第100話 暴食の中級悪魔 キマグレイ
ツベツ平原に轟いた四尺爆裂弾。その未曾有の爆音と爆風、そして衝撃波が、魔虫たちとイボブーをまとめて吹き飛ばし、師団の兵士たちの多くが負傷する中――ツベツ平原防衛戦は、ついに終結を迎えた。
「な、な、なんだと……」
耳をつんざく余波がまだ空気を震わせる中、黒煙を裂いて姿を現したのは、中級悪魔キマグレイ。エレバン帝国を乗っ取るべく、ベルゼブブより遣わされた彼の策は、無残にも瓦解していた。
「このままでは、ベルゼブブ様に顔向けできねぇ……せめて、この戦場に倒れた兵士たちの魂を……」
作戦の失敗を悟ったキマグレイは、せめてもの手土産として兵士の魂を回収しようと歩を進める。だが、その前に二つの気配が立ち塞がった。
空と美加――。中級悪魔の存在を察知し、駆けつけたのだ。
空はサーティーンと接触したことで、過去の記憶を断片的に取り戻しつつあった。
――約二百八十年前。第三魔王カルスティンと三代目勇者アインが手を結び、世界征服を目論んだ混乱の時代。極悪魔ベルゼブブは魔虫を率い人間たちを襲い始め、最高位天使ルシフィスは人間を守りながら応戦したが、敵が空中にいてなおかつ数の暴力にも押され、ついには内に潜んでいた悪心に体を乗っ取られ堕天し始める。
堕天の只中、背後からベルゼブブの魔槍ロンギヌークが突き刺さり、エンジェルコア――天使の心臓部――は体外へ押し出され、ひび割れた。その場に駆けつけた熾天使ミカイルがコアを回収し、天界へ送り届けた――その記憶が、今の空に重なった。
「なんだお前ら? 見習い天使か?」
キマグレイの問いに、美加は冷たく切り返す。
「中級のクソ虫に名乗る必要はありませんわ」
美加が悪魔滅殺モードへ移ろうとした、その時。
「ここは、私に任せてくれないか」
静かな声で空が告げる。
「……分かりました」
「おうコラ! 何いちゃついてやがんだ!」
キマグレイが怒声を上げる。
「悪魔よ。大人しく魔界へ戻れ」
空の低い警告に、キマグレイは鼻で笑った。
「見習い天使ふぜいが……言うこと聞くと思ってんのか? へへ、運がいいぜ。お前からベルゼブブ様への土産にしてやるよ!」
次の瞬間、キマグレイが弾丸のように踏み込む。拳が空を薙ぎ払うが――当たらない。空は紙一重の回避を続け、靡く外套がかすかに風を鳴らすだけ。
「どうした? 口だけか? ほらほらほらほら!」
矢継ぎ早の拳撃。だが空の動きは一切乱れず、滑らかな身のこなしで全てを外す。
「ほらほらほらほら! ハァ、くそっ……なんで当たらねぇ!」
実はその間、空は〈無空間調律〉を発動し、キマグレイのデーモンコアに干渉して動きを鈍らせていた。しかし、悪魔はその事実に気づかない。
「ならば……本気を見せてやる! ぐおおおお!」
怒りの咆哮と共にキマグレイの肉体が変容する。人間とアブの中間のような異形へと変わり、その手には禍々しい〈デビル釘バットMAX〉が握られていた。
「さあ、こうなってしまったら手加減出来ぬぞ? 貴様のエンジェルコアを寄越せ!」
羽ばたきと共に悪魔が宙を裂き、空に迫る。バッティングフォームを取ったかと思うや、空の顔面めがけてフルスイング――
「ククク……会心のスイングだぜ!」
しかし空には、その一撃すらスローモーションに見えていた。釘バットの弧をくぐり抜けるように身を沈め、無防備な胸部のコアに右手を突きつける。
「シャイニングフィンガー!」
迸る光の御指がコアを直撃――
「アヂー!!」
悲鳴と共にキマグレイが膝をつく。その瞬間、美加が空に何かを投げ渡した。
「空、これを!」
それはルシフィスがかつて用いた愛用武器モーニングスターだった。
「ありがとう」
空が握った瞬間、モーニングスターは金色の奔流に包まれ、眩き光柱を天へと突き立てた。
鉄球は解かれ、槍は純金の矛へと姿を変えたあと、再び輪廻のごとく鉄球を伴った姿へと還る。
その背からは六枚の熾天の翼が咲き誇り、空気そのものが震えた。
空の姿は、もはや「人」ではなく―― かつて世界を護った最高位の熾天使、ルシフィスの影であった。
空は天高く舞い上がり、振りかざしたモーニングスターの先端に、蒼白の超高密度の星光が芽生える。
それは小さな世界をも圧壊させるほどの重みを秘め、まるで天上の神々が灯す終末の灯火であった。
「ニュートロン・バースト!!」
青白い光の奔流が走り抜け、悪魔の存在を根源から分解する神罰の線が閃く。
その姿は、夜空にひときわ輝く、明けの明星が現れたかのようであった。
「ぎぁぁぁ! ベルゼブブ様に栄光あれー! 」
キマグレイは悲鳴と共に崩れ去り、残滓はただ砂となりて消滅する。
大陸を覆っていた黒雲は霧散し、黄金の朝日がツベツ平原を洗い流した。
地に降り立った空の翼は音もなく消え、モーニングスターは再びただの鉄塊に戻る。
「これは……いったい」
「どうやら、悪魔を滅ぼす時だけ……戻るようですね」
美加の言葉に、空は静かに目を細めた。
「そうか……」
「おかえりなさい、ルシフィス様」
「――まだ一時的だけど……ただいま、ミカイル」
こうして空――否、熾天使ルシフィスは、確かにこの地に再び姿を現し始めていた。