょっとだけ元気になったかも」
お礼はしっかり言っておく。
これが最初で最後になることを願っていたけれど、そうとはいかなかった。
バイトのシフトが一緒だった幽深くんに頼んで家まで送ってもらったはいいものの、今日も昨日の見知らぬ男が家にいた。
しかも母の姿はなく、男と私で二人。
そう認識した途端に生理的な嫌悪感が湧いてきた。
男が私になにか声をかけていた気がするけれど、まともに聞かずに当面必要なものだけを鞄に詰めて家を出る。
外には幽深くんがちゃんと待っていてくれて、少しだけ心に余裕が生まれた。
これでもしいなくなっていたら……私は、本当にどうしていいかわからなくなるところだったと思うから。
「……ごめん、幽深くん。しばらく泊めてもらっていい? この家に私の居場所はないみたい」
昨日と違い、継続的に泊まる必要が出てしまったことに申し訳なさを感じていた。
それでも泊めてくれた幽深くんには対価を支払わなければならない。
シャワーを浴びながらずっと考えていたけれど、私が幽深くんに差し出せるものは一応綺麗なままの身体くらい。
幽深くんも男の子。
私の身体を好きに使ってと言えば、嫌とは言わないはず。
そう思い、覚悟を決め、一緒の部屋で寝たのに乗じて事を起こした。
Tシャツを脱ぎ、上だけは下着姿になって、幽深くんの身体に馬乗りになる。
恥ずかしいけど、今後のためには必要なこと。
きっと幽深くんもわかってくれる――
「そういう問題じゃないんだよなぁ」
けれど、返ってきた反応は、心底めんどくさそうな表情と呟きだった。
それからあれこれと言い争い、説得され、私が幽深くんに支払う対価は料理と掃除ということで落ち着いた。
……私の身体よりそっちを選ぶの? という困惑と僅かばかりの怒りはあったものの、綺麗な身体でいられるのは喜ばしい。
ばっちり下着姿を見ていたみたいだけど、私のせいだから文句は言わない。
揶揄いついでに添い寝もしてあげて……これは私が不安だったからとか、そういうのじゃなくて、慌てふためく幽深くんを間近で見たかったからってだけ。
隣で男の子が寝ているのに、私は自分でも驚くくらい落ち着いていて――
「……もう朝?」
ぼんやり目を開けると、朝の眩しい光が差し込んできていた。
枕元に置いていたスマホに表示されているのは朝の六時過ぎ。
早起きは苦手なのに、今日はばっちり目が覚めていた。
ベッドを静かに抜け出し、まだ眠っている幽深くんの寝顔を眺める。
どこかあどけなさの残る、呑気な寝顔。
昨日あんなことやこんなことを言っていたのと同一人物とは思えない。
それがなんだかおかしくて、笑ってしまいそうになるのをどうにか抑え込む。
「約束はちゃんと守ってあげるわ。とびきり美味しい朝ご飯を作ってあげる。それと……昨日は言えなかったけれど、ありがとう。今までよりも少しだけ、自分を大切にしてみようと思えたから」