第1話 異世界召喚と缶コーヒー
イヴァン・シュヴァインシュタイガーは、その日奇妙なものを拾った。──正確には、ものではなく人である。
一年中雪が降り積もる“白い国”シュワルツ王国。いつも通り城下町の雑貨屋で数週間分の買い物を終え、荷物を愛犬の犬ぞりに乗せて帰途についていたイヴァンは、森に向かう街道の脇に何かが丸まっているのを見つけた。
積もった雪を振り払ってみると、出てきたのは、見慣れない黒い布団のような塊である。
「なんだコレ」
思わず愛犬のキリルに問いかけるが、彼もクゥンと鼻を鳴らして首をかしげてみせる。
警戒しながらもその黒い布団を持ち上げてみると、どうやらそれは外套になっていて……フードの下には、この国ではまず見かけることのない黒髪の女がいた。意識を失っているようで、衰弱しきった様子で目を閉じている。
「!?」
毛皮の手袋をとって彼女の青白い頬に触れてみると、冷たいがまだ息はある。しかし、一刻を争うだろう。
──このあたりに、民家はない。イヴァンは慌てて彼女を自身の巨体で担ぎ上げた。
「キリル、急ぐぞ」
愛犬がワン、と鳴いて返事をする。イヴァンはできる限りの早足で、森の入り口にある自宅兼仕事場──宿屋「ヤドリギ亭」へと雪を踏みしめて歩き出した。
***
永森杏奈は、茫然としていた。
──何これ、現実?夢?妄想?
目の前では、マンガやアニメで見るようないかにも王様然としたおじさんと、いかにも魔導士という風体の黒いローブ姿の男が抱き合って喜んでいる。
どうやらここはお城らしい。高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、金で装飾が施された白亜の壁には、何かの紋章が入ったタペストリーが吊り下げられている。杏奈が尻もちをついて座り込んだ床は、大理石でできているらしくピカピカだ。
そして、金髪碧眼の王子様風の男がひざまずいて──正確に言うと、杏奈の隣で同様に腰を抜かしている女子高生に向かってひざまずいて、その手に口づけしている。
「あなたを召喚できたことを誇りに思います──春の女神様」
周囲を取り囲んでいた群衆から、ワッと歓声が上がる。
ドレスや礼服を着た貴族風の男女が、瞳を輝かせて拍手している。
──も、もしかして、これって……ラノベとかマンガでよく見る、異世界召喚ってやつ!?
永森杏奈は、平均的な24歳の社会人である。と、少なくとも自分ではそう思っていた。
ごく普通の家庭に生まれ、特に大きな事件も特筆すべき才能もなく、平々凡々な人生を歩んできた。
ひとつだけ“普通じゃない”ことがあるとしたら、背が低く色気にかける外見と楽天的すぎる性格のせいで、まだ彼氏ができた経験がないこと。──とはいえ、もう少し仕事が落ち着いたら婚活しようかなとうっすら思っていたくらいで、何かドラマチックな出来事が起こることを期待していたわけじゃない。
杏奈は、自分の平凡な日常にそれなりに満足していたのだ。
その日も、杏奈はいつも通りの一日を終えようとしていた。
新卒で入社したブラック企業寄りのコンサル会社では、新人は終電近くまで残業するのが当然の習慣になっている。例によって夜遅くまで仕事に励んだ杏奈は、駅までの途中にあるコンビニで温かいコーヒーを買って、一人暮らししている隣町のアパートに帰ろうとしていたのだった。
──そう、そしたらあの女子高生が……。
コンビニを出たところで、「キャアッ」という悲鳴が背後から聞こえた。
振り向くと、白いコートを着た女子高生が地面に吸い込まれそうになっていた──ように見えた。
「だ、大丈夫!?」
「なにこれ……助けてくださいっ……!」
慌てて駆け寄ると、地面に穴のようなものが開いていて、その暗闇にズブズブと沈むように女子高生が引きずり込まれていくのがわかった。
──工事ミス!? マンホールどこいった!?
混乱しつつも、杏奈は必死で彼女に手を伸ばす。
「お、落ち着いて、手をつかんで……!」
女子高生の手が杏奈の腕をつかんだ、その瞬間だった。急激に穴が広がり、杏奈の足元がぐらりと揺らいだ。そして、二人は一緒に穴の中へと吸い込まれていく。
「キャア───!!!!!」
……そして、気がつくと杏奈は女子高生と一緒に、貴族風の男女に囲まれて、お城にしか見えない謎空間で尻もちをついていたわけだ。
──夢だと思いたいけど……夢じゃないっぽいなぁ……。
ひんやりと感じる空気も、シャンデリアの煌めきの眩しさも、そして何より目の前にいる金髪の王子や王様たちの圧倒的にリアルな存在感が、これが現実であることを告げている。
そして困惑する女子高生に対して、ガラス玉のような青い目を輝かせた王子がこう告げた。
「われわれはずっとあなたを待ち望んでいたのです。伝説に従って何百年にもわたり召喚を試みて……やっと成功しました。あなたが、この冬に閉ざされた国に、春を連れてくる女神なのですね……!」
よく見るとかなりの美少女である女子高生は、「えっと……?」と首をかしげ、長いまつげを瞬かせている。そんな彼女をよそに、魔導士らしい男が小躍りしながら進み出てきた。
「伝説のとおりの白い外套! 黒い髪に黒い目! 間違いありません……あなたは春の女神です!!」
わっ、と再び歓声と拍手が起こる。
「す、すみません、ちょっと事情が呑み込めないんですけど……」
杏奈が王子風の男に声をかけると、ここで初めてその存在に気づいた、というふうに群衆の目が杏奈に向いた。
黒い髪と黒い目──そして、お気に入りの黒いダウンコートを着た杏奈の姿をまじまじと見て、王子は整った顔を不愉快そうにしかめる。
「──なんだ、こいつは」
***
「何も即座に追い出すことないじゃん……」
杏奈はブルブル震えながら、見慣れない異世界の町を歩いていた。
色鮮やかなレンガ造りの建物が並ぶ城下町は、傾きかけた陽を背にして細かな粉雪が舞い、幻想的で美しい。が、今はそんな景色を気に掛ける余裕はなかった。
結局、彼らの話をまとめると、こういうことだった。
ここは年中雪に覆われた“白い国”と呼ばれるシュワルツ王国。隣国の“黒い国”との戦争を終えて5年あまりという、復興途上の国らしい。
彼らの悲願は、常冬のこの国に“春”を呼ぶこと。あたたかい太陽と春風をもたらすという、伝説の春の女神を召喚しようと、国を挙げて魔術の研究を重ねてきたそうだ。
そして苦節数百年、見事異世界から女神の召喚に成功。歓喜に沸いていたところに水を差したのが、なぜか女神にくっついてきてしまった杏奈という異物だった、というわけだ。
そして最も絶望的なことには、この召喚術は一方通行のもので、元の世界に戻る魔法は存在しない、という……。
そこまで話してから、王様と魔導士はひそひそと声をひそめて相談を始めた。
『して、どうするのだ、この娘は』
『どうもこうも……王城で面倒を見ていただけませんか? 異世界の客人ということで』
『いや、それは無責任だろう。これは魔導士協会が責任をとるべきだ。そちらで引き取られよ』
『ええ!? むりむりむり、無理ですよ! 今年はもう予算ギリギリなんですから』
『しかし、貴族でもない平民の娘を客人にするなど、前例がない……!』
──どこの世界でも、お役所仕事って大変なんだな……。
うっかり同情してしまいつつ、杏奈は「あの~」と手を挙げて口を挟む。
『念のため申し上げておくと、こういう異世界召喚モノで余計な人物まで召喚しちゃった場合の、定番の展開って知ってます? 聖女だと思ったほうが実は偽物で、オマケだと思ったほうが本物の聖女だった…!っていうオチ。ですから、もう少し猶予をもったほうがいいというか、もしかしたら万が一、私のほうが春の女神っていう可能性を考慮して、それなりの処遇を……』
杏奈の言葉に、王様と魔導士はきょとんと目を丸くして、それから顔を見合わせ──爆笑した。
『それはない、それはない。100%ない』
『伝説の書を見てみよ。はっきり書いてあるだろう。“白い外套をまとい、黒い髪に黒い目を持ち、光り輝くほど美しい乙女”』
『あ、なるほど、私じゃないですね……』
──くっ……ぐぅの音もでねーぜ!!
ひとしきり笑い終えた王様と魔導士は、今度こそゴミクズでも見るような目でこちらを眺めている。
自分の存在がいかにも迷惑だという空気感に、和を尊ぶ民族である日本人の杏奈はとても耐えきれなかった。
『あの……それじゃあ、私、ひとまず町で宿探しでもしたほうがよさそうですね……?』
杏奈の提案を聞いて、その場にいた王様や王子様、魔導士、貴族一同は一斉にホッとした雰囲気を出した。
『いやーすみませんね、まさか女神以外の人までくっついてきちゃうとは、想定外で」
『ひとまず今日は教会の世話になったらどうだ?』
『それが最善ですね! 王城を出て町の大通りをまっすぐいくと、町はずれの教会にたどり着きますから』
そして杏奈は、わずかな路銀だけ与えられてさっさと王城から追い出されたのだった。
「あーもうちょっとゴネればよかったのに……なんであんな忖度したこと言っちゃったかなぁ、私のばか……」
ため息をつき、寒さにかじくむ指先をポケットに手を入れ……杏奈は、冷たくなった缶コーヒーを取り出した。ラベルに印刷された「ホット」の文字が、涙でにじんでいく。
ついさっき、コンビニでこれを買ったのに。まさか、異世界に飛ばされて、独りぼっちで途方にくれて、知らない町を歩いているなんて。
じろじろと、道を行く人たちの目線が突き刺さる。どうやらこの国の人々は、みなプラチナブロンドやシルバーなどの色素の薄い髪をしており、黒髪の杏奈はひどく目立つらしい。杏奈はダウンコートのフードを目深にかぶり、うつむいて歩く。
みじめさと心細さに、ずっと堪えていた涙が溢れてきて、あわてて手の甲でぬぐった。
ともかく、今日は教えられたとおりに教会へ行こう。そこでお世話になりながら、先のことを考えよう。
びゅうっと、冷たい風が吹きつける。杏奈は身震いして、目を細めた。
なんだか、どんどん雪が強くなってきた気がする。日暮れまでに教会にたどり着かなければ、と杏奈は歩調を早めた。
──おばあちゃんの家は雪国だったし、スノボで遊んだことも何度もあるけど……こんな寒さは体験したことないぞぉ。
まさに体の芯から冷えるような寒さだ。こころなしか、陽が傾くスピードも速い気がする。
そして、目のまえに続く真っ白な道は、吹雪いてきた雪にかすんで先が見えにくくなっている。
──ていうか私……そもそも教会にたどり着けるのかな……?
ゴォ、と不吉な風が吹き、細かな雪を巻き上げていった。