第69話 天使の雫と正座の詩人
イザーナは、地の超位精霊ロックウェルとの契約を終えたのち、天空門の屋敷で静かな休息を取っていた。連日にわたる超位精霊との接触は、彼女の精神力を確実に削っていたのだ。
そのころ──天空門へ戻る直前、空の頭の中に、不意に正体不明の声が囁いた。
(近いうちに会うことになるだろう……俺の魂)
その声の主も、意味も分からぬまま、空は天空門、神殿宮殿前へと戻ってきた。
だがそこには、ミカイルとガブリールの二人が、まるで天上の裁きを下す裁判官のような表情で立ちふさがっていた。
「ルシフィス様。……こちらへ」
「空、来なさい」
いつもは穏やかな微笑みをたたえている二人の顔には、今や一片の情もなく、冷たい威厳と張り詰めた怒気が漂っていた。空はそのただならぬ気配に、ぞくりと背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「え? どうしたの、二人とも……?」
なんとか笑ってごまかそうとするも、その声も表情も、彼らの前では無力だった。
「どうしたの、ではありませんよ?」とガブリールが冷ややかに言い放つ。声には刃のような鋭さがあった。
「胸に手を当てて、よくお考えなさい」ミカイルの声音は静かだったが、その沈んだ響きには、雷鳴の前触れのような怒りが潜んでいた。
空の口元が引きつる。ひとつ息を呑み、ごくりと唾を飲み込む。
「えぇ……なにか失礼なことを……もししてしまったのなら、謝るけど……」
声が震える。だが二人の沈黙はそれすらも許さぬかのように重く、神聖力の圧が全身を包む。その場の空気が濃密に、いや、まるで粘性を帯びてまとわりつくように重苦しかった。
(これは……説教とかじゃない。尋問だ……!)
ふと、空の視線が二人の背後へ向かう。
──庭木の陰に、小さな人影があった。ミアだ。肩をすくめ、顔の前で両手を合わせて何かを呟いている。
(……なんでミアが……謝ってる?)
その瞬間、ガブリールが一歩前へ進み、冷ややかな声で告げた。
「──て・ん・し・の・し・ず・く!」
「……Ah」
空の顔から、血の気がすうっと引いていった。場が凍りつく。逃げ道など、どこにもなかった。
「天使の雫」──それは、あらゆる病や怪我すら癒すという伝説の万能薬。しかし、その製法には常軌を逸した禁忌があった。熾天使が入浴した水、あるいは湯を回収し、その“出汁”をさらに煮詰めて精製するというものである。
しかも、それを毎夜、ミカイルとガブリールの温泉からミアが回収していたとなれば……。
主犯とされる空は、有無を言わせぬ勢いで連行され、不死鳥神殿にある石の台座の上へと正座させられる。
──説教開始。
「Oh my goodness……」
空は、とっさに異国の言語で、神に語りかけ誤魔化そうとした。しかし、主神は女神様。
「女神様もお許しになりません!」
「いや、これは霊的蒸気による魂の再構築であって……その、精神の昇華を――」
「芸術的解釈で乗り切ろうとしない!」
「ならば……一句。
湯けむりと 神のまなざし 交錯し──」
「俳句もダメです!」
「いやほんとに!
これってつまり“心の鍋”なんですよ!霊薬って、煮込むほど深みが──」
「料理番組みたいに語らないで!!」
「……拙者、神前にて潔白を主張仕る所存!!」
「時代を遡って逃げようとしてもムダです!!」
空はうなだれながら、詩を読み、術を唱え、時代すら飛び越えて悟りを開こうとした。
「泡風呂に 心洗いて 無我の境地……」
「やめなさいっ!!」
「そもそも詩にするほど美しい話ではありません!」
そして万策が尽き、気が遠くなるような時間、空はただただ、熾天使たちの怒号と光の説法に打たれ続けた。
「空にぃ〜……マジごめん〜」
その最中、どこか遠くからミアのか細い声が響いた。
──それから、四日後。
イザーナの体力と魔力は完全に回復し、風の超位精霊・シルフェードとの契約に向け、再び旅立てる状態になっていた。
出発の朝、集まった一行にエバが静かに告げる。
「今回は、空さんは来ません」
「え? 何かあったのですか?」エレノアが心配そうに訊ねる。
「……諸事情があり、天界へ帰ったのです」
「そうですか……天使様ですものね」エリアが少し残念そうに呟いた。
実際には、熾天使二人から雷を浴びせられた直後、空は女神から「ちょっと話がある」と呼び出され、心の準備も整わぬまま、お迎え天使フランとダースの二人に連れられて、天界へと連行されていたのだった。
「ということは、今回は俺、エレノア、エリア、イザーナ、エバ様、そして各精霊様が向かうことになるな」オレクが言った。
「そうだ。シールド領の樹海で不穏な動きがあると聞く。たとえ光国の側にいても油断するな」
エバは一同を見渡し、厳かに言い放つ。
「では、世界樹がそびえる太古の森──キヨサト町へ向かうぞ」
旅は、新たな精霊との契約を求めて、再び動き出した。
──そしてその頃、天界の奥深く、女神の間ではまだ、空への“追加講義”が粛々と続いていたという。




