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第九十矢 独立独歩

 崇孚が亡くなったという一報はたちまち領内に広がっていった。

 今川の参謀の死に、今川と親交のある者たちは悲しみ、今川と敵対する者たちは喜んだ。

 またその余波は一向一揆や三河の乱にも及び、双方を勢いづける要因となってしまった。


 この事態の最中、俺は独り自分の部屋でボーッと座っていた。

 実感が湧かなかった。

 俺の中ではまだ崇孚は生きて、今でもひょっこりと何事もなかったように姿を見せそうで…


 バチン


 静寂な部屋に頬を叩く音が響いた。


(何をやってるんだ、俺…)


 このままではいけない。

 俺が呆けている今現在も、今川に対する反乱が勢いを増している。

 今川の当主が先頭に立ち、この危機を乗り越えなければならない。

 だが、それでも立ち上がれない。

 その時、とある掛け軸が目に入った。


『独立独歩』


 癖がある太字で力強く書き(つづ)られた四字熟語。


(これは……)



 あれは確か、今川の当主となって間もなかった頃のことだった。


「どうしよっかな~」


 俺は自分の部屋の床で長方形の掛け軸と見つめ合っていた。

 家督争いに勝利した記念に、部屋に掛け軸を飾ろうと思い立ってから早くも二時間。

 なかなか飾るのにふさわしい文字が見つからず、苦戦していた。


「う~ん…どれもこれもなんかしっくりこないんだよなあ。」


 俺は頭をポリポリと掻いて困り果てる。

 すると、俺と共にずっと思案していた崇孚が提案をしてきた。


「独立独歩、というのはどうだ?」


 それを聞き、俺は数秒間固まった後に反応を示した。


「おぉ、かっこいいじゃん。」

「…おぬし、さては意味を知っておらんな。」

「だって国語苦手だもん。特に四字熟語なんて、何言ってんのかわけ分かんないし。」

「全く、おぬしは相変わらずだな…」


 図星を突かれて開き直る俺に対して、崇孚は半ば呆れながらも、独立独歩の意味について説明を始めた。


「独立独歩とは、他者に振り回されず己の道を歩むこと。つまり、己の信念を貫くということだ。」

「信念を貫く…」


 俺がそう呟くと、崇孚が問いかける。


「おぬしは泰平の世を築くと言うておったな。」

「うん。」


 俺は力強くコクリとうなずく。それを確認して、崇孚が言葉を続けた。


「その道は果てしなく遠く、限りなく困難。この先、苦労や迷うこともあるだろう。だからこそだ。」


 崇孚は俺の目をジッと見た。


「今日を大切にせぬ者に明日など来ぬ。過ぎたことに囚われず、己を信じ、今を生きていけ…そのような拙僧の説法を込めてみたのだが、どうだろうか?」


 崇孚の言葉が心に響く。

 俺は感銘を受け、何度もうなずいた。


「うん、めっちゃ良い。掛け軸の言葉、独立独歩にしよう。」


 そうして、独立独歩の文字が部屋に飾られることになったのだった。


 あれから十数年。

 静寂な部屋で、俺はその掛け軸を正面から見ていた。


(何でこんな大切なこと忘れてたんだろ…)


 いつしか見失っていた、自分の信念。

 今ようやく、崇孚のおかげで取り戻すことができた。


 俺は指先で掛け軸にそっと触れ、目を閉じる。

 すると、崇孚との記憶が最近の出来事のように(よみがえ)る。

 寺での出会い、今川家での日々、そして訪れた別れの時。


「結局、最後まで助けられっぱなしだったなぁ…」


 目をゆっくりと開け、掛け軸から手を放す。


「ありがとう、俺の師で親友(とも)だった人。」


 俺は崇孚に別れを告げ、部屋の外へと出た。

 風が吹いていた。

 それは心地の良いそよ風。

 もう立ち止まらない。

 俺は前を見る。

 崇孚と描いた、果てしない夢へと向かって―

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