第9話 疑惑のサーモン
イヴァンの苦しげなひとことを聞いて、アーニャは動揺しつつも、慎重に問い返した。
「塩漬けサーモンを食べて、お客さんに症状が……?」
「ああ、そうだ」
重々しくうなずくと、イヴァンはふぅと長いため息をついた。それから、眉根を寄せて静かに語りだす。
「俺がここで宿屋を始めて半年ほどは、結構繁盛していたんだ。隣のカムリ村から、メシだけを食べにくる連中もいて、ランチタイムには食堂としても営業していたくらいだ。村の連中とも、うまくやっていたんだが──それも、ある日俺が起こした“事件”で、すべて変わってしまった」
その日ランチに、村から数組の客がやってきた。そのうちの一組が、村で鍛冶屋を営むリョーシャという若い男と、その息子のヴォロージャだった。
その日のメニューは、生サーモンの塩漬け。朝獲ったばかりの新鮮なサーモンをさばき、オイルと塩、ハーブで軽くマリネして、黒パンと一緒に提供したという。
「皆うまそうに食っていたよ。それまでにも、何度も同じメニューを出していたし、一度も食中毒を起こしたことはない。だから、正直に言って驚いたよ。急にヴォロージャが苦しみだしたんだ……」
ヴォロージャ少年は、サーモンが大好物だったらしい。パンにのせて、大きなサーモンを10切れほどは食べていたそうだ。
そして食後3時間くらい経った頃。父親のリョーシャは、食堂で紅茶を飲みながら村人たちとくつろいでいた。ヴォロージャは外で大型犬のキリルとじゃれて遊んでいたのだが、急にキリルが激しく吠え出した。
慌てて皆でヤドリギ亭の外に出てみると、ヴォロージャが雪の中でうずくまって苦しんでいた。
「症状は、おもに腹痛ですか…?」
アーニャがおずおずと尋ねると、イヴァンは険しい表情でうなずいた。
「ああ、腹痛と嘔吐だ。特に腹痛は激痛だったようで……見ているだけでもつらかった」
イヴァンは苦しげに唇を噛み締め、アーニャは彼の背中をそっとなでることしかできなかった。
当初イヴァンは、食中毒を起こしてしまったのだと思ったという。だが、ヴォロージャ以外の客もすべて同じサーモンを食べたというのに、腹痛を起こしたのは彼だけだった。
さらに言うと、症状も特殊だった。通常食あたりを起こすと、腹痛・嘔吐に加えて下痢もみられるはずだが、ヴォロージャが訴えたのは腹痛と嘔吐だけだった。食中毒に効果があると言われる薬は基本的に「下痢止め」の作用を持つものが多く、薬を飲んでも効果は薄かった。ヴォロージャは、三日三晩腹痛に苦しみ続けたという。
「俺にはなすすべもなく……ただ少しでも症状が軽くなるように、レモン水やハーブを用意することくらいしかできなかった。無力だったよ」
イヴァンの灰色の目が、自身への怒りで一瞬ギラリと光る。だがすぐに、その瞳は苦悩の色に染まっていった。
「原因はわからないまま、ヴォロージャは苦しみ続け、とうとう村人たちは俺を疑い始めた。──俺が、食事に毒を盛ったんだろうって」
イヴァンは苦々しげにそう言って、視線を落とす。その表情を見て、アーニャは胸が押しつぶされるような思いだった。
「イヴァンさんが毒を盛るなんて……絶対にありえません」
「……どうだろうな。少なくとも、村人たちはそうは思わなかった」
噂はあっという間に広がっていった。
幸いにも、ヴォロージャは三日経つと症状がおさまり、すっかり元気になった。しかし、「ヤドリギ亭の主人が、子どもの食事に毒を盛ったらしい」という噂は、イヴァンに憎悪の目を向けさせるのは十分だった。
「そもそも俺はよそ者だったからな。宿を開業したときも、最初はずいぶん警戒されたものだ。それでも少しずつ、村の人たちから受け入れてもらえたと思っていたのだが……」
イヴァンは肩をすくめて、自嘲するように口元に歪んだ笑みを浮かべた。
──イヴァンさんは傷ついてる……。
イヴァンの心の痛みが伝わってくるようで、アーニャはぐっと拳を握り締める。
彼が毒を盛ったなんてありえない。そのことは、確信を持って言える。
──だけど……食中毒でもないのに、ひとりだけサーモンを食べて具合が悪くなってしまったのはなぜだろう?
アーニャは顔をしかめて、思考を巡らせる。
「もしかして、その子……ヴォロージャは、魚にアレルギーがあったのでは?」
「いや、それはない。ヴォロージャは事件が起こる前も何度もサーモンやイワシを食べていた。それまでは一度も腹痛を起こしたことなどないんだ」
「うーん……それじゃ、いったいなんでそんなことに……」
考え込むアーニャをみて、イヴァンはふっと目元を和らげた。
「──まさか、俺を信じて一緒に悩んでくれる人がいるなんて、思いもしなかった」
「え?」
イヴァンの小さなつぶやきが聞き取れず、思わず聞き返すと、イヴァンは寂しそうに微笑して立ち上がる。
「もう二度と、うちに宿泊客は来ないだろうと思っていた。これが最後の客になるかもしれないが──おまえのおかげでまた俺の料理を食べてもらうことができた。ありがとう、アーニャ」
アーニャは胸が熱くなり、涙がこみあげそうになるのを必死でこらえた。
「なんですかっ……その、“俺の人生、もう悔いはない”みたいな物言いは……! あきらめちゃダメです、イヴァンさん! 村の皆さんにもわかってもらいましょうよ」
「それは難しいだろう。何しろ、俺が毒を入れていないと証明する手立てがないのだから」
イヴァンは妙にすっきりとした顔でそう言うと、皿を戸棚に片付け始める。
「さ、今日はもう遅い。おまえもそろそろ寝ろ」
「うーん……でも……」
──朝獲れたばかりの、新鮮なサーモンの塩漬け。腹痛を起こしたのはひとりだけ。激しい腹痛が三日三晩続き、下痢症状はなかった……。
頭の中で状況を整理しながら、アーニャは必死で記憶をたどる。
──なんか、そんな話をテレビとかで見たことがある気がする……。ううん、テレビじゃない。寿司チェーン店の経営改善の案件にアサインされたとき……確かお店のご主人がこう言っていた。
『サバやサーモンはやっぱり、冷凍に限るな!』
「ああっ!!!!」
突然大声を上げたアーニャに、イヴァンは驚いたように目を見開く。
「な、なんだ? どうした?」
「あの、原因、わかりました! やっぱり食中毒だったんですよ」
アーニャは黒い目をキラキラと輝かせて、イヴァンを見つめる。
「──それ、たぶん、一度冷凍すれば解決します!」