第11話 サーモンの塩漬け
イヴァンは灰色の瞳を見開いて、アーニャが見つけ出した白い糸──アニサキスの成虫を見つめた。
「……こんなものが、鮭の体内に生息していたのか……」
「基本的には内臓に生息するらしいんですけど、鮭は筋肉にも多く寄生するそうなんです。人によっては症状が出ないみたいですし、薄くカットすることで寄生虫を殺せるので、これまであまり被害が出なかったのかもしれませんが……」
二人はまじまじとアニサキスを見つめてから、顔を見合わせる。
「ヴォロージャくんの腹痛の原因は、おそらくアニサキスだと思います」
「……まったく知らなかったよ」
イヴァンは苦しそうに顔をしかめ、深いため息をついた。
「これまで、何も考えずにサーモンを調理してきてしまった。……俺は、とんでもないことをしてしまっていたんだな。これじゃ、毒を盛っているのと変わらない」
傷ついたイヴァンの横顔を見て、アーニャの胸はギュッと締め付けられるように痛む。
──たぶんこの世界には、アニサキスの知識がまだ存在していないのだろうし、イヴァンさんのことを責めたいわけじゃない。……だけど、食中毒を出してしまうというのは、飲食店や宿屋にとって最もつらい過失なんだよね。
アーニャは拳を握り締めるイヴァンの背中に、そっと手を添えた。
「イヴァンさん。これからイヴァンさんには責任があると思うんです。アニサキスという寄生虫がいるから、生のサーモンを食べるのは危険なことだよって、みんなに広めていかないと」
アーニャの言葉に、イヴァンはハッとしたように顔を上げた。
「……確かに、村の連中も俺と同じように鮭を獲って、生で食べているはずだ」
「イヴァンさんが、正しい食べ方を皆さんに教えてあげてください」
「正しい食べ方──生食はやめて、火を通して食べるように警告する、ということか?」
アーニャは微笑んで、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫、鮭は生でも安全に食べられるんです。ある方法を使えば」
***
翌日の朝。
ヤドリギ亭の食堂には、宿泊客の旅人二人に加え、アーニャが強引に引っ張ってきたカムリ村の村人たちが集まっていた。その中には、食中毒の被害にあったヴォロージャと、その父親のリョーシャもいる。
「一体なんだっていうんだ? 俺たちを無理やりこんなところまで引っ張ってきて……」
不審げにこちらを睨み付けるリョーシャに、アーニャは「まぁまぁ」と微笑んでみせる。
「今日は、皆さんに半年前に起こった事件──ヴォロージャくんの、食中毒事件についてご説明しようと思います!」
アーニャの一言に、村人たちは顔を見合わせて、抗議の声を上げた。
「何を言ってるんだ。食中毒なら、ヴォロージャだけじゃなく他にも同じ症状の者が出るはずだぞ。皆同じサーモンを食べたんだから」
「ひとりだけ都合よく腹痛が起こるものか。あいつは、俺の息子を狙って毒を入れたんだ!」
「──なぜわざわざ、イヴァンさんがそんなことを?」
アーニャの冷静な声に、リョーシャは一瞬、ぐっと言葉に詰まった。しかし、すぐに顔を紅潮させて怒鳴る。
「よそ者が考えることなんて知るか……!ただの愉快犯なんじゃないか。とにかく重要なのは、あいつが俺の息子に毒を盛ったという事実だけだ!」
頑なな態度のリョーシャを前に、アーニャはふっとため息をついて、それから一匹の鮭を手に取って掲げた。
「それじゃ、今から皆さんに証明しようと思います。これは今朝獲れたばかりの新鮮な鮭です。リョーシャさん、これをさばいてくれますか?」
「なんで俺がそんなことを……」
リョーシャが顔をしかめると、それまで黙っていたヴォロージャがふいに顔を上げた。
「お父さん、僕、サーモン食べたいよ!」
「ヴォロージャ……」
リョーシャは困った顔で息子を見つめる。ヴォロージャはにっこりと微笑んで、父の手を握った。
「お父さんがさばいてくれるサーモンなら安心でしょう?」
「……わかった。いいだろう」
リョーシャは小さくため息をつくと、黙ってアーニャから鮭をうけとった。鮮度を確かめると、テーブルの上に石板を置き、その上で鮭をさばいていく。
イヴァンほどの手際ではないが、魚を扱うのに慣れている手さばきだ。
「……ほら、さばいたぞ」
三枚のおろした鮭の身を手にとると、アーニャはしばらく黙ってそれをじっくり見つめていた。やがて「見つけた」と小さくつぶやき、ナイフで小さな白い糸──アニサキスを取り出した。
黒い石板の上に置くと、白い糸のような寄生虫がうごめいていることが、一目でわかる。村人たちはそれを覗き込んで、「ヒッ」と息をのんだ。
「な、なんだこれは……」
「これは、アニサキスという寄生虫です。鮭の内臓や筋肉部分に生息していて、人間の体内に入ると激しい腹痛と嘔吐を引き起こします」
アーニャが静かに告げると、一瞬の沈黙のあと、ざわめきが広がっていく。
「まさか、鮭にこんな寄生虫が存在したなんて……」
「これまで全く気にせずに食べていたが、そういえば年に何度か、原因不明の腹痛を起こすやつがいたな」
「それじゃ、ヴォロージャの腹痛の原因は、毒じゃなくてコイツだったのか」
リョーシャはわずかに震える手を握り締めて、睨み付けるようにアニサキスを見つめている。ふとアーニャは、ヴォロージャが泣きそうな顔をしていることに気づいた。
「それじゃ……もう、サーモンは食べられないの?」
「ううん、大丈夫。アニサキスを死滅させる方法が二つあるから」
安心させるように微笑みかけてから、アーニャはぐるりと村人たちの顔を見回し、指を二本立てた。
「ひとつは、しっかり加熱すること。火を通せば、安全に食べられます。──だけどヴォロージャくんは、生のサーモンが好きなのよね?」
アーニャの言葉に、ヴォロージャは瞳を輝かせて何度もうなずく。
「そうなんだ! イヴァンさんが作ってくれた塩漬けサーモンも、すごくおいしかったんだよ。……だけど、あんなふうにお腹が痛くなるのはもうイヤだな」
腹痛の苦しみを思い出したのが、ヴォロージャの顔が曇り、そっと目を伏せる。アーニャは優しくヴォロージャの頭をなでた。
「心配しないで。安全に生で食べる方法があるの」
「本当なのか……?」
リョーシャが、疑わしそうな目を向ける。アーニャは力強くうなずいた。
「ええ、もうひとつのアニサキスが完全に死滅する方法、それは“冷凍”です。マイナス20度以下で24時間冷凍すれば、安全に生食することができます。──イヴァンさん」
アーニャがキッチンのほうを振り返って声をかけると、それまでカウンターの奥に黙って立っていたイヴァンが、すっと大皿を持って現れた。
白いお皿の上に、オレンジ色に輝くサーモンの薄切りが、まるで芸術品のように並べられている。
「これは、24時間冷凍してから流水で解凍したサーモンだ。オリーブオイルと塩、ディルの葉で軽くマリネしてから、ピンクペッパーと黒胡椒をかけて仕上げている。──このサーモンは、安全だ」
イヴァンの言葉に引き寄せられるように、ヴォロージャは皿を覗き込んで、ごくりと喉を鳴らした。
「美味しそう……!」
「いや、待て、ヴォロージャ」
リョーシャが疑り深い目でジロジロとサーモンを眺めてから、イヴァンを睨み付ける。
「俺はまだ、あんたを信じたわけじゃない。このサーモンが安全かどうか、俺の息子で実験させたりしない」