第八十七矢 不穏
信濃国の北を流れる犀川。
その川を挟んで、二つの大軍が対峙していた。
事の発端は善得寺の会談以前に遡る。
今から二年前のこと、武田晴信は宿敵であった村上義清に対して、葛尾城の戦いで勝利を収めた。
「おのれ武田、おのれえぇぇ…」
敗れた義清は葛尾城を放棄せざるを得なくなり、越後国の長尾景虎の元へと逃げ延びた。
そして武田は長尾と北信濃の覇権を巡り、戦に発展していったのだった。
「見事なり、長尾よ。」
武田晴信は遥か対岸に見える長尾の軍勢を褒め称えた。だが、言動とは裏腹に晴信の表情は険しい。
戦が始まって五ヶ月、未だに決着つかず。
戦は膠着状態となっていた。
戦の長期化により武田軍では、兵の士気の低下と兵糧の不足が顕著に現れて始めていた。
(もはや、この戦に利はなし。)
この状況で長尾と戦えば、勝利できたとしても自軍の被害は甚大になることは必須。
そう考えた晴信は和睦へと切り替えたのだ。
そこで両軍の仲介を影響力を持ち、かつ長尾と明確に対立していない俺こと今川義元に頼んできた。
(仲介かぁ…)
正直、面倒くさいというのが本音だ。
だが、武田には戦の際に何度も助けてもらっているし、何より三国同盟を結んでいる。
「まあ、断るわけにはいかないよね。」
ということで、俺は和睦の条件を両軍に提示した。
それは両軍が川中島から撤退する代わりに、川中島の元の領主に土地を返上するというもの。
戦に疲れ果てていた両軍はこれに合意して、長尾と武田の戦は休戦となったのだった。
それから、ひと月ほど経った駿府館。
政務が一段落ついた俺は自分の部屋で昼寝をしていた。
その俺を誰かが揺さぶって、何か言っている。
(誰…?)
俺が声に耳を澄ますと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「―の…殿。」
全てを包み込むような優しい声色。
「多恵!?」
俺は咄嗟に目を開け、ガバッと起き上がった。だが、そこには多恵の姿はなく、部屋には俺以外の人はいなかった。
「なんだ、夢か…」
ため息を一つついて、俺はまた仰向けになる。
(暇だなー…)
こんな時はだいだい崇孚と他愛もない雑談をしているのだが、崇孚は現在体調を崩しており、療養中。
妻も相談相手もいない駿府館はどこか寂しく感じた。
(あの頃が懐かしい…)
まだ今川の当主になって間もなかった頃を思い出して、俺は少々感傷的になっていた。
遠江国―
雨が滝のように降りしきり、雷鳴が轟き渡る。
そんな嵐の最中、雨に打たれる僧侶の姿があった。
僧侶の名は実誓。
かつて、一向一揆を主導していた玄海の弟子だった僧侶だ。
「…やはり、阿弥陀様もお怒りになられておられる。」
実誓は雨が降り止まぬドス黒い空をただ見上げていた。
すると、かつての一向一揆からの付き合いである行商人が駆け寄ってきた。
「こんなところで何をしておられるのですか!」
そんな行商人の声を無視して、実誓が聞いた。
「例の首尾はどうなりましたか?」
少し沈黙の後、行商人は答える。
「…上々にございます。」
「左様ですか……」
実誓は行商人の良い報告を聞き、口角が少し上がる。そして、目を爛々と輝かせて両手をバッと広げたと思えば、天に向かって言い放った。
「時は来ました!今こそ仏敵を討ち、この国を救うのです!!」
目の前に広がる異様な光景に、行商人は呆然と立ち尽す。
(俺たちは…これでよかったのか…?)
降り注ぐ雨が、さらに激しさを増していた。




