第84話「荒れ模様」
(……長っ)
冊子に纏められた楽譜を片手に、クロはちらちらと時計の方へ視線を向けていた。
針の進みが、やけに遅く感じられる。秒針の動く音は、外で打ちつける雨によって聞き取りづらくなっていた。
快晴であれば、日の入りを観測できるこの時間。普段は既に帰路に就いているのだが、学園祭準備期間である今、彼は半ば強制的に教室へと縛りつけられている。
「やっぱり、男声パートが聞こえづらいかな……でも、低音は出しづらそうだし……」
考えるようにそう呟くのは、紫穂だ。他の生徒たちが教室後方で三列になって並んでいるなか、彼女ともう一人の女子生徒だけは、黒板の前に立っている。
「女声パートはもう少し抑えめに歌えるかな。より強弱に意識を向ける感じで」
紫穂の隣に立つ女子生徒が指示を飛ばすと、クラスの女性陣が思い思いに返事をした。
今日は合唱コンクールに向けてのクラス練習。列から外れている二人は、伴奏と指揮を担当することになっていた。この教室には伴奏を行える楽器がないため、紫穂は指揮者の隣で聞き役に徹している、というわけだ。
(……音痴だけど、楽器は弾けるんだよなあ)
合唱練習はこれが初めてではない。この教室以外で行ったこともあり、そのときに紫穂の演奏を耳にしたのだが、素人からしても上手いと思える程のものだった。
こういった形で貢献することもできるのかと思いつつ、何故歌唱になると途端に音感がなくなってしまうのかという疑問が生まれたが、それは本人にも謎らしい。
(……ん?)
廊下から、教室のドアが叩かれた。担任がそれを開き、突然の来訪者に応対している。
いったい誰が来たのかと気になりはしたものの、大した用事ではないだろうと思い直し、楽譜に目を落とした。
(にしても、全然覚えらんねえな……)
そこには、歌の音程や強弱などが記号で示されている。ただ、予備知識をほとんど有していないクロにとって、得られる情報は歌詞のみだった。貴久や紫穂に助けを求め、自分なりに詳細を書き加えてはみたものの、それがなかなか覚えられずにいる。
「藤咲、ちょっといい?」
「え?」
白髪混じりの髪と、シミだらけの肌が目を引く、五十路の女性教師。このクラスの担任を務める彼女が呼んだのは、間違いなくクロの名だった。
いや、正確に言えばクロ本来の名ではないが、このなかに『藤咲』という名字を持つ者は他にいない。とは言え、想定外の出来事に彼の思考は一瞬停止した。
「お客さん」
手招きをする担任。
呼ばれるがままクロは列から抜け、教室前方のドアを通って廊下へと向かった。死角から多くの視線が向けられていたが、気づかないふりをする。
「急にすまないな、クロ」
「藤咲さん……? どうして」
外で待っていたのは、絵札だった。
彼はこの学校の教員だが、クロと顔を合わせることは滅多にない。教頭という立場にいるためか、絵札があまり校内をうろついていないからだ。
当然、このように直接訪ねてくることもなかった。クロは彼の行動を疑問に思いつつも、ゆっくりとドアを閉める。
廊下にいるのは、二人だけ。教室で聞き耳を立てられていない限り、会話の内容が漏れることはなさそうだった。
「伝えたいことがあってな」
「それって、ハクのことですか!?」
食い気味に身を乗り出すクロ。
わざわざ教室へ赴いてまで伝えるのだから、さぞかし重要なことなのだろうと考えたのだ。そして、自身に関連することで思い当たるものと言えば、ハク探しの件。
きっとそうに違いない。そう思ったが故の行動だったが、対する絵札は人差し指で頬を掻きながら申し訳なさそうに視線を逸らしていた。
「いや……すまない。それとは別件だ」
「そう、ですか……」
その言葉を聞いたクロは、目に見えて肩を落とす。だが、自身の早合点が原因で絵札を困らせるようなことがあってはならないと思い、首を横に振って気持ちを強引に切り替えた。
「俺の方こそすみません。それで、伝えたいことって?」
「ああ……実は、急な出張が入ってしまってな。今からしばらく家を空けることになる」
「それって、いつまでですか?」
「学園祭の翌日だ。だから、君の晴れ舞台も見ることができない。すまないな」
「いやいや、謝ることないですよ。お仕事、頑張ってくださいね」
伏し目がちに謝罪を述べた絵札に対し、クロは陽気に振る舞う。しばらくは家で一人になることも、学園祭の様子を見に来てもらえないことも、彼は大して問題視していないのだ。
「あ、ああ……困ったことがあったら、いつでも連絡してくれ。すぐに駆けつける」
「心配しすぎですって。ほら、今からなんでしょ。早く行かないと!」
わざとらしくそう促すと、絵札はようやく振り返って歩き始めた。だが、数歩進んだ後、その背中がぴたりと止まる。
「一つ、助言をしよう」
「え?」
「一年生のとあるクラスは、教育実習生を指導に迎えて合唱に取り組んでいるらしい」
「は、はあ……」
「とても熱心に打ち込んでいるそうだ。それこそ、他の何も手につかなくなる程にな」
「それがいったい……」
「気をつけろよ」
言うだけ言って、絵札は去ってしまった。
その背中を追うのも憚られ、クロは廊下に一人取り残される。ただ、すぐに思考を切り替えることはできなかった。
(気をつけろって、何に……?)
一年生に足下をすくわれるな、と言いたかったのだろうか。だが、その解釈が正しいとは思い難い。
コンクールと称されるだけあって、合唱は厳正な審査の下、評価をつけられる。それが高ければ表彰されるのだが、競う相手はあくまで同学年の他学級のみだ。一年生とクロたち三年生とでは、そもそもの土俵が違う。故に、絵札の発言に今の解釈を当てはめるのは無理があるように思えた。
他に、何か気になる点があるとすれば。
(教育実習生、ねえ……)
その言葉で思い起こされるのは、先日、答案返却の際に代理でこの教室を訪れた青年、毒島だ。
この学校に、教育実習生は数名訪れている。故に、絵札の話に上がった人物と毒島とが一致しているとは限らない。それに、一致していたからといってそれがどうしたと言うのだろうか。考えれば考える程、わからなくなる。
『学園祭、楽しみにしていてくださいね』
ふと、毒島の言葉を思い出した。
授業中に発された、何気ない一言。ただそれだけのはずだ。だが、何かがクロの中で引っかかっていた。
形容し難い違和感と、それを解消できないことによる焦燥感。
考えて、考えて、考えて────
「のわっ」
轟く雷鳴に、意識を引き戻される。ふと窓に目を向けると、雨脚が激しくなっているのがわかった。
学校に拘束されるのは面倒だが、この雨の中帰宅するのもそれはそれで億劫だ、などといった考えを挟んでから、ようやく思い出す。
(そういや練習中だった)
結局、絵札の言葉の意図を掴むことはできなかった。だが、これ以上考えても仕方がないと思い、慌てて教室のドアを開く。
「話は終わった?」
「は、はい」
「じゃあ、列に戻りな。練習再開するよ」
長話に付き合わされたと思ってくれたのだろう。クロの戻りが遅かったことを担任は特に咎めなかった。
彼女の言葉に頷いてから、定位置へと戻って楽譜を開く。
未だ気がかりではあるが、絵札の真意よりも、今は目の前のことに注力するのが先決だ。クラスの足を引っ張っては、目も当てられない。
(もっと、頑張らないと)
クロはようやくこのクラスに馴染めたばかりだ。故に、自身が一番、一体感を崩す要因になりやすいと考えている。
退屈に思えるからと言って、手を抜くわけにはいかない。むしろ、他の生徒より二倍、三倍も努力しなければならないと考えていた。
やがて、音声機器から曲の伴奏が流れ、それに合わせて指揮が始まる。
楽譜と指揮者、それらに視線を交互に動かしながら、クロも辿々しく歌を紡いでいった。
発声にも、表現力にも、光るものがあるわけではない。だからこそ、彼は持てる力の全てを出すことで、真の意味で級友たちの隣に立とうとしていた。
(みんな頑張ってるんだ……絶対に、成功させてみせる)
想いを乗せて、歌う。輪を乱す一因とならないように。
自分含め、この場の全員が努力しているのだ。それは、きっと実を結ぶだろう。学園祭は無事に成功し、良き想い出として皆の胸に刻まれると、このときのクロは信じて疑わなかった。




