第50話 皇帝ハリス・エレバン
イザーナの魔力解放の儀が執り行われてから、一週間が過ぎていた。
全属性に適性を持つという、結果を得たイザーナは、ひたむきに修練に打ち込んでいた。そのひたむきな姿は周囲の者たちをも突き動かす力を持っていた。
エリアとエレノアの二人も、その意気に触発され、鍛錬に没頭する日々を送っていた。そして今では、重戦士ドワーフ・オレクまでもが「俺も体を動かすぞ」と声を上げて参加する始末。修練場には、熱気と活気が満ちていた。
そんなある日、空と美加と共に屋敷の庭でひとときを過ごしていたエバが、ふと空を見つめると、張り詰めたような声で口を開いた。
「空、美加……少しお願いがあります。これから、皇帝ハリス・エレバンに会いに行きます。同行してもらえますか?」
突如として差し出された要請に、空は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。
「分かりました。エレバン帝国ですね」
天空門からは、一度訪れた地へは、白いモヤを通じて自由に行き来できる。だが空にとって、エレバン帝国は未知の場所だった。今回は、エバが案内役となる。
エバが行き先を思い描くと、白いモヤが出て三人を包み込むと、すぐに重厚な石造りの南外門へと姿を現す。
その門の向こうには、灰銀の城壁と荘厳な塔が立ち並ぶ帝都――エレバンが広がっていた。無骨でありながらどこか整然とした美しさを持つその都市の姿に、空は思わず息を呑む。
「これが……エレバン帝国……」
辺りの空気は重く、どこか鉄の匂いがするようにすら感じられる。その空気、気配、そして空の色さえも、これまで見てきたどの国とも異なっていた。
エレバン帝国――それは勇者王国の西隣に位置する軍事国家である。特異なことに、新たに即位した勇者王国の国王が、皇帝を任命するという関係にあり、王国との強い連携のもと運営されている。兵士の教育と訓練はこの国が一手に担っており、成人を迎える十五歳になると志願者は兵学校に入学、三年の過酷な訓練を経て、各師団や隣領への配属が決まる仕組みだ。
現在のエレバン帝国皇帝――ハリス。その血筋は代々、皇帝の座に就いてきた由緒ある家系である。その背景には、かつて三代目勇者による不祥事が深く関わっていた。当時勇者国王アレクは、新しい勇者国王が誕生しなかったので、しばらく皇帝を任命する立場にあり、信頼できる血統としてハリスの家系を選んだのだった。
ハリス自身も、ただの血筋ではない。三十五年前から、彼は勇者アレスと肩を並べて幾多の戦いを乗り越えた歴戦の重戦士であった。その功績が新しく勇者国王になったアレスに認められ、やがて第十三代エレバン皇帝として即位するに至ったのである。
城門を通された三人は、護衛に導かれて城内へと進み、やがて厚い警備の向こうにあるハリスの私室へと案内された。
室内に立っていたのは、白金の王衣を纏い、威厳と理知、鋼の決意をその身に宿す壮年の男――ハリス・エレバン皇帝その人だった。
「お久しぶりです、エバ様!」
「久しいな、ハリスよ」
互いの肩の力を抜いたような、しかし深い信頼を感じさせる挨拶が交わされる。その様子を見て、空はわずかな緊張を抱きながら、前へと出た。
「見習い天使、ルシフィスと申します。空とお呼びください」
「熾天使、ミカイルです。美加とお呼びください」
ハリスはゆっくりと微笑んだ。
「これはこれは、空様に美加様、初めまして、エレバン帝国の皇帝ハリス・エレバンと申します。この度はイザーナを救ってくださったと伺っています。深く感謝を申し上げます」
「いえ、当然のことをしたまでです」と空が静かに応じると、ハリスはうなずき、三人を椅子へと招いた。
「皆さま、どうぞお掛けください」
エバが席に着き、真顔に戻って言葉を紡ぐ。
「イザーナとエリアの件についてだが、今しばらく“魔獣にさらわれた”という建前でお願いしたい」
「承知しました。そのように国民にも伝えましょう」
一瞬、場の空気がぴんと張り詰めた。エバが鋭い目で皇帝を見つめる。
「ここからは、重要な話になります。ハリス、護衛兵を下がらせてくれ」
「……分かりました」
ハリスが手を振ると、護衛たちは即座に退出し、重厚な扉が音を立てて閉じられた。静寂の中、エバの声が厳かに響く。
「イザーナの魔力解放の儀の結果……彼女は全属性への適性を持っていてな」
「……なんと……!」
ハリスの表情が一瞬で険しくなる。その目が、鋭く光を放つ。
「それは――伝承に語られる“神に選ばれし聖印を持つ者”……真の救世主の可能性があるということですか……」
「そう。世界を導く者。勇者とは別の使命を持つ存在」
ハリスは深く息を吸い込むと、低く呟いた。
「勇者は魔王と戦う“剣”……だが救世主は、世界の“意味”そのものを塗り替える存在かもしれない……」
その言葉に、空も思わず思索に沈む。
(イザーナが……この世界の救世主……? 彼女が世界を変えるとしたら、それは……何を導くのだろう)
エバが、静かに言葉を継いだ。
「彼女なら……たとえ世界が揺らいでも、イザーナの選ぶ道を、私は信じる」
「……分かりました。私も、出来うる限りの支援をいたしましょう」
だが、次に放たれた一言は、ハリスの胸に重く響くこととなる。
「……もう一つ。イザーナに刺客を放った者がいる」
「……ハリア、なんですね」
「その通り。しかも、あの男は次男と三男の件にも関与している。こちらで処理は可能だが……どうする?」
一拍の間ののち、ハリスはゆっくりと首を振った。
「……身内のことです。私にケジメをつけさせてください」
しかし、話はそれだけで終わらなかった。
「……ただハリアの背後には、アスモタンがいる」
「極悪魔……!」
ハリスの顔が蒼ざめる。
「そして今、シールド領からミラー領、さらにはドリード王国へと通じる地下トンネルが掘り進められていてな。目的は……光鏡砲の拠点制圧、並びに王国への奇襲と思われる」
「それは……重大すぎる」
ハリスは額に手を当て、短く呻いた。
「ミラー領とドリード王国は既に動き出していて、エレバン国内にもトンネルが通っている可能性がある以上、帝国も備える必要がある」
「……分かりました。第三師団の調査班に命じ、帝都地下の調査を開始させましょう」
やがて話が一段落すると、エバが静かに立ち上がる。
「これで一連の話は終わり。エバーテイン魔法学院卒業生の配属先については、改めて相談しよう。空、美加行きましょう」
三人は、そのまま天空門へ戻って行った。
私室に残ったハリスは、しばし沈黙したのち、立ち上がる。
「第三師団の工作班と調査班に、地下の調査を秘密裏に進めさせよ。そして、イザーナとエリアについては、“現在、国を挙げて捜索中”と発表するのだ」
「了解いたしました!」
部下が一礼し、足早に去っていく。
静まり返った私室に、一人残されたハリスは、深く息を吐いた。
(ハリア……このままでは、イザーナか、お前か……どちらかが次の皇帝に選ばれることになる。だが私は――)
エレバン帝国、そして世界の均衡を揺るがす、運命の分岐点がいま、確実に迫っていた。




