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第5話 お風呂とヴァレーニエ

「それじゃ、せっかくだし一緒に風呂へ入るか?」


イヴァンからの予想外の申し出に、アーニャは一瞬ぽかんと口を開け、次の瞬間真っ赤になって叫んでいた。


「な、な、な、何を言っているんですか!! 一緒に入るわけないでしょう!」

「そうか? でも一緒に入ったほうがおまえにとってもイイだろう」

「い、い、いいわけないでしょ!? どんな理屈ですか!?」


激しく首をふって拒絶するアーニャを見て、イヴァンは不思議そうにきょとんとしている。


──イヴァンさんて、まさか、案外、ムッツリな感じ……!?


初対面では犯罪者扱いしてしまったものの、アーニャはこれまでイヴァンに対して、無骨ながらも優しく頼りになるお兄さんという印象を持っていた。が、冷静に考えてみるとイヴァンも立派な成人男性だ。何しろ、力で来られたら絶対に、2000%かなうはずがない。


──今までちょっと、無防備すぎたかな……?


思いっきり警戒した目で睨み付けると、イヴァンは困ったように眉を寄せた。


「嫌ならば強制はしない。ともかく、風呂に入るなら案内しよう」


警戒心を解かずに数歩の距離を取るアーニャを、イヴァンは不思議そうに振り返りつつ、母屋の外に設えられた小屋へと連れて来ていく。ドアを開けると、中には木製の長椅子が天井に向かって階段状に並べられており、床の中央には暖炉ペチカが置かれていた。


──あれ? これって……


「お風呂というより、サウナ、ですね……?」


アーニャのつぶやきに、イヴァンは「よく知っているな」と感心したようにうなずいて、ペチカに火をくべる。


「サウナと呼ぶ国もあるらしいが、この国ではこれが風呂だ。ペチカで焼き石を温め、ハーブ入りの水をかけて熱い水蒸気で小屋を満たす。体温が上がったら一度小屋の外に出て、冷水を浴びるんだ」

「ひぇ~、整いそう……」

「それじゃ、これに着替えるといい」


目を輝かせるアーニャに、イヴァンは白いガーゼ地のガウンを差し出した。どうやら、この国では服を着てサウナに入るらしい。


──あ……だから、“一緒に入ろう”だったのね。


サウナの中は広く、大人が6人くらいはゆうに入れそうだ。おそらくこの国のお風呂には、皆でワイワイ入浴する習慣があるのだろう。

とんでもない誤解をしていたことに気づいて、アーニャはひとり顔を赤らめた。


小屋に備え付けられた脱衣所でガウンに着替えてくると、サウナの中はすでに水蒸気で満ちていた。目をこらしてみると、イヴァンが汗だくになって、ペチカの上に水をかけている。


「わぁ、いい匂い……」

「ローズマリーとバジル、それから白樺のエキスを入れているんだ」


数種類のハーブが浮かんだ水のたらいを片手に、イヴァンが豪快に水を手ですくって石にかけると、シュワッと派手な音がして一瞬で水蒸気に変わっていく。そして、ふわりと優しくみずみずしい香りが立ち上った。


「こんなもんでいいだろう」と水のたらいを床に置くと、イヴァンはその中に木の枝の束を突っ込んだ。


「木の枝……これで掃除をしておけよってことです?」

「いや、これは白樺や樫の枝葉を束ねたヴァーニクだ。水蒸気で温まったら、これで背中や体を叩くといい」


──木の枝で体を叩く……寒風摩擦みたいな? 豪快な文化だなぁ……。


水に浸ったヴァーニクをまじまじと見つめていると、イヴァンはポンとアーニャの頭に手を置いた。


「それじゃ、風呂を楽しんで。あまり長風呂するなよ」

「はい。ありがとうございます!」


イヴァンが出て行った後、アーニャは良い香りの水蒸気をたっぷり吸い込み、木製のベンチに横になった。

元の世界でも何度かサウナに入ったことがあるが、サウナルームの中はもっと乾燥していたし、温度もかなり高かったように思う。5分もいれば汗だくになって限界だった。しかし、こちらの風呂は水蒸気がたっぷりで、温度も高温ではあるが苦痛を感じるような高さではなく、横になっているとリラックスできて心地よい。


「はぁ~……最高……」


強制的にこの世界に転移させられ、さらには王城で「余計なオマケ」扱いをされてとんでもない冷遇を受けた時には、もはや絶望しかなかった。つい昨日、泣きながら雪道を歩いていたことが、まるで夢の中の出来事のようだ。


それがまさか、“お風呂”に入ってこんなふうにゆっくり過ごせるなんて。


──何もかも、イヴァンさんのおかげだよね……。


この先、いったい自分がどうすればいいのか、まったくわからない。「元の世界に戻る魔術はない」と断言された以上、いつまでもこの宿屋にお世話になるわけにもいかないから、王城で言われたとおりに教会へ行って保護を頼んだほうがいいのかもしれない。

だけど……。

アーニャは、ふぅとため息をつく。


──これ以上、イヴァンさんに迷惑をかけるわけにはいかない。


そう頭ではわかっていても、なかなかこの心地よいお風呂から出る勇気が出ずに、アーニャはベンチに寝転がって優しい香りに身を任せた。



***



お風呂を出て冷たい水で汗を流し、ワンピースに着替えて食堂に戻ると、そこは甘い香りが立ち込めていた。


「お風呂、ありがとうございました」


カウンターの向こうへ声をかけると、鍋を火にかけていたイヴァンが、ぱっと顔を上げる。


「ずいぶんと長風呂だったな。ヴァレーニエ作り、始めてるぞ」

「いや~、風呂好きの民の血が騒いで……」


照れ笑いをしながら、イヴァンがかきまぜている鍋の中をのぞくと、真っ赤なイチゴの隙間からぷくぷくと細かな泡が立っていた。


「砂糖ごと、火にかけてるんですか?」

「ああ。沸騰しかけたら火をとめて冷まし、また沸騰させて冷まし、10回くらい繰り返せば完成だ」


火加減をみながら、イヴァンがふいに窓際に置いていた銅製のカップへ手を伸ばし、アーニャのほうへ差し出す。中には、血のように赤い液体が入っていた。


「……なんですか? これ」

「モルス──ベリー類を混ぜたジュースだ。喉乾いてるだろ」


確かに、長時間お風呂で汗をかいたおかげで喉はカラカラだ。


「へへへ、ちょうどビールが飲みたいなぁ~なんて思ってたんです」


何気なくそう言うと、イヴァンは驚いたように目を見開いた。


「ビール!? 馬鹿を言うな。あれはおまえが飲むようなものじゃない」

「え、そ、そうなんですか? イヴァンさん、飲酒反対派?」


思いがけない強い口調で怒られて、アーニャはビクリと肩を震わせる。その様子を見て、イヴァンは慌てたように謝ってくれた。


「悪い、つい大声を出してしまった」

「いえ、ちょっとびっくりしましたけど……」

「ともかく、好奇心だけでビールやら酒やらを飲むんじゃないぞ。わかったな」


諭されるように言われて反射的に何度かうなずいておいたが、アーニャは内心首をかしてげていた。


──こっちの世界って、まさか女性はアルコールをたしなまないとか……?


だとすると、お酒好きのアーニャとしてはかなり暮らしにくい世界、ということになる。


「それより、このモルスを飲んでみろ。うまいから」


絶望しかけたアーニャだったが、再度イヴァンにすすめられ、気を取り直してカップのジュースをひとくち飲んでみる。キンキンに冷えた甘酸っぱいベリージュースが、喉を潤す。


「わぁ……美味しいです! 甘酸っぱくて、ベリーの良い香りが広がりますね。それに、すごく冷たい」

「二重窓の中に置いておけば、10分でキンキン、1時間たてばシャーベットだ」

「結構便利ですね、それ」


数種類のベリーが混ざっているようだが、クランベリーがメインなのか、甘さよりも酸っぱさのほうが強い。


──これはこれで美味しいんだけど……何かもうひと捻りほしい……!


半分ほど飲んだところで、思い立ってアーニャはイヴァンに頼んでみた。


「あの、ボルシチに入れたヨーグルトみたいな……白いクリームがありましたよね?」

「ああ、スメタナのことか」

「それ! そのスメタナを、少しいただけませんか?」


アーニャのおねだりに、イヴァンは不思議そうにまばたきをして、地下の冷蔵室からスメタナの瓶を持ってきてくれた。


「これをどうするんだ?」

「へへへ、これをこのジュースに入れて……」


スメタナを加えたジュースをよくかき混ぜる。クリーミーなピンクっぽい色になったそれを、アーニャは一気に飲み干した。


「うまいっ! 意識高い系スムージーの味!!」


アーニャがにやりと笑ってみせると、イヴァンはおかしそうに噴き出す。


「おまえは変わったやつだな。ジュースにスメタナを入れるなんて」

「何事もチャレンジ、です」

「それじゃ、出来立てのヴァレーニエも試してみるんだな」


タイミングよく、ヴァレーニエが完成したようだ。イヴァンは火をとめて、小さなお皿に鍋の中身を少量注いでくれる。

ごろりとしたイチゴの果肉が、キラキラ輝く赤いシロップをまとっている。


──ジャムというより、果実のコンポートって感じ……?


熱々の果実とシロップを口に入れると、ジューシーな果汁とこっくりとした甘みが広がり、たまらない美味しさだ。


「お、美味しい……!」


感激して思わず笑顔になるアーニャに、イヴァンはおかしそうにお茶のカップを差し出した。ふわりと、ダージリンに似た香りが立ち上る。


「ヴァレーニエには紅茶だ」

「紅茶に入れるんですか?」

「いや、紅茶を飲んでから果肉をお茶請けに食べるんだ」


言われたとおり、紅茶をすすってからヴァレーニエをスプーンですくい、口に放り込む。すると、紅茶のほのかな苦みがイチゴの甘さで中和され、ふくよかな風味が鼻を抜けていった。

アーニャは、ふぅと息を吐く。


「甘い。ホッとする味です……」


アーニャのつぶやきを聞いて、イヴァンは嬉しそうに目を細めた。


「そうか。そう言ってもらえると嬉しい」


無骨な大男のイヴァンとは少し不釣り合いな、可愛らしい赤色のヴァレーニエが、鍋からガラスの瓶へと移されていく。

イチゴの香りの湯気がキッチンを満たし、アーニャは深くその香りを吸い込んだ。


──小さい頃宝物だった、イチゴの消しゴムの匂い……。


イヴァンは丁寧な手つきでヴァレーニエをガラスの瓶に詰めながら、優しい声で続ける。


「旅人にはそれぞれ事情があるだろう。特にこんな辺鄙な場所まで来るのは、旅をしたくてしてる人だけじゃない。その孤独な背中に少しでも寄り添えるような、補給所のような宿屋を作りたかったんだ」


イヴァンの心のこもった言葉に、気が付くとアーニャは瞳から涙が零れ落ちていた。


──そうだ、私はいきなり異世界に飛ばされて、「おまえはいらない」って追い出されて、孤独で……ひとりぼっちで、寂しかった。そのことを誰かに気づいてほしかった。寄り添ってほしかったんだ……。


静かに泣いていることに気づいたイヴァンが、驚いたように目を見ひらき、慌てて服の裾でアーニャの涙をぬぐってくれる。


「どうした……? 俺が、何か悪いことを言ったなら謝る」

「いえ……違います…」

「具合が悪いか? あ、もしかして、ヴァレーニエで口の中を火傷したか?」

「そうじゃないんです」


ぶんぶんと首を振ってから、アーニャはへへ、と笑った。


「私もある意味では“旅人”だから……イヴァンさんの言葉が、すごく温かくて」

「そうだ、アーニャ。おまえはえらいぞ。たったひとりで旅をして、こんな世界の果てみたいな雪と氷に閉ざされた宿屋までたどり着いたんだ。おまえはよく頑張ってる」

「う……うう…」


こらえきれない涙がたえまなく零れ落ち、とうとうアーニャは声をあげてわんわん泣き始めた。イヴァンは困ったように微笑んで、大きな腕でアーニャを抱きしめてくれる。アーニャは彼の鉄板のような胸に顔をうずめ、思い切り泣いた。



ひとしきり泣き終わった後で、イヴァンはあらためて紅茶を淹れなおしてくれた。

温かい濃い紅茶をすすり、粗熱のとれたヴァレーニエを口に入れる。じゅわっと甘味が広がり、アーニャはささくれだった心が甘く癒されていくのを感じた。


イヴァンはその様子を見守って、優しくアーニャの頭をなでてくれる。


「──さて、ところでアーニャはどこまで行くんだ。目的地はわからんが、鉄道を使うなら中央駅まで送ってやるぞ」


親切なイヴァンの申し出に、アーニャはビクッと固まった。


──そうだ。イヴァンさんは私のこと、異国からきた旅人だと思っているんだ。


まさかアーニャが、別の世界から強制的に召喚されて王城から放り出され、行く当てもない異世界人だなんて、話したところで信じてもらえないだろう。

言葉に詰まるアーニャを、イヴァンが不思議そうに見つめている。犬のキリルも、暖炉の前で丸まって、不思議そうにこちらを見てワンと吠えた。


──もう少し、ここにいさせてほしい。


それは、切実な本音だった。

この世界に来て、初めて人に親切にしてもらった。美味しいスープを作ってくれた。服や靴を用意し、お風呂にも入れてくれた。


だが、同時にイヴァンにこれ以上迷惑をかけてはいけない、と自制する自分もいる。

こう言ってはなんだが、ヤドリギ亭にはまったく客が入っていないようだ。こんな状態で、イヴァンの人の好さに付け込むように、ここにおいてほしい、できれば雇ってほしいなどと言えるはずもない。


──ああ、相手の事情を忖度し、自分の希望を押し殺してしまう……これぞまさに日本人の悲しきサガよ……。


心の中では涙を流しつつ、アーニャはにっこりと微笑んでみせた。


「あの、私……まずは、教会へ行こうと思います」


アーニャの言葉に、イヴァンは意外そうな顔をした。


「教会に?──おまえ、シスターにでもなるのか?」

「えーっと、まぁそんな感じというか……」


へへへ、と笑ってからアーニャはふと真面目な顔になり、思い切って頭を下げた。


「でも、今日だけは……今日だけは、もう一泊、泊めていただけませんか!?」

「それは構わないが……」

「そのお礼に!」


アーニャは勢いよく顔を上げる。すると、アーニャの顔を覗き込もうとしていたイヴァンと、思いがけず近い距離で鼻先を突き合わせることになった。

アーニャは黒い目を輝かせ、力いっぱい宣言する。


「そのお礼に、お手伝いさせてください。──私が、ヤドリギ亭にお客さんを連れてきます!!」

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