第7話 カムリ村
カムリ村は城下町とヤドリギ亭のちょうど中間地点にある、小さな村だった。
赤い屋根の素朴な丸太小屋が立ち並び、食料品を売る商店もあるらしい。マントをはおり大きなトランクをさげた旅人らしい男たちが店先で商品を吟味している。
──お~、いるじゃん、いるじゃん! 第一旅人発見!
アーニャはさっそく看板を手に、声を張り上げた。
「宿をお探しの方、いませんかぁ~!? 今ならお得なキャンペーンやってますっ」
「お、ちょうど寝床を探していたんだ。この村には宿がないらしくて困っていたんだよ」
「キャンパンってのは、いったいなんのパンだ?」
さっそく二人連れの白いマントを着た男がアーニャのほうへやってくる。アーニャは看板を掲げて、営業スマイルを浮かべた。
「今なら、1泊料金で2泊ステイ可能な割引サービスを行っておりまして!」
「へぇ、それはすごいな」
「でも俺たちは1泊で十分だ。2泊する予定はないんだが」
「いや、絶対お兄さんたちも延泊したくなります!」
アーニャは自信満々に指を立ててみせる。
「なんといっても、宿のお料理が絶品なんですよっ」
アーニャの言葉に、男たちは「ほぉ」と顔を見合わせた。どうやら興味を引かれたらしい。
「たとえばボルシチ! 具だくさんの野菜が柔らかく口の中でとろけて、じゅわ~っと旨味が広がるんです……。ビーツの甘さと、牛骨のコクのあるスープが相性抜群。そこにサワークリームを入れると、風味がまろやかになって一層味わい深く……」
ごくりと、男たちの喉が鳴る。
「キャベツのシチーも必食です! よく煮込んだキャベツの酢漬けは、柔らかいのにシャクッとした食感が残っていて、シンプルなのに食べ応え十分。ほどよく酸っぱいスープは食欲をそそり、ハムをのせた黒パンと一緒に食べると最高の組み合わせです…!!」
気が付くと、いつの間にかアーニャのまわりには人だかりができていた。村の住人たちも、何事かと集まってきて聞き耳を立てていたらしい。
「ずいぶん美味しそうじゃないか。食べてみたくなるねぇ」
「お嬢さん、それはどこの宿屋なんだ? この近くかね?」
──すごい! 客引き作戦が大成功している!
もしかしたら、案外すんなりイヴァンの宿は人気店になるかもしれない。アーニャは頬を紅潮させ、笑顔で答えた。
「森の入り口にある、ヤドリギ亭という宿屋です!」
その瞬間、村人たちの顔色が変わった。
顔を見合わせ、ひそひそと何かをささやきあう。あからさまに、アーニャを睨み付けてくる者もいた。
──なに……? 急に雰囲気が……。
「ヤドリギ亭? 変わった名前の宿だな」
旅人の男が言うと、村人のひとりが「はっ」と苛立たしげに唾を吐く。
「あそこは食事に毒を盛ってる宿だ。──俺の息子は、あそこで殺されかけたんだぞ」
──え……!?
思いがけない言葉に、アーニャは反射的に声を上げていた。
「そ、そんなことありえません……!」
「いや、この村の全員が証人だ。あの宿は──あの男は、毒殺未遂を起こした犯人さ」
「そうだそうだ。あのときヴォロージャは大変だったんだぞ。三日三晩苦しんで……」
「あんなひどい腹痛、初めて見たわ。どんな薬を飲んでも治らなかったのよね」
村人たちが次々に反論し、アーニャはぐっと言葉に詰まる。
「で、でも……ヤドリギ亭の食事が原因とは……」
「間違いないさ。あそこでメシを食った数時間後に苦しみ出したんだ。ほかの客はピンピンしてたから、食中毒ってわけでもない。間違いなく、あいつが俺の息子を狙って毒を盛ったんだ」
──そんな……絶対にありえない……!
アーニャの脳裏に、ボルシチを運んできてくれたイヴァンの、心配そうな優しい灰色の瞳が浮かぶ。
イヴァンが、子供の食事に毒を盛るなんて、そんなことがあるわけない。
「証拠さえあれば、警備兵に突き出してやったんだが……」
「そもそも、どう見たって怪しいよそ者だったじゃないか。お嬢さんも、あんな宿に近づいちゃだめだよ」
「そんな……イヴァンさんは、そんな人じゃ……」
なんとか反論しようとしたその時だった。村人のひとりが、目を見開き「あ……」と声を漏らす。
振り返ると、そこにはイヴァンが立っていた。
「イヴァンさん……!」
「……姿が見えなかったから、探しにきたんだ」
イヴァンは淡々と言って、毛糸で編んだブランケットの入ったカゴを差し出す。
「何しに来たんだ、俺たちの村まで」
「犯罪者め……!」
「私たちは騙されないわよ」
ひそひそと村人たちがささやきあい、イヴァンを睨み付けているのがわかる。イヴァンは何も言わずに、アーニャに背を向けて歩き出した。
「ま、待ってください!」
アーニャは慌ててイヴァンの大きな背中を追いかけた。イヴァンは止まらずに、真っすぐ前を向いて歩いていく。アーニャは必死で彼の隣に並んだ。
「イヴァンさん、あの……」
「村の連中が話していたのは本当のことだ」
静かな声だった。
イヴァンの表情は変わらない。──が、灰色の瞳は苦しそうに歪んで見えた。
「本当のはずありません!!」
アーニャは、思わず叫んでいた。
「イヴァンさんが、誰かを傷つけようとするなんて……食事に毒を入れるなんて、絶対に信じません」
イヴァンが、驚いたように目を見開く。アーニャはまっすぐに彼の目を見つめて、必死で訴えた。
「イヴァンさん、諦めないで。誤解されているなら、言葉を尽くして理解してもらいましょう」
「……無駄だ。俺の言葉は、もう彼らに届かない」
イヴァンは小さく首を振って、そう呟いた。何もかも諦めたようなその横顔が、アーニャの胸を締め付ける。
「私が、説得してみせます! だって……悔しいよ……ヤドリギ亭はあんなに素敵な宿で、イヴァンさんの料理は……あんなに温かくて、美味しいのにっ……」
こらえきれない涙が、頬をつたっていく。
立ち止まっているうちに、イヴァンは振り返らずに、どんどん先に行ってしまう。アーニャは涙をぬぐって、遠ざかっていくイヴァンの背中に向かって叫んだ。
「イヴァンさんっ!! 私は絶対に、諦めませんからね!!」
アーニャの叫びは、ひとけのない雪道にむなしく響いた。アーニャを追いかけて来たキリルが、ワン!としっぽを振りながら足元に頭を擦り付けてくる。
アーニャは、イヴァンが持ってきてくれたカゴを抱え直し、キリルの頭をなでた。
「……あのツンデレめぇ……不幸を背負い込んだ顔で歩いていったよ、あなたのご主人様は」
鼻をすすりながら憎まれ口をたたくと、キリルは困ったように鼻を鳴らす。
カゴの中には、毛糸のブランケットだけでなく、ハンカチに包まれたビスケットと、瓶入りのヴァレーニエが詰められていた。
──イヴァンさん……。
アーニャが寒くないように、お腹をすかせないようにと、気を配ってくれたのだろう。イヴァンの優しさが、じんわりと染みてくる。
アーニャは、キリルの柔らかな白い毛をなでた。
「──みんなに、イヴァンさんの心を知ってもらおうね」
***
少しずつ、夕日が傾きかけて来た。
イヴァンはヤドリギ亭のキッチンで、夕食を作りながら窓の外を見つめていた。
──アーニャのやつ、遅いな……。
涙に濡れていたアーニャの瞳を思い返すと、苦々しい痛みが胸に広がる。
まさか、涙ながらに自分のことをかばってくれるとは思いもよらなかった。動揺してしまい、何も言えずにアーニャを置き去りにして戻ってきた自分に対して、怒りが沸き上がる。
もしかしたら、もうアーニャは戻ってこないかもしれない。
そう思うと、ひやっとした感覚が全身を包み込む。──だが、そのほうがいいのかもしれない、とイヴァンは自分に言い聞かせた。
アーニャは旅の途中なのだ。永遠にこのヤドリギ亭にいてくれるわけではない。一刻も早く目的地にたどり着けるよう、この国を発ったほうがいい。
そこまで考えてから、鶏肉を切り分けていた手を止めて、イヴァンは小さくため息をついた。
もうすぐ日が沈む。すると急激に気温が下がり、漆黒の夜がやってくる。
──迎えにいくか……。
そう決めると、いてもたってもいられなくなり、イヴァンは手を洗ってからキッチンを出た。壁にかけていた毛皮の外套をはおり、ブーツの紐を結んでいたその時。
キリルの鳴き声がして、ヤドリギ亭の玄関が開く音がした。あわてて廊下に飛び出ると──そこには寒さで頬を真っ赤にしたアーニャと、白いマントをかぶった二人の男が立っていた。
イヴァンに気づくと、アーニャは満面の笑みを浮かべる。
「連れてきましたよ、お客さん!」
二人の男はマントを脱いで、寒そうに手をすり合わせている。イヴァンはハッと我に返り、慌てて彼らのマントを受け取った。
「……なぜ、うちの宿に……」
思わずそう呟いたイヴァンに、男たちは顔を見合わせて、眉尻を下げて笑った。
「あんたのヴァレーニエを食ったからさ」
「え……?」
困惑するイヴァンに、アーニャがいたずらっぽく片目をつむってみせる。
男のひとりが、イヴァンの肩を優しくたたいた。
「あんたのヴァレーニエは、おふくろが作ってくれたみたいに、ほっとする味だ。──丁寧に作った味だ」
もうひとりの男が、腕を組んでうんうんとうなずく。
「あれを食えばわかる。あんたが、善人だってこと」
「……ありがとう」
消え入りそうな声でそう言ったイヴァンの背中を、アーニャが「へへっ」と笑って優しく叩く。
──こうして、その日半年ぶりに、ヤドリギ亭に二人の宿泊客が訪れたのだった。