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第2話 温かいボルシチ

──あれ……おかしいなぁ……?


凍えるような極寒の雪道を歩いていたはずなのに、なんだかとっても温かい。

そのうえ、いい匂いまでする。


──ああ、私、死んだのかな。


ここはもしかしたら天国なのかもしれない。

それにしてもいい匂いだ。これはそう……小さいときに、お母さんが作ってくれたスープのような匂い。

そういえばめちゃくちゃ空腹なんだった。


ぐう~……。


「!?」


自分のお腹が鳴る音で目覚めると、杏奈は勢いよく起き上がった。

丸太づくりの山小屋のような部屋だ。杏奈はベッドの上に横になっており、分厚い毛布と毛皮が何重にもかけられている。


──どこ、ここ……?


四隅の床に置かれたランプがぼんやりと優しい光を放ち、天井から吊り下げられたにんにくやハーブ、唐辛子などを映し出している。

二重ガラスの窓の外は真っ暗で、絶え間なく降り注ぐ雪が舞っている。時折強い風に吹かれて、ガタガタとガラスが揺れた。


「ワン!」

「わぁ!?」


次の瞬間、部屋に駆け込んできた犬に吠えられて、杏奈はベッドの上で飛び上がった。

白と灰色の毛がまじった、シベリアンハスキーのような大型犬だ。ずいぶんと人懐っこい犬で、ベッドに足をかけて杏奈の手をしきりになめてくる。


「わー、犬! 異世界感強めのクリーチャーじゃない、普通に犬だ! あはは、カワイイなぁ」


警戒していた心がほどけていく。


「あなたは誰? 私を助けてくれたの?」


犬の頭を撫でて問いかけると、ワン!と機嫌のよさそうな返事がかえってきて、杏奈はこの世界に来て初めて微笑んだ。


「目が覚めたのか」


ふいに低い声がしてドアのほうに目を向けると、そこには大柄な若い男が立っていた。

白銀の髪に灰色の目。整った顔立ちは、ひどく冷たい印象を与える。そのうえ男の目つきは刃のように鋭く、その灰色の瞳に射抜かれるように見つめられて、杏奈は思わず身震いした。明らかに、悪人顔である。


──ゆ、ゆ、ゆ、ゆ……誘拐犯!?


男がゆっくりと、杏奈が横になっているベッドへと近づいてくる。


「ひ、ひぃ……」


本能的に逃げなくてはと思うが、体が硬直したように動かない。男はベッドの端に腰かけて、杏奈のほうへ腕を伸ばしてくる。


──ヤ、ヤラれるッ!!!!!!


「きょえぇぇぇぇ!!!!!」

「な、なんだ!?」


突如奇声をあげたアーニャに、男はビクッと体を震わせ、困惑したように動きを止める。


「助けて!!! わ、私、まだ処女なんです!!

「は、はぁ!?」


男の顔がパッと赤くなったが、パニック状態の杏奈はそれに気づかない。


「いやぁ~!!こんなところで処女を散らされたくないッ!そういえばキスもまだじゃん!!」

「おい、一度落ちついて話を聞いてくれ」

「ヤダヤダ近寄るなっ、誘拐犯!強姦魔!!」

「ひ、人聞きが悪いことを言うな!俺は行き倒れのあんたを拾っただけで……」


男の大きな手が、杏奈の手首をつかむ。その瞬間、杏奈は反射的に拳を握り締める。


──って、あれ? ……今、この人なんて言った?


そう思った時には、もうすでに止まらなかった。杏奈のフィットネスボクシングで鍛えた右ストレートが、男の頬に炸裂した。



──数分後。

冷静さを取り戻した杏奈は、海よりも深く反省していた。男は杏奈に殴られわずかに赤くなった頬をさすりながら、苦笑している。


「……というわけで、あんたは街道の脇で行き倒れていたんだ。あと少しで凍死するところだったぞ」

「す、すすすす、すみません…! 命の恩人に、私は何て失礼を……」


事情を説明されあたふたと謝る杏奈を見て、男は呆れたようにため息をつく。


「まぁ俺はこんなナリだから、怖がられるのも無理はない。もう少し配慮すべきだったな」

「ととと、とんでもない……私が早とちり勘違いヤロウだっただけで」

「俺とキリル……この犬が通りかかって、幸運だったな。その髪色から察するに、外国人なんだろう? 白い国の寒さには不慣れだったのだろうが、これに懲りて陽が落ちたあとにひとりで外をうろつかないことだ」


厳しい口調だが、その声色は気遣いにあふれていて、杏奈は思わず男の顔を凝視した。

確かに不愛想で、目つきの悪い男だ。だが、その灰色の目は優しく杏奈を見つめている。──きっと、心から心配してくれているのだ。

それに気づいて、杏奈はすっと肩の力が抜け、ペコリと頭を下げた。


「助けてくださって、ありがとうございます。本当に、なんとお礼を申し上げていいか……」


いいんだよ、とでも言いたげに巨体の犬──キリルがワン、と吠える。


「あなたもありがとね、キリル」


杏奈がキリルの頭を撫でる。男は改めてベッドの脇に腰かけると、杏奈の前に木製のトレイを置いた。彼はどうやら食事を持ってきてくれたらしい。

トレイの上には、湯気を立てる赤い液体が注がれた陶器の皿と木製のスプーン、それから白いクリームのような物体が入った小皿が乗せられている。


「これは……?」

「これはこの国伝統のスープ──ボルシチだ」


見慣れない真っ赤なスープに戸惑っていると、男は優しく杏奈の背中をたたいた。


「さ、遠慮せず食べてくれ。体を温めないと」

「あ…ありがとうございます」


スプーンをもって恐る恐る皿の中をかき混ぜてみる。どうやらニンジンや玉ねぎが入っているようだ。


──異世界だって、食べてるものはそう変わらないよね……? ま、まさか、人の生き血のスープとか言わないよね……!?


今度は男の顔が残忍な吸血鬼に見えてきたが、再び、ぐぅと空っぽのお腹が小さな音を立てた。何よりも、食欲をそそる匂いは抗いがたいものがある。

一瞬迷ってから、杏奈はスープをすくい、口に入れた。


「……おいしい……!」


ほんのり甘く、野菜のうまみが染み渡る優しい味わいだ。柔らかく煮込まれた具材が、口の中でとろけていく。

そして何よりも、温かいスープが体を内側から温めてくれるのを感じた。


──あったかい……。


しみじみとスープを味わう杏奈の表情を見て、男の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。あ、笑った、と杏奈は心の中だけでつぶやいた。


「ボルシチは、初めてか?」

「はい。初見なのでビビリ散らかしちゃいましたけど、なぜこんな赤い色をしているんですか?」


杏奈の素朴な疑問に、男は丁寧に答えてくれる。一見不愛想に見えるが、落ち着いた低い声の語り口調は優しい。


「ボルシチには、ビーツという赤い野菜を使うんだ。これが、服につくとまったく落ちないほど強烈な色をしている。トマトペーストであえておいたビーツをにんじんや玉ねぎと炒めて、牛骨でとったスープを加えて煮込み、ハーブと塩コショウで味付けすればボルシチのできあがりだ」

「ほのかに甘味があるのは、野菜の味ですか?」

「ああ、それはビーツの甘味だな。ほら、この四角く切った具材がビーツだ」


彼が指で示してくれたビーツを、スプーンですくって口に入れてみる。かみしめると、大根のような食感で、じゅわっとスープが染み出てきた。そして、自然な甘みが口いっぱいに広がっていく。


「見た目からもっとクセの強い味かと思ったけど、ふんわり優しい風味で、おいしいです」


初めて食べるビーツの味わいに感動していると、男は今度は白いクリームのようなものをすすめてくれた。


「これはスメタナ。この国伝統の調味料なんだが、ボルシチに加えて溶かしながら食べるんだ。ちょっと入れてみるか?」

「……それじゃ、試しにちょっとだけ」


すすめられると断れないのが、日本人のサガである。

おそるおそるクリームをスプーンですくってみると、まるでヨーグルトのような質感だ。ボルシチの赤いスープに加えて溶かすと、白い色が広がって、スープが鮮やかなピンクに色を変える。


「わぁ。きれい……!」


ひとくちすすると、少し酸味のあった味わいがまろやかになり、濃厚な旨味が口内を満たす。


「──サワークリームみたいな味ですね。スープと相性抜群です!」


スメタナをスープに溶かし入れながら、夢中ですくって食べる杏奈の姿に、イヴァンは灰色の瞳を柔らかく細めて微笑んだ。


「それはよかった。うまそうに食ってくれてこっちもうれしいよ」

「これは、あなたが作ってくれたんですか? ええと……」

「ああ」


うなずいてから、男は「あー…」と照れ臭そうに頭をかいた。


「名乗るのが遅くなったな。俺はイヴァン・シュヴァインシュタイガーだ」

「──す、すばいんすたいがーさん……」

「イヴァンでいい」


うまく発音できない杏奈に、男──イヴァンはおかしそうに肩をすくめて見せる。


「あ、私は永森杏奈です」

「ナガ……アンナか。ということは、アーニャだな」


杏奈の苗字を発音しかけて諦めてから、イヴァンは聞きなれない言葉を口にした。杏奈は思わず首をかしげて聞き返す。


「アーニャ?」

「ああ、この国でもアンナという名前はよくあるが、アーニャという愛称で呼ばれることが多いんだ」


どうやら、イヴァンは杏奈のことを完全に外国人だと思い込んでいるようだ。実際にはおそらく「異世界人」ということになるのだが、初対面の相手にこの一件を説明するのはなかなか難しい。


──まぁ、そのへんの説明はまた追々すればいいか。


今はまだ杏奈自身がこの事態をうまく呑み込めていないし、何よりも疲れきっていて、うまく説明できる自信がない。


「それじゃあ、アーニャで」


杏奈は曖昧に微笑んでうなずき返す。──こうして、杏奈は真っ白な雪に囲まれたこの世界で、“アーニャ”になったのだった。



***



結局アーニャはイヴァンの作ってくれた野菜スープ──真っ赤なボルシチを、2杯もおかわりした。


「お、よく食べたな」


空のお皿を下げに来てくれたイヴァンが、嬉しそうに灰色の目を細める。


「あの、ありがとうございました。片付けを手伝います」


慌ててベッドから起き上がろうとすると、「いや、大丈夫だ」とイヴァンに制された。


「まだ万全じゃないだろう。今夜はゆっくり休んでくれ」

「……お言葉に甘えます」


──無骨そうに見えて、この男、意外とスパダリ系だな!?


内心色めき立ちつつ、おとなしくいうことを聞いて再びベッドに横になると、イヴァンが毛布をしっかり肩までかけてくれる。イヴァンの黒いセーターの袖口からは、ほのかに石鹸の香りがした。


「そういえば、私の上着は……」

「ああ、あの変わった外套シューバか。暖炉ペチカの前で干しておいた」


言うが早いか、イヴァンはてきぱきと皿を下げてかわりにアーニャの黒いダウンコートを持ってきてくれた。

雪で濡れてひどい状態になっていただろうコートは、イヴァンの手入れのおかげですっかり渇き、ふんわりした質感に戻っている。


「マジでデキ男……!」

「デキ……なんだって?」


訝しげに眉をひそめるイヴァンに、アーニャはアハハと笑ってごまかしてから、頭を下げた。


「何から何まで、本当にありがとうございます…!」


すると、イヴァンが「そういえば」と見覚えのある缶コーヒーを取り出す。


「ポケットにこんなものが入っていたが……まさか手りゅう弾や発煙筒の類いじゃないだろうな」

「ち、違いますよ、物騒な! それは……危険なものじゃありません」


思わず手を伸ばすと、イヴァンが慎重な手つきで缶を渡してくれる。今や、この缶コーヒーだけが自分と元の世界をつないでくれている気がして、アーニャはぎゅっと缶コーヒーを抱きしめた。

イヴァンは一瞬驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。


「大事なものなんだな」

「……はい」


それ以上のことを、イヴァンは聞かなかった。


「さぁもう少し眠った方がいい。体力を回復しないとな」


イヴァンに促されて、アーニャは小さな子供のような気分で何度もうなずく。そして、もう一度イヴァンにお礼を言ってから目を閉じた。


「イヴァンさん……本当にありがとう」


一瞬にして眠りに落ちていくアーニャの様子を見守り、イヴァンはふっと微笑むと、ランプの明かりを消して静かに部屋を出て行った。

こうして、アーニャの雪と氷に囲まれた異世界生活が始まったのだった。

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