第87話「責任」
「ああああっ!?」
その事実を受け入れた瞬間、壮絶な痛みがクロを襲った。
断面から風が急激に入り込むような感覚と、いっそ熱のようにも思える程の激痛。彼の脳内には、その二つしか存在していなかった。欠損部分にもまだ感覚が残っているのか、冥王から咀嚼音が聞こえる度に、痛みが増幅する。
「が、ああ、ああああっ!」
疑似強化では誤魔化しきれない程の痛みに悶えながらも、彼は左腕の方へと魔力を集中させた。
にゅるり。
蛇のようなしなやかさを持った黒い腕が、欠損部分を補うようにして生えてきた。
「思イノホカ器用ナヨウダガ……止血ガデキテイナイゾ」
吸収を終えたらしい冥王が、赤い眼差しを向けながらそう告げる。
クロの腕を構成している闇から、血が滴り落ちていた。内部の再現が不完全だからだ。そこまで気を回せる程、余裕はなかった。
彼は膝から崩れ落ち、右手を地面につけて体を支える。
息が吸えない。
目の焦点が合わない。
脂汗が止まらない。
体の震えが止まらない。
様々な種類の緊急信号が、彼の中で駆け巡り続けていた。
「更ニ深イ絶望ヲ味ワイ、極上ノ供物ヘト昇華スルガ良イ」
頭上から、回転音が近づいてくる。
クロがそれに気づいた時には、もう遅かった。
「がああああっ!?」
全身が震える。体の右側が、翼によって切断されようとしていた。
逃げなければ。
わかっていても、体が動かない。痛みや疲労も理由の一つだが、最大の要因は翼と自身の位置関係にあった。
四つん這いに近い状態で上から押さえつけられているため、どうしても動きを制限されてしまう。
ただ、このままでいるのも得策ではない。体を切り落とされる前に、クロは覚悟を決めた。
「ああああっ!」
冥王の方へ、闇の腕を伸ばす。
ただの腕ではないため、込める魔力量次第で長さを自由に調節できるが、相手に届かない程度で静止させた。
そしてその瞬間、クロは姿を消す。転移魔法だ。
行き先は、冥王本体の影。
更にその直後、闇の腕を地面に食い込ませ、一気にその長さを縮める。腕の固定場所に引っ張られる形で、翼による攻撃から逃れつつ、冥王から距離を取ることに成功した。
だが、その代償は決して安くない。
「がっ、あ……!」
苦悶の表情を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がる。彼の背中は抉れ、骨や内臓といった肉体の内側が空気に晒されていた。
「動キヅラソウダナ」
クロの死角から忍び寄ったもう一方の翼が、彼の右半身を掴む。
「身軽ニシテヤロウ」
肉の裂ける音。
ここまでの至近距離で聞くことは未来永劫ないであろうという音が、耳をつんざく。
それに負けない程の大声を、クロも放った。放たざるを得なかった、と言った方が正しいか。
奪われた肉塊が翼から冥王へと渡り、口内に放り込まれる。
今の一撃で、肉体の四分の一程が失われた。右足は残ってこそいるものの、強引に引っ張られたせいで皮膚の表面がちぎれている。見るも無残な状態のそれらを、彼はすぐに闇で覆い隠した。
被撃した勢いで、体が前方へ傾く。彼自身それを直そうともしないため、地面との角度は徐々に小さくなっていき、やがて平行になろうとしていた。
「素晴ラシイ。心ヲ闇ニ堕トサズシテ、尚モソレ程ノ魔力ヲ────」
冥王が開口し、赤い瞳を揺らしたその瞬間、クロは相手の真下に転移する。そして即座に身を反転させ、再現した右の拳を全力で叩き込んだ。
続けて、二発目。
もう一度右腕で三発目を繰り出した直後、冥王の後方遠くを目指して左腕の闇を伸ばす。
頭を捻り、翼の影を視界の端に入れながら。
「話ハ最後マデ聞クモノダゾ」
そう言い放つ冥王は、吸収の準備を始めていたのだろう。
だが、遅い。
その殺気を感じ取っていたクロは、既に姿を消していた。
冥王前方の空中を飛行している翼の、影。そこに姿を現し、そして先程と同様に腕の伸縮性を利用して再び相手との距離を詰める。
そして、殴打を続けた。
より速く。より強く。
本体や翼の動きを感知する度、空間を広く使うように移動して撹乱し、猛攻を浴びせ続けた。
その躍動に、一切の無駄はない。
「……ナルホド。取捨選択ヲシタトイウコトカ」
痛覚麻痺を遮断し、その分の魔力を肉体の強制稼働に回したのだ。
闇による肉体の再現を含め、クロはそれらを半ば本能的に行っていた。命を繋ぐための行動を、体が自然と取っているだけ。思考を巡らせている余裕は、既にない。
それでも、飽きる程に聞かされた師の教えを思い出せる程度には、クロは意識を保てていた。
闇属性の魔力を無理に行使すれば、心を呑まれる。
ならば、心を強く保ち続ければいい。
彼は、己の意地と執念のみで立ち続けていた。
「先ノ言葉、訂正シヨウ。貴様ハ依然変ワリナク、我ヲ楽シマセテクレソウダ」
だが、と続けながら、冥王は空高くへと転移する。
その後を追うべく、クロは両足に力を込めて跳躍した。
「遊戯ノ時間ハココマデダ」
両翼が冥王の頭上に集まり、互いを握り合う。それは伸びて体積を増やしながら、次第に形を変えていった。
「散レ」
闇の剣。
翼によって模された巨大なそれが、一振りされる。たったそれだけで、クロの体は左右に両断された。
「が、あ……」
推進力を失った体はそれぞれの方向へと落下し、地に衝突する。
(ま、だ、だ……!)
重なる視界。
痙攣する体。
いつの間にか赤く染まりきっていた地面の上で、クロは尚も意識を保っていた。
だが、鮮明ではない。徐々にそれは失われていき、死の世界へと誘われているのを実感する。
戦わなければ。
そう思っても、体が動かない。当然だ。真っ二つに裂かれてしまっているのだから。
魔力を流しても、漏れ出て空気中に融けていくのみで、肉体を再構築することができない。魔力量が不足しているのか、体力的な問題か。はたまた、魔法そのものの限界なのか。
そうこうしている間にも、彼の半身からは血が流れていく。残った内臓一つ一つの動きが鈍っていくのが、感じられた。
「サア。ソノ肉体ヲ。ソノ魂ヲ。ソノ魔力ヲ。我ニ明ケ渡セ」
冥王が高度を下げ、クロの方に迫る。
ここまでか。
自らの死を悟っても、それを受け入れられない程、クロは未練にまみれていた。
まだ、記憶を取り戻せていない。
ハクを見つけることすらできていない。
伝えるべきことがあるのに。
まだ、死ぬわけにはいかないのに。
「……なんだよ、それ」
ぐるぐると思考を巡らせて、気づく。あまりに自分が滑稽で、彼は思わず鼻で笑ってしまった。
冥王は、クロを狙ってここまで来たのだ。魔物を発生させたのも、器を手に入れられるだけの力を取り戻すため。彼がここに居着かなければ、このような騒動が起こることもなかった。
いや、それ以前に、あの戦いで冥王を消滅させていれば良かったのだ。
全ては自分のせい。
それなのに、最後の最後で考えたのは、自分の都合だけ。
「てめえのケツぐれえ、てめえで拭けってんだよなあ……」
呟きの後、辺り一面が眩い光に包まれた。
生きるも死ぬも、まずはけじめをつけてからだ。
絶対に、勝つ。
その強い思いが、クロを立ち上がらせる。
「……ホウ、気ヅイタカ。コノ空間ノ特異性ニ」
光が止んだ後、クロは五体満足でそこに立っていた。
どこも欠損しておらず、傷口一つない。戦闘前と全く同じ状態で、冥王へと向かい合っている。
「ごちゃごちゃうるせえよ」
そう言って、右手に闇の剣を構えた。
封じられていたはずの、それを。
「死ねないから、死なねえ。それで充分だろ」
「ナラバ、貴様ノ覚悟諸共、切リ刻ムマデ」
翼が分離し、再び回転して飛来する。
クロは向かって右側のそれに狙いを定めた。
「『クロキヤイバ』」
闇の斬撃はしっかりと命中し、翼を斬り裂いて塵へと還す。
「何度繰リ返シテモ同ジコト」
「忠告どうも」
再生されることは織り込み済みだ。
狙いは、両翼が同時に迫ってこないようにすること。そのために、わざと一つだけを破壊したのだ。
「来いやあっ!」
もう一方の翼を、クロは左手で受け止める。切り裂かれ、後方に押されながらも、決して倒れることなく踏ん張った。
鮮血が、辺りに飛び散る。
左手は確かに切り刻まれているが、翼の位置がそれ以上変化することはなかった。
答えは簡単。翼による破壊と、肉体の再現が拮抗しているからだ。
「うおおおおっ!」
激しい摩擦を発生させながらも、翼の回転を強引に止める。そして、大きく振りかぶってそれを放り投げた。
その先には、再生したばかりの翼。
「同時ノ破壊モ無意味ダ」
「黙って見とけよ老いぼれ」
片割れに接近した瞬間、投げられた翼が開いた。
偶然でも、冥王による制御でもなく、クロの意志によって。
「……ホウ」
投げられた翼がもう一方を強く握りしめ、動きを封じる。
クロは文字どおり、自らの身を削りながら翼の制御を奪っていたのだ。
一つでも翼を奪えれば、もう一方の動きを抑えられる。その目論見が成功したと確認できた瞬間、彼は駆け出した。
この状態がいつまでも続くわけではないと、わかっていたからだ。制御を奪えているのも、一時の間だけ。冥王の制御下にある翼が自爆なりなんなりしてしまえば、すぐに奪い返されてしまうはずだ。
自身を阻むものが何一つないこの好機は、二度と訪れないだろう。疑似強化と闇の噴射を併用し、一気に距離を詰める。
「遅すぎるぜ」
そう言って剣を構えた瞬間、クロの体は膨大な量の闇によって呑み込まれた。
「遅イノハ、貴様ダ」
本体に攻撃能力が備わっていないわけではない。そのことを忘れてしまう程、クロも馬鹿ではなかった。
闇が消滅したそこに、彼の姿はない。
それに気づいたであろう次の瞬間には、冥王は頭上からの一閃によって斬り裂かれていた。
「ナッ……!?」
「言ったろ。遅すぎんだよ」
相手の背後に着地したクロ。そのまま数えきれない程の斬撃を繰り出し、冥王の本体を細かく斬り刻んだ。
冥王だったものが、彼の眼下で積もる。
瞳の部分も斬り裂いたはずだが、残骸の一部が赤く変色し、新たな眼となって彼の方へと向けられた。
「……全ク。理不尽ナ仕打チダ」
「どの口がほざきやがる」
「マアイイ。次回ニ期待スルトシヨウ」
「次なんてねえよ」
左腕を冥王の方へと伸ばし、魔力を集中させる。
「お前はここで、終わりだ」
「イイヤ。他デモナイ貴様ノ手ニヨッテ、我ノ野望ハ再ビ動キ出ス」
「そんなことにはならねえし、なっても止める。絶対にな」
「ソウカ。ナラバ、ソノ時ヲ心待チニシテイルゾ」
溜めに溜めた魔力を、クロは惜しみなく放った。
闇が消滅し、煙が晴れた先に、冥王の姿はない。跡形もなく消え去ったようだ。
「……終わった、か」
クロはその場に倒れ込み、深呼吸する。
自分のことながら、一人で冥王を倒すことができたという事実を受け止めることが、なかなかできなかったのだ。
今回の勝利は、運によるところが大きい。
もし、現実世界で戦っていたのなら、九分九厘敗北していただろう。自らの精神世界で戦えたからこそ、勝利を掴むことができた。
現実世界でないのなら、心持ち次第でどうにでもなる。その読みが当たってくれたおかげで、彼は肉体と魔法を取り戻すことができた。
最後の激突に関してもそうだ。
あれは、冥王の攻撃を回避したわけではない。クロは元から、冥王の頭上に復活していたのだ。前方に現れて両翼と対峙したのは、言わば分身体。それを本体と見せかけることで相手に一瞬の隙を作らせ、そこを突いた。
よくこんな滅茶苦茶な作戦を思いつき、そして成功させられたものだと、自嘲気味に笑う。息を整えてから立ち上がり、彼は意識を集中させた。
この空間に、もう冥王の存在は感じられない。完全に消滅させることができたようだ。
「向こうは、大丈夫……だよな」
逃げられた、ということはないだろう。冥王が自身の一部を残していない限り、現実世界を荒らされていることもないはずだ。
とは言え、早く戻らなければ。何が起こっていないとも限らない。
「……どうやって戻ればいいんだ?」
そんな疑問を抱いた瞬間、急な眠気に襲われた。せっかく立ち上がったというのに、クロは再び地に伏すことになる。
(早く、戻らないと……)
現実世界の無事を祈りながら、彼は意識を手放した。




