第83話「知識と空想」
『元は同じ、一人の人間だよ』
それは、冥府王国にてヒョウが散り際に残した言葉。
『一人の人間が分裂するようにして、お前とハクが出来上がった』
人間の分裂。ただ日常生活を過ごしているだけでは直面しないであろう、超常的な現象。
ヒョウ曰く、相反する属性の魔力を宿したことで、それは引き起こされた────ならば、魔力の存在しないこの世界で、それに関連する手掛かりを見つけられる可能性は、限りなく低いだろう。
それでも、魔力や魔法に匹敵するような何かがあるかもしれないという淡い期待を抱いていたクロは、休日にとある場所を訪れていた。
お師匠様の家にあるものよりも多いかもしれない、本棚の羅列。物音一つがやけに大きく聞こえる程、静まりかえった空間。
ここは図書館だ。先日、紫穂との待ち合わせに使った場所である。そのときは中に入らなかったため、こうしてじっくりと見学するのは初めてだった。
受付の職員に目当ての本がどの辺りにあるかを尋ね、かれこれ二時間近くそこを物色している。それらしい本を手に取って流し見しては、再び棚に戻すという作業を繰り返していた。
(やっぱりないか……)
精神や人格が分裂するという症例は、この世界にも存在するらしい。もっとも、そう頻発しているものではないようだが。
原因は過度なストレスや心的外傷などと考えられている。また、偶発的に起こるものであって、意図して引き起こすことはほぼ不可能だということもわかった。
ただ、物理的に人間が分裂するという現象は、この世界では起こっていないようだ。やはり、魔法方面から調べなければ大した手掛かりは得られないだろう。
失った記憶を取り戻す方法についても調べたが、これまでに得た情報以上のことは何も出てこなかった。
(無駄足踏んじまったなあ……)
ため息を吐いてから、足早に図書館を後にする。
これだけの蔵書数ならば、あるいは。そう思っていたのだが、完全に当てが外れてしまった。
(魔物でも探すか……?)
他に知りたい情報と言えば魔物についてなのだが、それも叶わないだろう。討伐後に亡骸を調べようとしても、野次馬が集まってくるために時間が取れない。
一部を持ち帰ればいいかもしれないが、それも控えたかった。
魔物が現れる度、それを討伐する黒い鎧と、二色の鎧。世間はその正体を露わにしようとしていた。万が一、公的機関に絵札宅の立ち入り調査でもされて、尻尾を掴まれたら目も当てられない。
魔物を倒しても、そこから直接手掛かりを得られる可能性は低い。それでもクロが魔物退治を続ける理由は二つあった。
一つ目は、被害の拡大を防ぐため。一応、この国が有する防衛手段は魔物にも有効らしい。彼の手が届かない地域では、それにより魔物を制圧しているようだった。だが、それを準備するのに時間がかかりすぎる。そのため、自身で戦闘を行った方が被害を抑えやすいのだ。
二つ目は、鎧を出現させているであろう魔導士の手掛かりを得るため。何かしらの情報を得る手段のうち、その人物との接触が最も現実的だった。
(ま、適当に歩いてれば見つかるだろ)
この世界では、何故か夜間以外にも魔物が出現する。
今は昼過ぎ。もう少しで夕方になるが、門限までにはそれなりに時間があった。
他の地域と比較すると、この辺りの魔物の出現率は高い方だ。そのため、帰宅までに一度は遭遇できるだろうと考えた。
両腕を頭の後ろで組み、視線を上に向けた、その時。
「……!」
後方から闇属性の魔力を感じ、振り返る。
直後、図書館の窓ガラスを突き破って、四角い物体が次々と外へ飛び出してきた。
「あれは……本か?」
ひとりでに浮遊する大量の本が、一箇所に密集していく。やがて、それらはあるものを形作った。
「でっか……!」
巨人。
闇に覆われた無数の本によって構成されたそれは、二階建ての図書館を上回る程の全長を誇っている。以前学校に現れた魔物より、段違いに大きかった。
呆けている場合ではない。クロは即座に視線を巡らせ、周囲の状況を把握した。
人目につかない物陰まで移動し、魔力の鎧を身に纏う。そして再び魔物の方へと戻った。
(毎度毎度人の多いとこに現れやがって)
これまでにクロが遭遇した魔物のほとんどは、人混みの周辺で発生している。冥王の瘴気が人間の負の感情を取り込んで成長するのと、何か関係があるのだろうか。
(……危ねえ!)
魔物が、その巨大な腕を掲げていた。図書館目掛けて振り下ろそうとしているのだろう。大きすぎる体躯故か動作はゆっくりだったが、楽観視はできなかった。一撃でも入れられれば、図書館が崩壊しかねないからだ。
逃げ遅れた人々を巻き込んで。
「ちっ」
クロはすかさず闇を噴射し、回り込んで図書館の上まで飛んだ。
(『クロキホウゲキ』!)
両手から特大の闇を放出し、振り下ろされる魔物の腕に対抗する。反動で体が図書館の屋根に叩きつけられそうになったが、彼は身を捻って器用に着地した。
(……どうだ?)
弾いた魔物の腕に、直線的な亀裂が入っていく。
やがて瓦解し、それらを構成していた本のいくつかが、射出されるようにしてクロの方へと飛来した。
表紙が黒で統一された本。それらを撃墜するべく、闇の剣を手に握る。
「なっ……!?」
斬り裂こうとした瞬間、本が開いた。
ページの中から生え出た一本の腕が、剣を受け止める。押しても引いても、びくともしない。その間に他の本も同様に開き、何らかの魔法を放つであろう兆しを見せた。
クロは剣を放し、後方に飛ぶ。
一つの本からは、幾多もの矢が連続して。別の本からは、炎が、それぞれ放たれた。回避していなければ、今頃あれらの餌食になっていたことだろう。
(『クロキカギヅメ』!)
両手から三本ずつ、計六本の斬撃を飛ばして本を斬り刻む。
ただの廃紙となったそれらに纏わりついていた闇は、本体の巨人へと還元されていった。
(……再生しないだけマシ、ってとこか?)
図書館内にもう本が残っていないだけかもしれないが、損傷部分を魔物が外部から補充することはなく、代わりに体格を縮小することで補っている。
構成している本を刻み続ければ、活動停止に追い込めるだろう。そう思った矢先、魔物から六つ、闇の球体が飛び出した。
(……なんだ?)
それらは形を変えながら、近隣住宅の屋根や石壁の上、道路の方へと飛んでいく。
まずい。
直感的にそう判断したクロは、両手に魔力を集中させた。拘束する魔法を発動するための準備だ。
だが。
(囲まれた……!)
クロの周囲にも、同様に六つの球体が放たれた。飛来しながら体積を増幅させているため、抜け出すことは困難だ。
魔物から発生した闇は、全て同じ形に変化した。
人型の肉体。二本の角。肩のあたりから生えた翼。先端の尖った尻尾。
悪魔と呼ぶにふさわしい姿をしていたそれらは、家屋や木々への攻撃を開始した。
(『カギヅメ』!)
周辺の被害を食い止めようにも、まずは包囲を突破しなければならない。それがわかっていたクロは闇の爪を全力で振るうが。
(効かねえ……!)
魔法は確かに直撃した。相手の体を八つ裂きにできたことから、威力も申し分なかったと言える。
だが、悪魔たちは即座に体を再生させ、そのままクロへの接近を続けていた。
「めんど、くせえ、なあっ!」
緩みを見せることのない包囲網から繰り出される、連続した近接攻撃。
決して躱せないわけではないが、それだけではいずれ体力が尽きてしまう。それを案じたクロは回避を続けながら、全身に流れる魔力へと意識を集中させた。
(……今だ!)
悪魔の一匹が攻撃を終え、次の悪魔による攻撃が始まるまでの、僅かな時間。そこを狙ってクロは全身から闇を放出し、その勢いで爆発を引き起こした。
ここは図書館の上。大規模な爆発を起こせば、崩落して内部の人間を巻き込みかねない。当然、そうならないように調節はしたが、それでも自らの視界を奪う程の威力だった。
(今のうちに……)
煙を突っ切り、悪魔による包囲を掻い潜る。
今の攻撃でも、恐らくすぐに再生されてしまうだろう。その前に脱出し、魔物本体へと接近する必要があった。
だが、煙を抜けたすぐ先にも、悪魔の姿が。
(くっそ!)
闇の剣を握り、斬り裂く。
二匹目、三匹目と迫ってくるが、そのまま走り続け、間合いに入ったところを次々に斬り伏せていった。
(『クロキヤイバ』!)
自身と魔物本体の間を隔てる物がなくなった瞬間、クロは斬撃を放つ。
できるだけ高威力のものを、連続で。
そう考えていたが、すぐに悪魔が飛来してきたため三発に留まってしまった。
(……よし!)
悪魔をいなしながら、本体の様子を確認する。
斬撃は全て命中していた。両腕の先と、左足。被撃したあたりに再び直線的な亀裂が入り、崩壊した。
足を失ったことで魔物は体勢を崩しかけているが、揺らめきながら器用にバランスを保っている。間抜けな姿を晒しつつも、分離した本を再び操作した。
クロではなく、周辺の建物に向けて。
(させねえ!)
彼もまた、闇の球体を散らして放つ。
今回は、ただ捕まえるだけではない。球体を紐のように変化させ、本と悪魔を素早く絡め取り、その後一切の隙間がなくなるように包み込んだ。
(消し飛べ!)
再び球体の形に戻したそれらを一瞬で圧縮し、消滅させる。閉じ込めた本も悪魔も、跡形もなく消え去った。一時的だが、町への攻撃は食い止められたようだ。もっとも、最初に悪魔が放出されてから時間が経ちすぎていたため、被害の規模は決して小さくないが。
(あっぶね!)
音もなく接近していた悪魔の攻撃を、間一髪躱す。
斬っても斬っても悪魔は再生し、更には増え続けていた。恐らく、核となっている本を破壊、もしくは正常化させなければ、半永久的に今の状況が続くのだろう。
巨人を構成している中にそれらがあるはずだが、判別することはできそうにない。何も考えず連撃を仕掛けようにも、数の暴力で再び包囲されてしまっている。
しかも、今度は遠方で浮遊しながら様子見している個体がいた。これでは、爆発で周囲の悪魔を蹴散らしたとしても、すぐに増援が来てしまう。同じ手は通用しなそうだった。
(くそっ、このままじゃ……)
悪魔による攻撃の矛先は、クロだけではない。尚も数が増え続けていることで、町の被害もまた、少しずつ広がり始めていた。
この際、多少の被撃は止むを得ない。
彼は魔物の方へと向き直り、両手を後方に伸ばして闇を噴射した。
「ぐっ……!」
悪魔の攻撃を受けながらも、強引に包囲を抜ける。
二回の再構築によって魔物の体が図書館よりも小さくなっていたため、クロは横に平行移動するだけで相手の上を位置取ることができた。
(『クロキホウゲキ』!)
真上に来た瞬間、魔物へ向けて闇を惜しみなく放出する。小さくなったとは言え、未だ巨体と称しても差し支えないそれが、一瞬にして包み隠された。
(ここから……!)
反動で更に高度を増すが、着地の姿勢を取らずに頭を下に向け、闇の剣を握って魔物の方を見据える。
自らの攻撃によって舞い上がった土煙。その中から、本の数々が弾丸のように撃ち出された。
クロは剣を振るい、次々にそれらを斬り裂く。始めは全てが彼を狙う軌道だったが、効果なしと判断されたのか、途中から彼を避けるようにして上昇していった。
土煙が晴れる頃には巨人の姿は消え、全ての本が上空へ。
「よっと」
受け身を取りながら着地し、すかさず見上げる。
上空では、渦を巻くように回る本から闇が少しずつ広がっていた。それらは互いに引き寄せられるようにして混ざり合い、体積を広げていく。そして、先程までとは違う新たな形を作り出した。
トカゲのような体。一対の巨大な羽。鋭利な爪と、牙。
龍と呼ばれる生き物だ。もっとも、この世界にとっては空想上のものだが。前の世界にこのような存在がいたかどうかまでは、クロは知り得ない。
(しぶとい野郎だな……)
クロが内心で愚痴を吐いていると、魔物はその翼をはためかせて更に上空へと飛翔した。
(やっべ)
クロも再び闇を放って飛行する。
だが、機動性が段違いだ。魔物が一回の羽ばたきで上げる高度は、彼が一回闇を放つことで達するそれの、およそ三倍程。他に手がないため仕方ないが、それでも効率が悪すぎる。
(……止まった?)
なんの前触れもなく、相手の高度が一定になった。
まだ距離はあるが、このままなら追いつける。そう思った次の瞬間、クロの余裕は一気になくなった。
魔物が大きく開口し、そこに闇を集中させたためだ。恐らくは、吐くつもりなのだろう。
回避自体は、そこまで難しくない。だが、その後が問題だ。あれが地面に直撃すれば、間違いなく図書館とその近辺一帯が更地になる。
(くそっ……!)
考える間もなく、魔物の口から闇が吐き出された。
炎のように広がる攻撃。
クロは両手に魔力を集中させて迎え撃とうとしたが、ここで予想外の出来事が発生した。
「え……」
闇の炎が、途中で堰き止められたのだ。まるで、見えない壁にぶつかったかのように。
それだけではない。炎が反射し、逆に魔物の体を包み込んだ。
咆哮が聞こえる。だが、それはどこかくぐもっているようだった。
(あれは……)
闇の噴射を止めて自身の高度が下がったことで、クロはようやくその気配に気づく。
赤と黒の二色で構成された鎧。追い続けていたその存在が、図書館の屋根の上に立っていた。
(さっきのは、あいつが……?)
再び聞こえた咆哮により、クロは振り向く。
まだ終わっていない。魔物は炎に包まれながら、見る見る高度を落としていた。このまま地面に衝突したら、辺り一面が焼け野原になりかねない。『見えない壁』が尚も展開されていればいいが、咆哮の聞こえ方からして望み薄だ。
どうにかしなければ。彼がそう思考を巡らせようとした瞬間、事態は急変した。
どこからか発生した二つの竜巻が、魔物に覆い被さるようにしてぶつかる。恐らくは、それもあの鎧によるものだろう。
魔物の身を焦がし続けていた炎と混ざり合うことで、はっきりと可視化された風。それは徐々に球体へと変化し、絶え間なく流動する牢獄となった。
咆哮をかき消す程の凄まじい轟音が、辺りに鳴り響く。
やがて、一際大きな爆発音とともに漆黒の暴風が弾けた。魔物がいたはずのそこには、夕焼けの橙に染められた空が広がっている。
まるで、最初から何もなかったかのように。
(……あいつは?)
降下を続けながら、図書館の方に視線を向ける。だが、目当ての人物は既に姿を消してしまっていた。
歯を食いしばりながらも、クロは闇を放出してその場を離れる。周辺に隠れられる場所が少なかったからだ。
既に注目の的になっているが、なるべく人の少ない方を目指して飛行し、徐々に高度を落としてから転移魔法で物陰を点々とする。周囲に人の気配がないことを確認してから、ようやく変装を解除した。
「くそっ!」
裏路地にて腰を下ろしたクロは、地面を強く殴りつける。
一人で仕留め切れなかった不甲斐なさ。またも鎧を逃してしまった悔しさ。この二つの感情に苛まれたのだ。
今更、彼が負の感情に囚われることはないが、それらを全く抱かないわけではない。この世界に足を踏み入れてからは、苦悩や葛藤が続いてばかりだ。
「……帰るか」
長居するわけにもいかない。それなりの距離を移動したため、早く帰らなければ門限に間に合わなくなってしまう。
好機が無駄になったが、取り返しのつかない失敗をしたわけではない。
次こそは。
そんな決意を胸に抱きながら、クロは素知らぬ顔で街中を歩くのだった。