元公爵令嬢な私は一夜を共にした伝説の傭兵とダンジョンでゴブリン娘を育てます【一話目】
それは彼女が悪かった訳ではない。強いて言えば彼の心を繋ぎ止めることが出来なかった私が悪いのだ。
ラヴェンゲル家の令嬢たるもの。気高くあれと教育された通り。私は背筋を伸ばしたまま婚約破棄を言い渡したシャーフ王子に問い掛ける。それはシャーフ殿下のご意志ですかと。
重々しく頷いたシャーフ王子は傍らに所在無さげに佇む救国の聖女スミレを抱き寄せ。本当に申し訳無いと思っていると。私を見ることなく。スミレに愛しいと語る眼差しを向けた。
周囲のざわめきに私は今日が学園の卒業祝いを兼ねたプロムの日だったことを他人事のように思い出す。めでたい祝いの場で婚約者であるシャーフ王子から婚約破棄を告げられた私に集まる視線は同情とほんの僅かな悪意が籠っていた。
公爵令嬢として私は常に正しくあるよう努めてきた。融通が利かない。頭でっかちのガリ勉だと。時に悪口を叩かれていたことは知っているけれども。
密やかに婚約破棄をされても仕方がないと嗤う生徒たちを見ることなく。私はパチリと口元を覆っていた扇を閉じるとシャーフ王子に微笑む。
「ええ。その婚約破棄の御下命承りました。本日を以て。私、アンナ・ラヴェンゲルはシャーフ殿下の婚約者という立場から喜んで卒業致しますわーっ!!殿下、二言はございませんわね!?」
「あ、あぁ。勿論だ!」
心が震える。ついについに私は自由の身になったのです。これで私は念願の冒険者だ。待ってて愛しのダンジョン。直ぐに蹂躙しに行くからね。
ぽかーんとする尻軽王子とある意味王子の被害者なスミレ嬢に片目を瞑ってどうぞ御幸せに。私も私の幸せの為に邁進しますわと高らかに笑って去った。
え、さっきまでの悲壮感はどうしたかって?キャラが違う?公爵令嬢たる者。分厚い外面を被ってこそ。
婚約者であったシャーフ殿下は最後まで私が常に特大の猫を被っていたことにお気づきになられなかったけれども。
寄宿舎に戻り。着なれた男物の平服を着て。荷物をまとめた鞄を手に窓から飛び降り。その足で街に繰り出した。私、公爵令嬢からジョブチェンして念願だった冒険者になります──!!
私、アンナ・ラヴェンゲルには前世というべき記憶があった。前世のアンナは日本という国で社会の荒波に揉まれつつ。サブカルチャーにどっぷりと浸かっていた二十代の社会人だった。ようはなかなかのオタクである。
そんな前世の私は国内最古にして最先端と謳われたMMORPG『暁のトロイメライ』の初心者プレイヤーだった。
『暁のトロイメライ』の世界観は魔物が蔓延るダンジョンに挑み。魔物と戦うという王道のRPGだ。
『暁のトロイメライ』の世界では。千年前に魔族と人類が大規模な戦争を起こし。その過程で数百にも渡るダンジョンが世界中に造られた。魔族と人類たちの戦いが人類側の勝利で終わり。
千年経っても未だに新たなダンジョンが見つかるなか人々は千年前の旧時代の遺物や魔族の宝を求めて魔物蔓延るダンジョンに潜るというのが大雑把な設定であり。
冒険者は十二個のサーバーからランダムに所属するサーバー。出身国が決められ。
その国を本拠地とするが自由に各国のダンジョンに行くことが出来た。私は学生時代からの友人に勧められ『暁のトロイメライ』を始めたばかりの新米冒険者だった。
MMORPGなんてやったことがなく。数百にも及ぶ多彩な職業やプレイヤーの分身になるアバターのパターンを前にして煮詰まり。キャラメイクは殆んど友人に手伝って貰って。どうにかゲームの基本操作に慣れてきた時に私は事故で死に。
気づくと『暁のトロイメライ』そのままの世界に転生していたのである。それも友人に手伝って貰って作成したアバターの姿で。
名前はアンナ・ラヴェンゲル。ジョブは貴族。容姿は燃えるような赤毛を三つ編みにしたTHE文学少女。稀少な魔眼持ちであり。常に分厚い眼鏡を掛けていて。戦闘時に眼鏡を外して本領を発揮する。
その眼鏡の下の素顔は可憐な美少女という友人曰くロマンを籠めたアンナになってしまった訳だが。私は『暁のトロイメライ』のなかで大国であるクロイツの公爵家の令嬢としてそれはそれは厳しく育てられることになる。
けれども中身は一般庶民。貴族社会には馴染もうにも馴染めないと思っていた矢先に私はクロイツ国の第一王子と婚約することになる。この第一王子。『暁のトロイメライ』ではNPCとして存在した。
ゲームでは定期的にダンジョン内で魔物が大繁殖して。その討伐の為にレイド戦が起きる。このときに冒険者たちに討伐依頼を出すのがクロイツ国の王子であるシャーフ殿下というのがゲーム内での設定だったのだ。
クロイツ国は獣人が多く。シャーフ王子も羊の獣人だ。貴公子という言葉が似合うその眉目秀麗な容姿から女性冒険者たちに絶大な人気を誇っていた。
そんなシャーフ王子と五歳のときに婚約することになった訳だけども。このシャーフ王子はすごく移り気で。常に女の子を侍らせて浮き名を流していた。
生粋の女性好きである癖になぜか私のことは野暮ったいにんじん娘と笑うだけでなく。婚約者の私が異性と居ると不機嫌になり嫌味を言ってくるので頭を悩ませていたし結構なストレスを抱えていたけれども。
私にはストレスを発散する手段があった。それが迷宮。ダンジョンである。
実は十五歳になったときに父の歳の離れた弟で貴族でありながら冒険者でもある伯父にねだってダンジョンに連れていって貰ってから私は度々家や学園を飛び出してダンジョンに潜っていた。
クロイツ国のダンジョンは全部で百層。浅い階層でコツコツと堅実にレベルを上げて。気づけば五十階まで潜れるようになっていた。単独で潜れる限界が五十階であるので今の私は結構強いのかもしれない。
ダンジョンでは魔物を討伐し。魔物から素材採取をして商会ギルドに卸している。
ラヴェンゲル家の令嬢であることは隠しているし。周囲にも公爵令嬢が冒険者をしているとは思っていないらしく私は行き着けのダンジョン近くの食堂兼酒場ではチビ助のアンと呼ばれ。
よく食堂に顔を出す荒くれ者の商工ギルドに所属するドワーフや獣人のおじさんたちにかなり可愛がって貰っていて。よくこのおじさんたちから直接素材採取のクエを貰っている。
素材を必要な分だけ。高品質な状態できっちり納めるので。冒険者ギルドにクエストを出すとき私を指名してくれたりと良い取り引き相手でもあった。
冒険者として活動する内に公爵令嬢より冒険者が自分には向いているという確信を私は深めたけれども。公爵令嬢という立場は自分の意志で投げ出せるものじゃない。
十三歳の時に入学した貴族の令息や御令嬢方が通う学園を卒業したらシャーフ王子に嫁ぐ身だ。そこはスッパリ冒険者から足を洗う決意はしていたのだけども私に転機が訪れる。
百年振りにクロイツ国に聖女が現れたのだ。クロイツ国は疫病が流行る時期がある。この疫病は千年前から続く魔族が残した呪いであり。
聖なる力を持つ乙女にしか祓えないモノなのだけれども『暁のトロイメライ』でも異世界から召喚された少女が聖女として存在した。
ゲーム内では教会に居て冒険者の状態異常を治してくれる有り難い存在でもあった少女こそが実はゲームのなかではシャーフ王子の婚約者だった。
それを裏付けるかのようにシャーフ王子は此の世界に召喚された少女を一目で気に入って積極的に口説くようになった。既に私という婚約者が居たにも関わらずだ。異世界から召喚された少女。
東雲すみれはシャーフ王子のアプローチに戸惑いながらも満更ではないという態度で私は遅かれ早かれ婚約破棄があると予測していた上でシャーフ王子を諌めた。
聞き入れては貰えないだろうということも踏まえて実家には報告済み。その上で両親にはとあるお願いをしていた。
もしシャーフ王子に婚約破棄をされてしまえばもうまともな縁談は私には来ないだろう。
幸いにもラヴェンゲル家には跡継ぎになる弟が居る。私は修道院に行ったことにして冒険者になります。
勿論、婚約破棄されなければ冒険者として生計を立てる夢は諦めると両親に伝えると父は頭を抱え。母は絶句し。伯父は血は争えないなと爽やかに笑った。
聞けばラヴェンゲル家には各世代に必ず冒険者になる人間が出るんだとか。そんな訳で両親の必死の祈り虚しく。シャーフ王子に学園卒業祝いのプロムナートの日に婚約破棄を言い渡された私はこれ幸いとばかりに寄宿舎から飛び出し。公爵令嬢からジョブチェンし。晴れて冒険者になったのだ。
婚約破棄を見越して下宿先に決めた宿屋には部屋を取ってある。
宿屋の女将さんは冒険者に成り立ての頃から世話になってる刃物鍛治の職人のスミスさん(ドワーフである)の奥さんで私を娘のように可愛がってくれている。
軽い足取りで宿屋に行けば。おや、良いことでもあったかいと訊ねられ。私は今日から独り身なんですと晴れやかに笑う。
女将さんは。ああ、アンは例の嫉妬深い尻軽な恋人とやっと別れられたんだね。良かったじゃないかと朗らかに返した。
「ええ、やっとです。私は自由の身になりましたよ!!これでもうネチネチネチネチ嫌味を聞かされずに済むと思うと涙が出てきます···!!」
「アンはよく回復薬飲んでたものねぇ。ダンジョンで怪我をしたときよりも例の尻軽な恋人に嫌味を言われたときに胃が痛むからって。うん、別れて正解さ。なんならうちの旦那のトコの若い衆でも紹介する?」
「あ、当面は独り身を謳歌しようかと。男の人は懲り懲りというか。観賞モノとしてしか見れそうにないです。特に顔が良い男の人は遠くで眺めてるだけで十分──!!」
「あー。アンの恋人。顔は良かったんだねぇ。」
「はい、顔は良いんですよ。だから女の子を取っ替え引っ替えしてたぐらいなんで。」
他人のことをとやかく言える顔じゃありませんけど。顔が良い男の人は観賞だけに留めて置くべきですね。
「そうだ。これから冒険者ギルドに顔を出して夕飯も食べてきます。今日は食べて飲みくりますよー!」
「ほとほどにしとくんだよ。アンは可愛いんだから飲みすぎて酔い潰れたところでお持ち帰りされたら大変だ。羽目を外しすぎないようにね。」
「チビ助のアンにその心配は無用です。私、女将さんが言うほど可愛くありません。なにせ私は野暮ったいにんじん娘ですし。それに結構腕っぷしもありますからね!!」
宿を飛び出して冒険者ギルドに顔を出し。幾つかクエストを受注しダンジョンに潜って魔物を倒して素材採取をしたあと。馴染みの酒場に行ってカウンターに座ってエール酒を頼む。
茹でたソーセージとグレイビーソースの掛かったポケトを肴にぐびーっとエール酒を煽り。染み渡るとひとりごちる。
流しの楽士が即興曲を奏で。活気に溢れる酒場の空気に。やっと本当の意味で冒険者としてスタートが切れたと実感する。
不安はある。それでも今は心が軽い。その筈だとエール酒を楽しんでいると隣の席に大柄な男性が腰掛ける。
カウンターの端に座る私がすっぽりその影に隠れる程に背が高く。身体の幅もある。シャツもズボンも黒地で胸当てと腰に提げた長剣は真珠色。たぶんミスリル製なのだろう。
肌は褐色で髪は白銀。瞳は緋色。髪から覗く耳は横長となればエルフ。しかも恐らくはダークエルフだろう。
このダークエルフというのは多種多様な種族に設定出来る『暁のトロイメライ』においては種族のひとつ。エルフから枝分かれした存在で主に闇属性の魔法を得意としている。
このひとのジョブは傭兵か。基本細身のダークエルフにしては大柄過ぎる。私の腕の四倍の太さの腕だなと横目で眺めて思わず自分の腕に触る。
なにを食べたらこんなに大きくなれるのか。良いなー。その筋肉を半分で良いから分けてくれないものだろうか。
私、なにをしても筋肉が付かないからなぁ。林檎を楽々片手で割れるようになりたいと染々見詰めていると男の人は小さく噴き出して笑う。
え、全部口に出てましたか?うわー恥ずかしいと顔を真っ赤にして。開き直ってなにを食べてそこまで大きくなったんですと率直に問うと男の人は私は人間とエルフの混血児故。このように大柄な体躯になったと暗い目をする。
あー、そう言えばエルフから枝分かれした種族のなかにハーフエルフというのがあったなと記憶を引っ張り出す。ハーフエルフは人間とエルフの混血で。特徴はその強靭な身体だ。
HPが全種族のなかでトップで攻撃力が高く俊敏。状態異常にも掛かりにくいどころかはね除ける。けれどもMPは最低値と片親が魔法に特化したエルフであるにも関わらず魔法ではなく物理に極振りしたステータスの持ち主だ。
ゲーム内のフレーバーテキストでは人間にもエルフにも爪弾きにされる忌み子であるとされていたけれども。
眼鏡を外して男の人を眺める。私は魔眼持ちなのだが人や物の鑑定が出来るのでこっそり男の人を鑑定したら。男の人レベルがバグっていた。
此の世界の人間はレベルがあって。上限が99。各ジョブの最高峰がその数値なのだけれども男の人のレベルは150レベル。しかも称号『剣聖』持ちだったのだ。
私は『暁のトロイメライ』の新米冒険者なのでゲーム内の設定に詳しくはないが友人のジョブが剣士であったことから剣士が取得出来る最高峰の称号が『剣聖』であることは知っている。
未だに取得したプレイヤーが居ないということも。確か唯一『剣聖』の称号を保持するのはNPCだけだと聞いた。そのNPCは千年前の魔族と人類の戦争にあって人類側に勝利をもたらしたが。
ハーフエルフであるが故にその功績は人知れず握り潰されたことから『語られずの英雄』と謡われていて長命種族であるが故に傭兵となって諸国を放浪し。ゲーム内では各地にその痕跡が残る。
どこかのサーバーにこのNPCが居ると噂があるも目撃したプレイヤーは居らず。その存在の有無は議論されていたという話を思い出し。
まさかなと頭を振ったあと。私はエール酒を追加して男の人に渡す。目で戸惑いを語る男の人に口を開く。
「自分ではどうにも出来ない生まれで虐げられたり。価値を決められることは間違ってる。」
貴方がハーフエルフであることで周囲が貴方を蔑すんだとしても貴方は貴方だからこそ価値があるし。虐げられたなら虐げられる側の痛みを知り。
蔑まれたならば蔑まれる側の苦しみや悲哀を貴方は知っている。そんな貴方だからこそ他者に寄り添うことが出来る。
「それは誇って良いことです。貴方だけの強み。貴方だけが持つ。不動の価値だと。」
強靭な身体も貴方の価値を高めこそすれ。貴方の価値を損なうものじゃない。私、貴方みたいなひとは好きだよ。マァ、私みたいな小娘に褒められても。だからなんだって話かもだけど。
「貴方は誠実そうなことが滲み出てる顔をしているし。なにより笑った顔が可愛いから。私としてはもーっと自分に自信を持って良いと思うの。」
男の人は目をパチリと瞬かせ。仄かに目元を赤らめると可愛いと言われたのは初めてだなと顔を逸らす。え、意外だと笑う。そうやって照れて。戸惑うところとかもすごく可愛いのに。
はっきり言って眼福とエール酒を飲む。あー、精悍な美青年を肴に飲むエールが美味いと染々と呟くと男の人は辺りを見渡したあと。精悍な美青年とは私のことかと驚き。
なぜか戸惑い。狼狽えるので貴方は美青年でなければ美形ですとだめ押しをして。意志の強さを示すようなスッと通った少し太い眉も。切れ長で綺麗な紅玉色の瞳。真っ直ぐな鼻梁。
やや厚めの唇は形が良いし。聞き惚れるような美声でもあると手放しで褒めると男の人は褐色の肌でも一目で分かるほどに羞じらって私の口を塞ぎ。
ハッとして口から手を離し。すまない。その、私は。あまり褒められることに慣れていないんだとおどおどとする。
前世の友人がよく言っていた。ガタイの良い男の人の気恥ずかしげな顔でしか得られない栄養があると。
いま、その言葉を理解した。大変、眼福ですとエールを煽って今日は良いことがあったから奢ったげる。一緒にどんどん飲もうとエール酒の入った木製のジョッキを掲げれば男の人は目を丸くして。相伴に預かろうと小さく笑った。
今度は私が話を聞こうと男の人が訊ねるので。嫉妬深いのに女の子を取っ替え引っ替えする尻軽な恋人と。やっっと別れられたんですと。ご機嫌に語れば。男の人はキュッと眉を跳ね上げ。
浮気か。エルフでは考えられないことだなと重々しく言葉を吐き出す。目で問うと。我々エルフ等の長命種族。特にエルフは一夫一妻が掟だ。浮気は極刑。
不倫など言語道断とされると男の人は語り。もしも浮気をしようものなら。切断だと手のひらを板に見立て残像の見える勢いでなにかを切る仕草をした。
それ、切られるのは首ですかと恐る恐る聞くと男の人は首を切ることもあるとにこやかに話す。あ、確実に別のナニカが切られるんだなとちょっと酔いがさめた。
男の人は生涯を共にすると決めた相手を哀しませたのだからそれぐらいは当然だとあっさりと続けた。ちなみに女性側が浮気をしたらどうなるのだろう。興味を抱いて聞いてみたら女性の場合は一族からの永久追放だとか。
なかなかに重いようで男性側の処分に比べたら温情があるような。男の人は種族社会のエルフからすれば死に等しい刑罰だと答え。まぁ、エルフは伴侶と決めた相手に一途だ。
実際にこの刑罰を受けたエルフは此の千年間で僅かに十人程だとエールを飲みながら言う。千年でたった十人しか浮気したひとが居ないってすごいというか。
一途が過ぎてちょっと怖さも感じるけど。良いなぁ。そこまで想い想われる関係と尻軽王子に婚約破棄された私は思う訳で。冒険者になるには婚約破棄されなくちゃいけなかったけれども私は私なりに歩み寄る努力をしてきたつもりだった。
私の中身はそこそこ生きた大人であったからシャーフ王子は年の離れた弟を見るような感覚で。間違ってることをすればつい口煩く叱ってしまい。随分と煙たがれられていたけれども。
親愛の情がなかった訳ではなかったのだ。
だから婚約破棄されたときはほんの少し胸が苦しくなったと話をぼやかしながら話すと男の人は貴女は傷付いたのだなと静かに告げた。
ああ、そうか。私は案外シャーフ王子を好いていたし。婚約破棄を告げられて傷付いたのかと遅れて自覚して。ふへっと笑いながら涙を溢す。出来れば自覚したくなかったぁと泣き笑いを浮かべると男の人は。
すまない。傷付いていると自覚して貰わなければ付け入る隙がないと思い。敢えて踏み込んだと私の目元を曲げた指の節で拭う。付け入る隙って。どういう意味かと問うより早く。私はお買い得な部類だと男の人は切り出した。
「私は種族柄一途だ。資産もそれなりにあるし。容姿も貴女の好みの範疇だ。傭兵をしているが貴女が安定を望むのであれば辞めても構わない。」
ハーフエルフであることから煙たがられているからやっかみを受けるかもしれないが。貴女を全力で守ると誓おうと語る男の人にもしかして口説かれているのだろうかと気づき。
じわじわと顔を赤くした私は。私チビ助のアンです。野暮ったいにんじん娘なのにと目をうろとさ迷わせると男の人はその小柄な身体も。燃えるように赤い髪も私には好ましいと直球ストレートな言葉を投げ掛けられ。
酔いが回っていた私は目をぐるぐるさせ。どうせからかってるだけだ。こんなチビ助を抱けるもんなら抱いてみろーっと。つい喧嘩腰に言い放った結果。
この近辺では富裕層向けのお宿の。実家のベッドには劣るものの。ふっかふかなベッドのなかで頭を抱える私が居ます。はい、完全に事後でしたどうしましょう。私に背を向け静かに眠る男の人。名前は色々あって聞き出したというか。
呼ぶよう催促され判明したところによればアドラムというらしい。本名か偽名かはわからないけれども。
アドラムさんを起こさないように冒険者として培った気配遮断スキルをフルに使って身支度を済ませ。宿代を置いて窓から逃亡。
この日の酒に泥酔した失敗は深く、深く。自省を込めて一夜の過ちとして私の記憶に刻まれることになる。
そんな一夜の過ちを思い出し。下宿先の部屋でのたうち回ることが減った頃。私は仕事に生きようとダンジョンに潜っていた。
浅層である十五階で大型のワームを討伐して唾液線から毒を採取していたとき。ワームと戦闘したときに崩れた壁の向こうに空間があることに気づき。罠を警戒しながら足を踏み入れ。宝箱を見つけることになる。
浅層にこんな隠し部屋があるとは思わなかったと宝箱を検分し。毒針や毒ガスの心配はなく。宝箱を開けたところで連動する仕掛けもないことを確かめてから恐る恐る宝箱を開き目を見開く。
すよすよと眠る赤ん坊が居たからだ。白銀の髪に褐色の肌。横長の耳。見たところ健康そうな赤ん坊を魔眼で鑑定して私は思わず天を仰いだ。
赤ん坊はゴブリンと人間の混血児。ハーフゴブリンだったからだ。それは此の世界においてハーフエルフを凌ぐ忌み子だ。
ゴブリンというとRPGではお馴染みの魔物で。大抵は弱いとされる魔物だけど。『暁のトロイメライ』においては最弱の魔物だと称される。
けれどもフレーバーテキストを読むとその評価は妥当ではないとする冒険者も居る。『暁のトロイメライ』にあってゴブリンは澪落した魔族であるというのだ。
魔族と人類の戦いにあって人類が勝利した後に。人類が神々に二度と魔族が自分たちの生活を脅かさないようにして欲しいと祈ったことで。魔族はその知能と魔力を奪われて。その容姿も醜いものに変えられた。それこそがゴブリンであると───。
そのゴブリンは獰猛で人間を見れば襲う。その結果、人間とゴブリンの間に生まれる混血児は先祖帰りであり。美しい容姿と膨大な魔力を持っているというのが『暁のトロイメライ』での設定。
そっと赤ん坊を抱き上げると目をパチリと開き。柘榴石の色をした瞳が私を見詰めて。ほにゃほにゃと笑って頬をぺたぺた触る。この子は片親のいずれかに捨てられてしまった可能性が高い。
なぜダンジョンに。しかも宝箱に偽装された箱に入っていたのかという疑問はあるけれども。ああ、どうしようと腕に赤ん坊を抱えて私は途方に暮れ。一先ずダンジョンを出て。
この子のミルクだとか用立てないとだと。人目を避けてダンジョンを出て。常宿に戻ったところで女将さんと何事か話し込む見覚えのある姿を見つけて噎せた。
思わず踵を返そうとして。通りに詰まれていた木箱に蹴躓き。その物音に腕に抱えた赤ん坊が泣き。その人は勢いよく振り返り。私を見て。というよりも私が赤ん坊を腕に抱えてることに驚愕し。ツカツカと間合いを詰めて私を見下ろす。
お久し振りですアドラムさん。出来れば再会するのは避けたかったですと叫びたくとも。泣く赤ん坊をあやすので精一杯で声も出ないし。赤ん坊がハーフゴブリンと周囲に知られてはまずいと焦っていると。
ひょいと私の腕から赤ん坊を抜き取り。不器用にあやすアドラムさん。目線が高くなったのが嬉しかったのか。或いは抜群の腕の安定感に安心したのか泣き止んで笑いだす赤ん坊を抱えアドラムさんは私に向き直り。
声を仄かに弾ませて私の子かと訊ね。私は気管支に吸い損ねた息を詰まらせてげふげふ噎せた。此処で赤ん坊の基本スペックをお復習しよう。白銀の髪に褐色の肌。横長の耳と柘榴石色の瞳。アドラムさんとそっくりな配色な訳でして。
ついでに言うとあの一夜の過ちがあった日から結構な時間が経っていて。アドラムさんの子供を産んでいてもおかしくなかったりする。汗をダバッと出しながら。否定するよりも早く。アドラムさんは居ずまいを直す。
順序が逆になってしまったが貴女を妻にしたいと真剣な顔で焼け焦げてしまいそうな熱量を伴う眼差しを私に向けた。
何時か、見た。シャーフ王子がスミレ嬢に注いだ眼差しにあったものとは比べようもない程に強くて深い恋慕を滲ませて。
「貴女だけを愛し抜くと誓おう。どうか私の伴侶になると頷いてはくれないか───?」
その言葉を聞いた途端に歓声をあげる周囲にビクリとする。女将さんがまだ喜ぶのは早いよと叱るなか。私はアドラムさんの腕に抱えられた赤ん坊に視線を向けた。
ハーフゴブリンに対する世間の扱いは酷く冷ややかで。孤児となれば過酷な境遇が待っているのは目に見えていた。
そう、誰かが手を差し伸べない限りは。
アドラムさんから赤ん坊を受け取り。ふくふくと笑う純真無垢な笑みを私は守りたいと思ったのだ。だから意を決してアドラムさんに問う。この子を一緒に育ててくれるならばと。
これは元公爵令嬢の冒険者な私が一夜を共にした伝説の傭兵であるアドラムさんとダンジョンに潜りながら。ハーフゴブリンの女の子を育てることになる始まりのお話だ。