第五十矢 あの男
先に動いたのは今川軍であった。
(ここまで来ていたとは、少し想定外だな。)
崇孚は驚きはあったものの、目の前の敵を撃破しようといち早く指示を出した。
「だが、逆に好都合だ。」
今川・松平軍が一万二千余りに対して、織田軍はたったの四千。約三倍もの差がある。
また、奇襲ならばともかく、相手の様子を窺うに今回のはおそらく鉢合わせだろう。今川・松平軍の優位は変わらない。
そして、この丘の上をちょうど進軍していたことで丘に布陣することができた。丘に生えている茂みは今川軍にとって、《《ある意味使える》》。
兵数・地の利で織田軍に優っていた分、今川軍には若干の余裕があったのだ。
それもあってか、今川軍はすぐさま落ち着いて茂みでも構わず横に広がって、織田軍になだれ込む形となった。松平軍もそれに続いた。
一方、今川・松平軍に先手を打たれた織田軍は後手に回る。
「落ち着け!」
雨音に負けじと声を張り上げて、動揺している兵を落ち着かせようとするのは織田信広。庶子であるため織田家の嫡男ではないが、信秀の長子である。
信広の活躍もあって織田軍は落ち着きを取り戻した。が、今川・松平軍には依然として苦戦を強いられていた。
この大雨の中で、今川兵が次々に茂みの中から突如現れると思いきや、織田兵を的確に倒していく。それが小刻みに何度も繰り返される。
大雨による視界の悪さと相まって、この茂みは盾のような役割を果たしており、今川軍はゲリラ戦のような戦いを展開していたのだ。
信広は戦況を冷静に見つめ判断をする。
(今ここで戦っては兵の損失が広がるのみ。ならば…)
「退却せよ!」
信広は兵らを一時後退させた。
「追撃せよ。」
つかさず今川軍が追撃しようとするも、織田兵は波のように退いていき、今川軍の攻撃をかわした。
「信広様は一体何をしておられるのだ。」
そんな信広の判断に織田軍の武将がどよめく。
しかし、その武将たちの大将の反応は違った。
「信広め…子の分際でわしを遣う気か、面白い!」
信秀は信広の狙いに気づき、いち早く本陣を今川・松平軍が織田軍を認識できない距離まで押し上げる。
それからしばらくの時が過ぎた。雨は一向に止む気配はない。それどころか、さらに激しく降り始めた。
両者ともに少し緊張の糸がほぐれる頃、丘の麓にいた今川兵は一つあくびをした。その時、目の前に現れたのは信秀だった。
「なっ…!」
突然のことに槍を突く間もなく今川兵の胴体が宙に舞った。
「皆の者、続けぇー!」
信秀の声と共に織田兵たちが続いた。
織田軍は今川・松平軍が多少なりとも油断していたところを信秀自らが先陣を切って再度強襲したのだった。
これにより、最前線にいた今川兵が蹴散らされるのだが、瞬く間に織田軍は丘の中腹まで駆け上がってきた。
織田軍の強さはここにあった。
織田軍は行動の速さが尋常ではないのだ。
ゆえに、例え先手を打たれたり奇襲攻撃を受けたりしても軍を立て直すのが速いし、状況に応じた立ち回りが非常に上手い。
だからこそ、大軍相手でも勝つことができるのであろう。
しかし、今川・松平軍もそれを指をくわえて見ているわけではない。
崇孚は軍を立て直して、高低差を活かした戦いで織田軍に対抗した。
(似ているな、奴に…)
織田軍と対峙しながら、崇孚はある男を思い出していた。
崇孚はこのような敵と過去に一度相対している。
まだ義元が今川家当主になってまもなくの頃に争ったあの男。
挙兵してから、一日かからずに駿府館へと押し寄せたあの男。
そう、かつて今川家の家督争いで玄広恵探を担ぎ上げた重臣・福島正成を崇孚は思い出していた。
義元軍に勝ちこそしなかったが、その速さは義元派の家臣を驚かせた。
この織田軍は同様かそれ以上の速さを有しているのだ。
ただ、信秀と正成に違いがあるとすれば、正成が二、三城レベルの兵を率いて為していたのに対して、信秀は一国の軍勢を率いて為し上げているということである。
崇孚は戦慄を覚えた。
この速さはいずれ今川の脅威になり得るかもしれない、と。
(…そうなる前に今ここで潰さねばな。)
大雨の中の戦いは続く。




