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第五十七・五矢 泣き虫とうつけ者

 尾張国にある寺、松平竹千代は一人その寺の部屋にてあることを忘れようと、ひたすら勉学に打ち込んでいた。


(父上…)


 じわりと竹千代の目からは涙がにじみ出ていた。


 父上が病で死んだ。

 そう織田の家臣から聞かせられた時は実感が全く湧かなかった。

 だけど、時間が経つにつれて徐々に実感すると共に悲しみが襲ってきた。

 兄弟はいないし、母は物心つく頃にはいなかった。

 自分が家族と呼べる人はもうこの世にはいない。竹千代は一人だった。


(ええい泣くな、泣くなわし!)


 竹千代は目をゴシゴシと拭って、涙を流すまいとした。

 ここで涙を流してしまったら、今まで我慢していたものが一気に崩れ落ちるような気がした。

 そんな時、勢いよく(ふすま)が開いた。

 竹千代がバッと襖の方を見ると、そこには一際奇抜な着物に片手にひょうたんを持った、いかにもならず者の格好をした青年が突っ立ていた。青年はぶっきらぼうに口を開いた。


「よう、お前が竹千代か?」

「そ、そうじゃがそれがどうした。」


 突然見知らぬならず者が自身のことを聞いてくる。

 竹千代が今の状況に困惑しながらもうなずくと、青年はズイッと顔を竹千代に近づけた。

 青年が首をひねって竹千代の顔面を至近距離で見ていると、


「そうだ、子狸(こだぬき)に似ておるのだ!」


 と思いついたかのように言った。

 その言葉を聞いた竹千代は唖然としたのち、カッとなった。


「なっ…いきなり現れて無礼ではないか!そもそも、なぜならず者がわしのことを知っておる!」

「ならず者?」


 青年は聞き返すと、豪快に笑った。


「何がおかしい!」


 竹千代は顔を真っ赤にしてさらに怒る。

 すると、青年がヒーヒーと(もだ)えながら言った。


「そうかそうか、俺が農民に見えたか。」

「では誰なんじゃ!」

「俺は織田信長だ。」

「は…織田…?」

「ああ。」


 そういえば、前にうわさで聞いたことがある。

 織田信長。確か織田家の嫡男で、大うつけ者と呼ばれていたような…


 竹千代はチラッと今一度青年の姿を見る。


(確かに奇抜な格好をしておる…)


 竹千代は青年が信長であることを確信し、手を地面につけて頭を下げた。


「し、失礼し申した…!てっきり、その風貌(ふうぼう)からしてならず者かと…」

「別に気にしておらん。それと、タメ口でよいぞ。敬語は暑苦しくて苦手だ。」


 すると、途端に竹千代の口調が強くなった。


「では、その信長殿が何の用なのじゃ!」

「急に威勢がよくなったな。見ていて面白い奴だ。」


 信長は竹千代の問いに答えた。


「三河から来た松平のせがれがどんなやつか見たかった。それだけだ。」

「それだけ?」

「ああ、後は暇つぶしに来た。いかんせん、平手のじいとの稽古(けいこ)などつまらなくてな。城から抜け出してきた。」


 そう言い終わると、信長はグイッと竹千代の腕をつかんで廊下へと出た。


「さあ、遊ぶぞ!まずは相撲だ!」

「え、ちょっ…」


 信長は竹千代に返答の時間を与えることなく、半端強引に竹千代を寺の外へと連れて行った。


 それからというもの、信長と竹千代は相撲や川遊びなどをして一日中遊んだ。

 竹千代にとってどれもしたことのない遊びばかりで新鮮で、正直言って楽しかった。

 そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか夕方になっていた。


「さて、そろそろ帰るとするか。平手のじいは今頃、俺を探しておるだろうなあ。」


 信長はクククと笑って、竹千代を寺まで送り届ける。

 その帰路の途中のこと、信長はふと竹千代に問いかけた。


「…なあ竹千代。お前には野望はあるか?」

「野望?」


 竹千代はうーんと考え込む。

 その反応を見て信長はまたもや笑った。


「野望を抱くにはまだ竹千代には早かったか。」


 竹千代はムッとして聞いた。


「では、信長の野望とは何なのだ?」


 信長はしばらく沈黙したのちに、竹千代に向けて言い放った。


「この世の頂に立つことだ。」


 その言葉を聞き、竹千代は呆れた。

 この世の頂に立つ。それはすなわち、天下統一を成し遂げると言っているのだ。

 夢物語だ。どうせ織田なんか今川や六角といった大勢力に潰されて終わりに決まっている。


 しかし目を輝かせている信長を見て、竹千代は思った。


(楽しそうだなあ。)


 赤く美しい夕焼けが二人を照らしていた。


 翌日、竹千代は今日も勉学に励んでいた。

 しかし、それは悲しいことを忘れたいがためではない。

 父上の跡を継いで、立派な松平家の当主になるためである。

 昨日の信長を見ていたら、ウジウジとしていた自分が馬鹿らしくなった。だからこそ、今日からは前を向いて進んでいこうと決めたのだ。


(父上、見ていてください。竹千代は必ずや立派な当主になってみせまする!)


 竹千代は前へと進み始めた。


 彼らはまだ知らない。

 後に自分たちがこの時代を席巻することになるのを―

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