第73話 キール戻れぬ道
大陸中央から北東へと広がる、深き樹海。その濃密な緑と、霧の帳に包まれた奥深くで、エレバン帝国軍第一師団および第二師団による「イザーナ捜索救出作戦」が展開されていた。作戦を指揮するのは、若き皇太子、ハリア・エレバン。
だが、その作戦は開始早々に暗転した。
足を踏み入れた兵士たちは、次々と姿を消し、ダークゴブリンたちの巧妙な罠と奇襲により、無残な最期を遂げていった。森の木々の間を、血の香りが静かに満たしていく。犠牲者はすでに数百。森そのものが、生け贄の血で染め上げられたかのようだった。
一方その頃──。
濃霧に包まれた森の影に潜み、ダークゴブリンたちの動向を密かに監視していたのは、関西弁のぽんぽこ妖狸・ぽん吉であった。
「ひ、ひぇぇ……あいつらホンマに容赦ないわ……」
木の幹に身を寄せながら、ぽん吉は震える声でつぶやいた。
その視線の先では、兵士たちがダークゴブリンに解体されてゆく。手足をもがれ、生きたまま皮を剥がれ、絶叫のなかで絶命する者。目も口も縫い合わされ、這うように地下へと引きずられる者。
その残虐さはもはや、魔獣の本能ではない。“意志ある悪意”が支配する狂気だった。
「……あ、また来たわ。新手の兵士らや……」
霧の向こうから進軍してくる影に気づき、ぽん吉は目を細めた。
ダークゴブリンたちは、倒した兵士の武具を手際よく剥ぎ取り、それを地下の仲間へと運ぶ。そのうち何体かは鎧をまとい、顔に布を巻いて、まるで兵士のような姿に化けていた。
「……あいつら、日に日に賢うなっとる……兵士に化ける気やな……」
ぞっと背筋が震える。その恐ろしさは、もはや敵というより、災厄そのものだった。
静かに身を翻したぽん吉は、影の中を滑るように戻っていく。
向かう先は、キールたちが身を潜めているアジトだった。
アジトでは、キールを筆頭とする「下僕」たちが雑務に追われていた。掃除、薪割り、衣類の手洗い……地獄の戒めを受け、矯正中の彼らは以前の粗暴な姿からは想像できないほど、すっかりおとなしくなっていた。奥の部屋では、妖艶な妖狐がソファに優雅に腰かけ、扇子を扇ぎながらその様子を見下ろしている。
「おかえり~、どやった~?」
妖狐がぽん吉に問いかける。
「いや~、奴ら日増しに賢うなってて、ゴブリン討伐に参加した人間のみ相手してますわ〜」
ダークゴブリンたちは無差別に襲うのではなく、目的を持って“選んで”いた。ぽん吉の報告に、妖狐はくすくすと笑みを浮かべた。
「ふふん、狙いが分かりやすくて助かるわ。うちらの仕事はあくまで舞台の準備やしな。脇役が動きすぎても困るしな」
ふいに、ぽん吉が声を潜めた。
「それと……聞いたんやけどな。閻魔様の具合が、どうも悪いらしいで」
「知ってる。さっき半蔵が来てな、右鬼様の命令で、一旦地獄へ戻るよう言われたわ」
ぽん吉はそれを、わざとらしく、しかし絶妙な音量で口にした。狙い通り、アジトの隅で作業していたキールたちがぴたりと手を止め、耳をそばだてる気配が走る。
「……でな、右鬼様からもう一つお達しがあってな……キールら、解放してええってよ」
「……なっ!」
最初に反応したのはキールだった。見開かれた瞳に、驚愕と希望の光が交錯する。
「俺ら……許されたのですか? 」
「せやでぇ~。お前ら、よう頑張った。真面目に反省しとるのが伝わったわ。これからは……ちゃんと生きるんやで?」
「……はいっ! ありがとうございます! これからは、人類のため世界平和のために尽くします!」
涙を流し、深々と頭を下げるキールたち。解放の安堵、自由の喜びに包まれたその表情は、まさしく更生者のそれだった。
「ほな、お前らが再び悪事働かない事を祈ってるでぇ〜」
「お気をつけて!ありがとうございました!」
元気に手を振る一行を見送りながら、ぽん吉と妖狐は地の中へと姿を消していった。
──そして。
「ふぅー、やっと厄介な連中が居なくなったぜ……」
空気が一変する。キールは溜め息混じりに吐き捨て、ぐいっと背中を伸ばした。
「まさか……本当に助かるとはな」
傍らのガレスも、力が抜けたように呟く。日々の監視と罰の緊張から、ようやく解き放たれたのだ。
「はっ! ぽん吉め、何が“祈ってるで〜”だと? ふざけたタヌキ野郎が……」
「まぁ……妖狐は目の保養になりましたが……」
「で、どうするんです?」
「決まってる。皇太子ハリアのとこに行く。イザーナの情報と引き換えに、俺たちの立場を元に戻してもらう」
「け、賢明な判断ですな。真相を話せば許してくれる可能性が高いけど、シールド領に向かい兵士たちに会うのは危険です……」
「だな。出会った瞬間殺して良いとハリアの命令が出ているかも知れないからな、ミラー領から迂回して、エレバン帝国へ向かうぞ! 善は急げだ!」
「おう!」
歓喜と興奮のまま、キール一行は次なる計略に向けて動き出した。
もはや、自分たちがまだ“地獄の目”に晒されていることなど、微塵も疑っていなかった。
──それを見送るように、木陰の奥。
ぽん吉は肩を震わせ、笑いを噛み殺しながら、彼らの背を見つめていた。
「あ〜あ、動いてしもうたな……終わりの始まりや」
その隣で、妖狐が艶やかに目を細める。
「ふふ……まさか、自分らが許されたとでも思うとるんやろか。監視されとることにも気づかんと……ほんま、おめでたいわぁ」
「あのままアジトで縮こまっておればよかったものを……ラストチャンスを不意にして、わざわざ自分から地獄の扉をこじ開けに行くとはな、あれはもう、“戻れん”道やで。――次に会うときは、ほんまもんの地獄、やけどな……」
「楽しみやわぁ……どんな顔するんやろなぁ……」
薄紅の唇が妖しく歪み、嗤いとともに彼女の姿は風に溶けるように掻き消えた。ぽん吉もまた、闇に溶けるように姿を消す。
──静寂が戻った深き樹海。
しかし、それはただの沈黙ではない。
それは、絶望という名の牙を密かに研ぐ、終焉の静けさだった。
キールたちが向かう先に待つのは、救いなき“本物の地獄”。
もはや、その道に引き返す術はない──。




