表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

第9話 疑惑のサーモン

イヴァンの苦しげなひとことを聞いて、アーニャは動揺しつつも、慎重に問い返した。


「塩漬けサーモンを食べて、お客さんに症状が……?」

「ああ、そうだ」


重々しくうなずくと、イヴァンはふぅと長いため息をついた。それから、眉根を寄せて静かに語りだす。


「俺がここで宿屋を始めて半年ほどは、結構繁盛していたんだ。隣のカムリ村から、メシだけを食べにくる連中もいて、ランチタイムには食堂としても営業していたくらいだ。村の連中とも、うまくやっていたんだが──それも、ある日俺が起こした“事件”で、すべて変わってしまった」


その日ランチに、村から数組の客がやってきた。そのうちの一組が、村で鍛冶屋を営むリョーシャという若い男と、その息子のヴォロージャだった。

その日のメニューは、生サーモンの塩漬け。朝獲ったばかりの新鮮なサーモンをさばき、オイルと塩、ハーブで軽くマリネして、黒パンと一緒に提供したという。


「皆うまそうに食っていたよ。それまでにも、何度も同じメニューを出していたし、一度も食中毒を起こしたことはない。だから、正直に言って驚いたよ。急にヴォロージャが苦しみだしたんだ……」


ヴォロージャ少年は、サーモンが大好物だったらしい。パンにのせて、大きなサーモンを10切れほどは食べていたそうだ。

そして食後3時間くらい経った頃。父親のリョーシャは、食堂で紅茶を飲みながら村人たちとくつろいでいた。ヴォロージャは外で大型犬のキリルとじゃれて遊んでいたのだが、急にキリルが激しく吠え出した。

慌てて皆でヤドリギ亭の外に出てみると、ヴォロージャが雪の中でうずくまって苦しんでいた。


「症状は、おもに腹痛ですか…?」


アーニャがおずおずと尋ねると、イヴァンは険しい表情でうなずいた。


「ああ、腹痛と嘔吐だ。特に腹痛は激痛だったようで……見ているだけでもつらかった」


イヴァンは苦しげに唇を噛み締め、アーニャは彼の背中をそっとなでることしかできなかった。


当初イヴァンは、食中毒を起こしてしまったのだと思ったという。だが、ヴォロージャ以外の客もすべて同じサーモンを食べたというのに、腹痛を起こしたのは彼だけだった。

さらに言うと、症状も特殊だった。通常食あたりを起こすと、腹痛・嘔吐に加えて下痢もみられるはずだが、ヴォロージャが訴えたのは腹痛と嘔吐だけだった。食中毒に効果があると言われる薬は基本的に「下痢止め」の作用を持つものが多く、薬を飲んでも効果は薄かった。ヴォロージャは、三日三晩腹痛に苦しみ続けたという。


「俺にはなすすべもなく……ただ少しでも症状が軽くなるように、レモン水やハーブを用意することくらいしかできなかった。無力だったよ」


イヴァンの灰色の目が、自身への怒りで一瞬ギラリと光る。だがすぐに、その瞳は苦悩の色に染まっていった。


「原因はわからないまま、ヴォロージャは苦しみ続け、とうとう村人たちは俺を疑い始めた。──俺が、食事に毒を盛ったんだろうって」


イヴァンは苦々しげにそう言って、視線を落とす。その表情を見て、アーニャは胸が押しつぶされるような思いだった。


「イヴァンさんが毒を盛るなんて……絶対にありえません」

「……どうだろうな。少なくとも、村人たちはそうは思わなかった」


噂はあっという間に広がっていった。

幸いにも、ヴォロージャは三日経つと症状がおさまり、すっかり元気になった。しかし、「ヤドリギ亭の主人が、子どもの食事に毒を盛ったらしい」という噂は、イヴァンに憎悪の目を向けさせるのは十分だった。


「そもそも俺はよそ者だったからな。宿を開業したときも、最初はずいぶん警戒されたものだ。それでも少しずつ、村の人たちから受け入れてもらえたと思っていたのだが……」


イヴァンは肩をすくめて、自嘲するように口元に歪んだ笑みを浮かべた。


──イヴァンさんは傷ついてる……。


イヴァンの心の痛みが伝わってくるようで、アーニャはぐっと拳を握り締める。

彼が毒を盛ったなんてありえない。そのことは、確信を持って言える。


──だけど……食中毒でもないのに、ひとりだけサーモンを食べて具合が悪くなってしまったのはなぜだろう?


アーニャは顔をしかめて、思考を巡らせる。


「もしかして、その子……ヴォロージャは、魚にアレルギーがあったのでは?」

「いや、それはない。ヴォロージャは事件が起こる前も何度もサーモンやイワシを食べていた。それまでは一度も腹痛を起こしたことなどないんだ」

「うーん……それじゃ、いったいなんでそんなことに……」


考え込むアーニャをみて、イヴァンはふっと目元を和らげた。


「──まさか、俺を信じて一緒に悩んでくれる人がいるなんて、思いもしなかった」

「え?」


イヴァンの小さなつぶやきが聞き取れず、思わず聞き返すと、イヴァンは寂しそうに微笑して立ち上がる。


「もう二度と、うちに宿泊客は来ないだろうと思っていた。これが最後の客になるかもしれないが──おまえのおかげでまた俺の料理を食べてもらうことができた。ありがとう、アーニャ」


アーニャは胸が熱くなり、涙がこみあげそうになるのを必死でこらえた。


「なんですかっ……その、“俺の人生、もう悔いはない”みたいな物言いは……! あきらめちゃダメです、イヴァンさん! 村の皆さんにもわかってもらいましょうよ」

「それは難しいだろう。何しろ、俺が毒を入れていないと証明する手立てがないのだから」


イヴァンは妙にすっきりとした顔でそう言うと、皿を戸棚に片付け始める。


「さ、今日はもう遅い。おまえもそろそろ寝ろ」

「うーん……でも……」


──朝獲れたばかりの、新鮮なサーモンの塩漬け。腹痛を起こしたのはひとりだけ。激しい腹痛が三日三晩続き、下痢症状はなかった……。


頭の中で状況を整理しながら、アーニャは必死で記憶をたどる。


──なんか、そんな話をテレビとかで見たことがある気がする……。ううん、テレビじゃない。寿司チェーン店の経営改善の案件にアサインされたとき……確かお店のご主人がこう言っていた。


『サバやサーモンはやっぱり、冷凍に限るな!』


「ああっ!!!!」


突然大声を上げたアーニャに、イヴァンは驚いたように目を見開く。


「な、なんだ? どうした?」

「あの、原因、わかりました! やっぱり食中毒だったんですよ」


アーニャは黒い目をキラキラと輝かせて、イヴァンを見つめる。


「──それ、たぶん、一度冷凍すれば解決します!」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ