第七十四矢 人質交換
尾張国・末森城
「……そうか、ご苦労であった。」
織田信秀は平手政秀に一連の戦の報告を受けていた。
「まことに、まことに申し訳ありませぬ…!」
政秀は床に頭がつくほど、深々と頭を下げる。
「もうよい、面を上げよ。」
「!ですが…」
「くどい。もはや過ぎ去ったことじゃ。下がるがよい。」
「はっ…」
政秀が元気なく返事をして部屋から去り、部屋には信秀のみがポツンと一人でいた。
安祥城は落城し、三河国で猛威を振るっていた一向宗も鎮圧された。そして、その三河国の国主である松平の当主はまだ幼い。
近々、確実に今川は三河国を支配するだろう。
(流れは今川にあり、か…)
もう三河進出などと戯言を言っている場合ではない。これからはどのようにして今川の侵攻を食い止めるかを考え、今川と対していかなければならない。
自身がまだ動けるうちに―
「ゴホッゴホッ…」
信秀が口を手で押さえると、手のひらには赤黒い血がついていた。
信秀は無言で血を拭き取ると、盃に酒を注いだ。
「…全く歳は取りたくないものだ。のう、義元よ。」
信秀は遙か遠くにいる義元に呼びかけ、盃に注がれた酒を一口飲んだ。
「クシュン!…誰か俺の噂をしたのかな?」
俺は鼻をすすって、前方の駿府の町を見やった。
織田軍、一向宗の軍勢と立て続けに勝利を収めた俺たちは、これ以上の進軍は不可能だと判断して駿府館へと帰還したのであった。
「あー疲れた。一眠りしてこよ。」
俺は駿府館に到着するやいなや兜と甲冑をササッと脱ぐと、自分の部屋へと一直線に向かった。
そうして小姓を引き連れ廊下を歩いていると、
「父上ぇー!!」
と言いながら、今年で十歳になったばかりの福姫がドタドタと走ってきた。
「お帰りなさいませ!」
「相変わらず元気だねー…」
「福と遊んでくださいまし!」
「後でねー」
俺は疲れ気味に福の頭を撫でていた。すると、福の後方から蓮嶺姫と多恵が歩いてきた。二人の歩いてくる所作やしぐさは瓜二つである。
その二人の後ろからは五郎と五郎の小姓たちも歩いてきていた。
多恵は俺にニコリと微笑んだ。
「お帰りなさいませ、殿。」
「うん、ただいま。蓮嶺と五郎も元気だった?」
俺がそう言うと、五郎はムスッと少し不機嫌になった。
「私はもう五郎ではありませぬ。元服し、氏真になり申した。」
「あ、そうだった。ごめんごめん。」
実はこの今川五郎。
俺が田原城を包囲していた時に、元服して今川氏真と改名していたのだ。
だが、俺は多恵とつけた名前である”五郎”が気に入っているので、本人のいないところでは密かに五郎と呼んでいる。
「でも氏真もあっという間に成人か~、まだまだ子供だと思ってた。」
「はい、子の成長というのは早うございますなあ。」
俺と多恵は感慨深く、成長した子供たちをしみじみと眺めていた。
数日後、俺はさっそく行動を起こした。
織田に対して、松平竹千代と織田信広始めとする捕縛した将たちとの人質交換を要求したのである。
「良かろう。断る理由がないわ。」
そんな俺の要求を聞き、信秀はそれに応じた。
大敗した軍を立て直す時間が少しでも欲しかった。だから一時的な休戦は織田にとって、とてもありがたかったのだ。
これによって、一時的に織田と今川の間で和議が結ばれることとなった。
人質交換の際に当たって、両者の仲介を務めたのは知多半島一帯を支配していた水野家であった。
水野は織田と同盟を結んだ仲であり、また今川とは密かに通じていた仲であった。
ゆえに、両者と繋がりがある水野は仲介役にうってつけだったのだ。
当日、水野の仲介の元で尾張国にある笠覆寺にて両者は人質交換に臨んだ。
竹千代を政秀が、信広を崇孚がそれぞれ相手方へと引き渡す。
そして信広は信秀の元へ、竹千代はひとまず俺のいる駿府館へと送られたのだった。
それから数ヶ月後、信秀は病で死去することになる。享年四十二。
織田家にとって、困難が続く中での訃報であった。




