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第8話 きのこのつぼ焼き

半年ぶりに、二人の宿泊客が訪れたヤドリギ亭。

その日の夕食は、「きのこのつぼ焼き」だった。


「まず、鶏肉ときのこ、玉ねぎをバターで炒めていく。火が通ったら、ミルクとサワークリーム(スメタナ)を加えるんだ」


イヴァンは手際よく調理を進めていく。アーニャはイヴァンの助手として、指示されたとおりに地下の冷蔵室からミルクとスメタナを持ってきた。


「はい、先生! ミルクとスメタナです!」

「ありがとう、助かった」


イヴァンはふっと目元を和らげてミルクの瓶を受け取ると、鍋へドボドボと加えていく。ひと混ぜすると、今度はスメタナをスプーンですくって加える。


──クリームシチューみたいなスープ……この時点ですでに美味しそう。


鍋からは、早くもクリーミーな良い香りが漂ってきた。味見させてくれと懇願しようとしたところで、鍋にフタをされてしまった。


「これで少し煮込むぞ。その間に、生地づくりだ」

「はいっ!」


卵と牛乳、小麦粉、砂糖、塩を混ぜ、1時間ほど発酵させた生地を、麺棒で丸く伸ばしていく。

小さなピザ生地のような形に整えると、イヴァンは丸い深皿に鍋からシチューを注ぎ、その上に生地をすっぽりとかぶせた。


「あっ、チキンポットパイみたいなやつ!!」


思わずアーニャが声を上げると、イヴァンは不思議そうに首をかしげた。


「ポット……? よくわからんが、確かにこれはパイ(ピローグ)料理の一種だな」

「これを、オーブンに入れて焼くんですね?」

「その通り」


イヴァンは嬉しそうにうなずくと、オーブンの中に生地をかぶせた深皿を次々に入れていった。


「あとは15分ほど焼けば完成だ」

「それじゃ、その間にテーブルをセッティングしちゃいますね」


アーニャは食堂のテーブルに、ナプキンとカトラリーを並べていく。今朝まではアーニャとイヴァンふたりきりの食卓だったが、今夜は宿泊客がいるのだ。アーニャは鼻歌をうたいながら、銀のポット(サモワール)からお湯をそそぎ、お茶を淹れた。


しばらくすると、香ばしい匂いが食堂にたちこめてくる。その匂いにつられるように、旅人の男たちが食堂へやってきた。


「いい匂いだな」

「そろそろメシの時間かい?」

「もうすぐスープができるところです! こちらへ座ってください」


アーニャは満面の笑みで、二人をテーブルへ案内する。

雪イチゴのヴァレーニエを添えた熱々のお茶を出してから、黒パンとチーズ、ハムがのった大皿を並べる。


そこで、タイミングよくチキンポットパイ──「きのこのつぼ焼き」が焼きあがったようだ。イヴァンが、木のトレイにのせたお皿を運んでくる。


「今日のメインは、きのこのつぼ焼きだ」


イヴァンがテーブルにこんがりと焼けたつぼ焼きのお皿を置くと、旅人たちは嬉しそうに目を輝かせた。


「きのこのつぼ焼きか! 俺の大好物だ」

「小さい頃、おふくろがよく作ってくれたなぁ」


それを見守っていたアーニャのお腹が、グゥ…と鳴る。イヴァンはおかしそうに笑い、キッチンのカウンターにもう一つ、つぼ焼きのお皿を置いてくれた。


「ほら、おまえも熱いうちに食べてみろ」

「いいんですか!? 正直、おなかペコペコで……」


照れ笑いを浮かべながら、アーニャはさっそく手を合わせた。


「いただきます!」


ぱりぱりに焼けたドーム型の生地は、パイというよりもパンの食感に近い。スプーンを表面に突き立てると、サクッと心地よい音がしてパン生地が崩れていく。

そのままパンと一緒にとろりとしたスープをすくって口に運ぶと、酸味とコクのあるクリーミーな味わいが広がった。濃厚ながらも、パイとシチューの組み合わせよりも油分が少ないので、体に優しく染み渡るようだ。


「お、美味しい~……!」


感激に声を震わせるアーニャを見て、イヴァンは照れ臭そうに頭をかいた。


「おまえのリアクションは大げさだからな」

「大げさじゃありませんよ! ほら、お客さんたちだって……」


アーニャが視線で示して見せる先には、がつがつと勢いよくスープを食べる二人の旅人の姿があった。


「うまい……! このスープの味、最高だよ」

「サクサクの生地もたまらないな。スープと絡めて食うと絶品だ」


二人はすごい勢いでつぼ焼きをたいらげると、皿を手に持ってイヴァンに向かって満面の笑みを向ける。


「おい、おかわりあるかい?」

「このつぼ焼きなら、あと10杯は食えるぞ!」


イヴァンは驚いたように目を見開き、そしてほんのわずかに、微笑した。


──あっ、笑った!!


しかし次の瞬間には、いつも通りの仏頂面に戻って、イヴァンはうなずいた。


「おかわりだな。ちょっと待ってくれ」

「あっ、私の分も! おかわりお願いしますっ!」

「今の2杯で売り切れだ」


そう言ってイヴァンが肩をすくめ、「え!!」とアーニャは絶望的な悲鳴をあげる。


「そんな、殺生な……!! な、なんとか、鍋の底に残ったスープだけでも……!!」


恥も外聞も捨て、皿を手に懇願するアーニャだったが、ふとイヴァンが顔をそむけて肩を震わせていることに気づいた。──どうやら、笑っているらしい。

からかわれていたことを悟って、アーニャはパッと顔を赤らめた。


「ちょっと、イヴァンさん!! 純情な乙女をからかわないでくれます!?」

「す、すまん……おまえが、あまりに切羽詰まった顔でおかわりをねだるから……」


アーニャの表情を思い出したのか、再びイヴァンは顔をそむけて笑い出す。


「なんですか、急にデレちゃって……イヴァンさん、案外笑いの沸点低いんですね!? ギャップ萌えを狙おうったって、そうはいきませんよ!」

「な、なにを言ってるかよくわかんねぇ……」


二人の様子を見守っていた旅人たちも、「夫婦漫才か?」とからかいながら一緒に笑っている。

ますますおかしそうに笑うイヴァンを呆れ顔で睨み付けながら、内心アーニャはほっとしていた。

表情の読みにくいイヴァンが、アーニャのお節介を迷惑がっているのではないかと心配していたが、どうやらお客さんを連れて来たことを喜んでくれているらしい。


──よかった。細々とやっていけばいいと言っていたけど……やっぱりお客さんがいるほうが嬉しいよね。世捨て人になるにはまだまだ早いよ、イヴァンさん。


まだ肩を震わせて笑っているイヴァンが、鍋のスープをかき混ぜている背中を見守って、アーニャは小さく微笑んだ。



***



結局旅人の男たちはつぼ焼きをそれぞれ3杯おかわりし、イヴァンがとっておきのワインをふるまって、夕食は賑やかに終わった。


「いやー満腹だ。うまかったよ、イヴァンさん」


男の一人がそう言って、満足げに伸びをする。するともう一人が、酒に酔った赤い目を輝かせて、カウンターの向こうで皿を洗うイヴァンのほうへ身を乗り出してきた。


「なぁ、食事のリクエストはできるかい?」

「作れるかどうかわからないが、言ってみてくれ。努力しよう」

「それじゃ、サーモンの塩漬けを頼むよ!」


その言葉を聞いて、それまでやわらかい表情をしていたイヴァンの顔が、一気に曇った。

男はそれに気づく様子もなく、機嫌が良さそうに話し続ける。


「俺は生のサーモンが大好きなんだよ。軽く塩漬けした薄切りサーモンを、スメタナをぬった黒パンにのせて食うと最高だよな」

「うまそうだな、俺もサーモンが食いたくなってきた」


もう一人の男も同調し、アーニャは頭の中でサーモンの塩漬けを思い浮かべた。


──スモークサーモンみたいな感じかな? 新鮮なサーモンで作ったら美味しそう!


「いいですねぇ、私も食べたいです!」

「そうだろう? 頼むよ、イヴァンさん」


しかし、イヴァンから返ってきたのはそっけない返答だった。


「悪いが、それはできない」

「えっ……このあたりじゃ、サーモンは獲れないのかい?」


男がガッカリしたように肩を落とす。イヴァンは視線を落とし、暗い表情で首を振った。


「いや、そういうわけじゃないんだが……とにかく、塩漬けサーモンは作れないんだ」

「そんなに難しい料理じゃないだろう?」

「あんたならきっと作れるはずだ」


男たちが口々に食い下がったが、イヴァンの態度は頑なだった。


「いや、サーモンは作れない。……もう片付けるから、出て行ってくれ」


そのあまりに冷たい口調に、その場の空気がピリッと凍る。

アーニャは慌てて明るい声を上げた。


「まぁまぁまぁ、サーモン以外にも美味しいものはたくさんありますから! 明日の朝食も楽しみにしていてください! サービスしちゃいますよぉ~」

「あ、ああ……」

「おやすみなさい! 良い夢を~」


強引な笑顔で男たちを見送ると、アーニャは静かに食堂の扉を閉めた。そして、ゆっくりとイヴァンのほうを振り返る。

イヴァンは視線を落として皿を洗っていたが、アーニャの視線に気づくと、困ったように眉を寄せて苦笑した。


「……すまないな」

「いえ、いいんです」


努めて明るく言うと、イヴァンはますます申し訳なさそうな顔になる。アーニャはイヴァンの隣に立って、彼が洗った食器を布巾で拭いていった。


しばらく、二人は黙って作業していた。


「……聞かないのか?」


イヴァンが、ぽつりと言う。アーニャは顔を上げて、まるで迷子の子どものような目をしたイヴァンに、ふっと笑いかけた。


「イヴァンさんだって、聞かないでくれたじゃないですか」


この国では見かけない黒髪・黒目で、怪しげなダウンコートを着て行き倒れていたアーニャを、イヴァンは何も言わずに助けてくれた。


──イヴァンさんが言いたくないことは、聞かなくていい。……ただ、少しでもイヴァンさんの力になりたいだけ。


黙って皿を拭き続けるアーニャを見つめて、イヴァンはふっと息を吐く。そして、覚悟を決めたように口を開いた。


「カムリ村で、俺が客に毒を盛ったと言われている話は聞いただろう? あれは……塩漬けサーモンが原因だったんだ」

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