2025.7.26 バカと目薬の今昔物語 ③
校舎の壁に 諸手を当てて
空を見上げる 十五歳♪
雲もないのに 飛び散る飛沫
しとどに濡れる わが襟よ♪
(吉田晶 心のどどいつ)
§ § §
中学生にとって、お昼休みはかけがえのない時間です。
なのに私は、いったい何をしているのでしょう。
――周囲からは、心無い声が聞こえてきます。
「ねぇ、アイツら何してんの?」
「二階から目薬をさそうとしてるんだって」
「は? なんで?」
「ほら、『二階から目薬』ってことわざあるでしょ。あれに挑戦してるらしいよ」
「……バッカじゃねえの!?」
ふふ、そうですね。空に向かってぐわっと目を見開き、二階から降る目薬の雫を必死に受け止めようとするその姿は、確かにバカ以外の何者でもありませんよね。
でも、見ず知らずの傍観者にそう言われるのは心にくるのです。
(つらい……。どうしてこんなことに……)
そんな私の傷心も知らず、
「次ぃ、行くぞぉぉぉぉ!」とユージが声をかけてきました。
黙って目薬を垂らすだけならそんなに目立たないのに、なぜかあらん限りの大声を出すものだから、周囲にはちょっとした人だかりができてしまいました。
ユージが二階から目薬を垂らし、私がそれを受けそこねる。
そのたびにどよめくギャラリー。
――間もなく、騒ぎを聞きつけたのでしょう。
よりにもよってジープがやって来てしまいました!
あ、ジープと言っても、軍用車両ではありません。
人間です。生活指導担当の体育教師です。
当時の体育教師は、ツッパリと戦うために皆いかつい恰好をしていました。
その見た目が、漫画『北斗の拳』に出てくる「ジープに乗った世紀末ザコ」を彷彿とさせるため、ジープと渾名されていたのです(※1)。
「おいコラ、そこッ! 何やってんだ!? ケンカか!? 」
のっけから「ツッパリ消毒モード全開」のジープに震えあがる私。
そこへユージが駆け込んできました。
「違う! 違うんです、先生! ケンカじゃなくて二階から目薬なんですよ!
ほら、常識がいつも正しいとは、限らないじゃないですか!
……な、よっしー(※2)。そういうことなんだよな?」
(おいコラ、ユージ! なんで首謀者のオマエがふわっふわの疑問形なんだよッ!?)
ジープの視線、さらにはギャラリーの視線が、一斉にこちらへと集中します。
あげくの果てには、当のユージまでもが「ギャラリーの一員」みたいな顔でこっちを見てくる。
これにはどうにも納得いかなかったのですが、相手がユージじゃしょうがない。
結局私が、どうにかこうにか事情を説明したわけです。
意外なことにジープは、話を最後まで静かに聞いてくれました。
そして、いつもとは違う穏やかな口調で、こんなことを言うのでした。
「あのな、『二階から目薬』は、『不可能』って意味じゃなくて、『物事が思うようにいかない』とか『回りくどくて効果がない』って意味なんだ。だから、お前らが頑張れば頑張るだけ、ことわざが正しいってことを証明することになっちゃうんだよ」
その言葉には、純粋な優しさがあふれていました。
「――目薬がもったいないだけだから、もうやめとけ。な?」
やがてギャラリーから、拍手が湧き起こりました。
思わぬところで男を上げてしまったジープは、恥ずかしそうに頭をかくと、そのまま職員室へと戻っていったのでありました。
「俺、『二階から目薬』がそんな深い意味だったなんて全然知らなかった……」
そう言うユージの目は、心なしか潤んでいます。一方で私は、
(深くもないし、どうしていい話みたいになっているんだよ。ちくしょうめ)
と思いましたが、口に出しても無駄なことはわかっていたので、黙っていました。
まさかそれが、あんな悲劇を巻き起こすことになろうとは……(※3)
※1……ジープを乗り回す立川基地の米兵なみにマッチョだったからとの説もあり
※2……吉田だから「よっしー」。ありきたりだね
※3……この事件をきっかけとして、ユージは「二階ユージ」、
私は「吉田目薬」という芸名で漫才デビューを目指すことになる。
しかしその話は、また別の機会ということで




