第八十一矢 花、散りゆく時
それは突然のことだった。
俺がいつものように仕事部屋で政務を行っていると、ドタドタと慌ただしい音が廊下から聞こえてきた。
そして次の瞬間、髪を取り乱した多恵のお付きの侍女が現れた。
俺は突然現れた侍女に驚いて聞いた。
「何かあったの?」
「奥方様がっ…奥方様が!!」
侍女の並々ならぬ様子に嫌な予感がして、俺はすぐさま部屋を出た。
俺が侍女の案内で多恵の元へと行くと、多恵が部屋内で倒れていた。
顔色は悪く、息も辛そうにしている。
俺はすぐさま今川家専属の薬師を呼んで、多恵のことを診てもらった。
診察が終わると、薬師と俺は部屋の外へと出た。
薬師は険しい表情を浮かべていた。
その薬師に対して、俺はおそるおそる聞いた。
「多恵は治りますか?」
「わかりませぬ…」
「え?」
「病がどのようなものなのか、私にも全くわからぬのです。」
「そんな…」
俺が絶句していると、薬師は今後の対応について重々しい口調で話す。
「ひとまずは、一通りの薬を処方いたしましょう。」
その後、俺は政務を行う時以外は付きっきりで多恵の看病をした。
また俺が政務を行っている時は、武田信虎が多恵の看病をした。
「多恵、わしより先に死んではならぬぞ。おぬしはまだ生きねばならぬ!」
「はい、わかっております父上。」
必死に自身の娘を励ます信虎に対して、多恵は辛そうにしながらも微笑みを浮かべていた。
しかし多恵の病は治ることなく、むしろ日を追うごとに悪化していった。
俺はみるみる痩せ細っていく多恵の体を見ると、その度に辛くて仕方がなかった。
そうして一週間ほど経ったある日、珍しく多恵が俺に要望を出した。
「殿と共に庭園が見とうなりました。」
「わかった。その代わりに絶対無理しちゃダメだからね。」
俺はそばにいた小姓たちに命じて、動けない多恵を庭園が見える廊下の軒下まで連れていった。
そして二人は廊下の軒下に座り、朝の日差しが差す庭園を眺める。
庭園では桜の花は散っていき、初夏が訪れようとしていた。
「美しゅうございますなあ…」
「うん。」
しばらくの間、二人は言葉を交わさず無言で庭園を眺めていた。すると、多恵がポツリと俺に言った。
「死にたくありませぬ。」
俺は多恵の方を見た。
そこには大粒の涙を流す多恵の姿があった。
「殿、私は死にたくありませぬ…!」
今まで、大病を患っても笑みを絶やさなかった多恵。
人々は彼女のことを心の強い人と呼ぶだろう。
だがそれは違う。
死を恐れぬ人間など、この世にいないのだ。
俺は多恵を抱き締めた。
多恵は俺の胸の内で涙が枯れるまで泣き続けた。
二人の間に言葉はなかった。
言葉など必要なかった。
少しして多恵は落ち着いて、再び庭園の方を眺めていた。
庭園は季節は変われど、昔とほとんど変わっていなかった。
「殿、私が以前、この場所で京に行きたいと申したことを覚えておりまするか?」
「うん、覚えているよ。まだ子供たちが小さかった時のことでしょ?」
「はい、懐かしゅうございますね。」
多恵は子供たちが遊んでいる光景を思い出して懐かしんだ。
そして、少し躊躇いを見せながらも俺に話を切り出した。
「私の頼みを聞いてださりませぬか。」
「頼み?」
俺がそう聞き返すと、多恵は面と向かって俺に力強く言った。
「私の分まで、どうか子らを見守ってくださいませ。」
多恵の残酷な頼み事に、俺は沈黙してしまった。
「俺はっ……」
俺はまだ多恵と一緒にいたい
そう言いかけて、俺は口をつぐんでしまった。
先ほどまであれだけ泣いていた多恵が今まで見たことがないくらい優しい顔をしていたのだ。
俺は直感でわかってしまった。
多恵がもう長くないことを。
俺は涙をこらえるために多恵の方を見ずに、なるべく明るい声で言った。
「わかった、約束する。」
「…かたじけのうございます。」
その言葉を聞いて安心したのか、多恵は目をゆっくりと閉じて俺にもたれた。
「多恵?」
俺が多恵に呼びかけるが、返事はない。
「多恵…多恵ってば。」
しかし、多恵の返事はない。
「多恵、冗談だよね?そう言ってよ。」
それでも、多恵からの返事がなかった。
俺は多恵の方を見ることができなかった。
見たら、多恵との日々が終わってしまうようで怖かった。
俺は多恵の手を強く握りしめた。
目の前が涙で見えない。
「お願いだから、返事をしてくれ…!」
多恵、死去。
享年三十二。
彼女が最後に着ていたのは、ほんのりと赤い、花の模様で彩られた着物だったという。




