第75話「広がる輪」
「ぶははははっ!」
教室に汚い笑い声が響く。
声の主は、池尾貴久だった。彼は指を差し、大袈裟に腹を抱えながら尚も笑い続けている。
その先にいたのは、クロだ。
二人は現在、一時限目前の休み時間を使って談笑している。もっとも、笑っているのは主に貴久なのだが。
「まだ笑ってんのかよ……」
「いや、悪い悪い。さっきのお前を思い出したら、つい、な」
全力疾走の甲斐もあって、クロは始業時間ぎりぎりに教室へと滑り込むことができた。
肌寒い季節だというのに汗をだらだらと流し、呼吸を乱しているその様は、さぞかし滑稽だったのだろう。
「にしても遅刻ぎりぎりなんて、寝坊でもしたのか?」
「……まあ、そんなとこ」
鹿と戦っていたなどと、言えるはずがない。寝坊したこともまた事実であるため、否定はしなかった。
「ま、緊張なりなんなりするよな」
ただ面白かった、というだけらしく、積極的に貶そうという意思はなさそうだ。言葉を濁したことに対してのその返しは、むしろ気遣いをしているようにすら感じられる。
「……なあ。この辺って、鹿とかよく出るのか?」
「お? まあ、そうだな……しょっちゅう出るって程じゃないが、珍しくはないぞ」
「へえ」
「もしかして見たのか?」
「ああ、ついさっき。驚いたよ。かなり近くにいたからさ」
向こうから接近してきたと言う方が正しいが、下手に興味を持たれても困ると思い、クロは無難な回答をするに留めた。
「そういや、クロは『東京』から越して来たんだっけか。都会出身じゃ、そりゃびっくりするだろうな」
ここは田舎と呼べる部類の地域らしい。充分栄えているようにも見えるが、上には上がある、ということなのだろうか。この世界を訪れたばかりのクロには、想像もつかない。
にもかかわらず、『東京』────都会出身ということになっている。学校側に登録されている絵札の家族構成を誤魔化すためには、それが一番都合が良かったらしい。
そのせいで、大して知りもしない『故郷』について、クロは聞かれる羽目になってしまった。昨日はなんとか乗り切れたが、いつぼろが出るかわからない。早急に、この世界のことをもっと詳しく知らなければ。
「鹿に襲われたり、ってないのか?」
「……いや、車と事故を起こすとかならまだしも、人を襲うことはまずないんじゃないか? 熊とか猪なら、たまに聞くけどな」
「ふーん。熊に猪、ねえ……」
「まあ、怒らせるようなことしたなら、わかんないけどな……そんな質問するってことは、もしかして襲われたのか?」
「いやいや! 気になっただけだよ」
両手を何度か交差させ、全力で否定する。上手い具合にはぐらかしながらも、クロは考え続けていた。
何故、鹿が襲ってきたのか。
動物は視線に敏感だと言うものの、少し見ただけであそこまで激昂するとは考えづらい。
接触する前に何かがあったのか。それとも、やはり自身が引き金となっているのか。
前者については考えようがない。後者だとして、視線以外に原因となり得るものは、何か。
(……闇属性の魔力、か?)
魔力が存在しないとしても、それを感知できないとは限らないはずだ。野生動物ともなれば、本能的にわかるのかもしれない。
だが、そうだとしても、あの鹿から魔物と同じ気配を感じた理由までは解明できない。いったい、何が起こっているのだろうか。
「────それより、クロは試験大丈夫なのか?」
「え?」
試験、という単語に、クロの意識が引き戻される。
「知らないのか? あと二週間もすれば試験だぞ」
「あ、ああ。そういえばそうらしいな」
そして思い出した。現状が、楽観視できるものではないことを。
「実は勉強苦手で……池尾さえ良ければ教えてほしいんだけど」
「お、いいぞ……って言いたいとこなんだが」
「駄目か?」
「駄目ってより、俺には無理だ。何を隠そう、補習常連組だからな」
「なんで自慢げなんだよ……」
腕を組み、鼻から息を吐く貴久。そんな彼を見て、クロはため息混じりに呟いた。
「教えるなら、やっぱ勉強得意な奴の方がいいよな……シホ! ちょっと来てくれ!」
貴久がそう声をかけると、教室の中央辺りに座っていた一人の女子生徒が振り返る。そして立ち上がり、二人の方へと近づいてきた。
「どうしたの?」
シホ。
そう呼ばれた彼女は、後ろで束ねた艶やかな長髪が特徴的だった。
「クロが試験勉強見てほしいって言うんだけど、ほら、俺にはちょっと厳しいだろ?」
「ああ……まあ、そうだね」
どうやら、貴久の成績が悪いことは周知の事実らしい。シホは馬鹿にするわけでもなく苦笑していた。
「それで、シホに見てもらえないかと思ってさ」
「うん。いいよ」
「えっ」
なんの迷いもなく承諾されたため、クロは素っ頓狂な声を漏らす。嬉しくはあるのだが、それ以上に申し訳なく感じられていた。
「い、いいのか? 邪魔にならないか?」
「大丈夫だよ。他人に教えるのも勉強になるし。あ、そうだ」
シホが、思い出したかのように手を叩く。
「私、氷見谷紫穂。よろしくね、クロ君」
「あ、ああ。よろしく。氷見谷」
クロから全体に向けての自己紹介はしたが、その逆はまだ完了していない。貴久を含む数人は覚えられたが、まだこれといった接点を持たないような同級生の名前は覚えられていないため、自分から進んで名乗ってくれることは、彼にとってありがたいことだった。
「良かったな、クロ。大船に乗ったつもりでいていいぞ」
「そんな、大袈裟だよ」
「大袈裟なわけあるか」
貴久が視線を紫穂からクロへ動かし、右手の指を三本立てる。
「紫穂はな、学年で三本の指に入る程の天才なんだぞ」
「へえ!」
「このクラスでは今んとこずっと成績トップだしな」
「いや、たまたまだよ」
「っかあ〜! 俺もそんなこと言えるようになりてえなあ!」
「もう……」
頬を紅潮させる紫穂。どうやら、あまり褒められ慣れてはいないようだ。貴久の自信を少し分けてもらえばちょうど良さそうだと思いつつ、クロは彼女へと視線を動かす。
「えっと……じゃあ、氷見谷さえ良ければ勉強見てくれないか?」
「うん。もちろん」
「ありがとう」
「試験まであまり時間がないから……今日の放課後からでどうかな?」
「わかった。それで頼むよ」
ふと、紫穂が壁掛けの時計に目を向けた。
時刻は九時前。一時限目の始まりを告げる鐘の音が、すぐそこまで迫ってきている。
「じゃあ、また放課後にね」
「了解」
そう言って、紫穂は自席に戻っていった。
彼女の着席とほぼ同時に、鐘の音が鳴る。クロは頬杖をつくとともに、左耳だけを器用に押さえて視線を落とした。
毎度毎度わざとらしく両耳を塞いでいては、怪訝な目で見られかねない。完全に克服できる気はしないが、それでも徐々に慣らしていくべきだと考えていた。
「チャイム、まだ苦手なのか?」
この鐘の音は『チャイム』という名称で通っているらしい。
「ああ……まあ、大丈夫だよ。多分」
「……そっか」
程なくして担当教師が現れ、授業開始の号令がかかる。クロはノートと教科書を開いて、文字の羅列と睨み合った。
「良かったな、クロ。頑張れよ?」
貴久が小声で話しかけてくる。
教師の視線が手元の教科書に落とされていることを確認してから、クロは彼の方を向いた。
「ああ。おかげで試験はなんとかなりそうだよ」
天才と持て囃される紫穂に教えを乞えば、自身とて学力は向上するだろう。そう思っての発言だった。
「いやいや、そうじゃなくてよ」
「え?」
「……紫穂、倍率高いが今はフリーだからな」
何を言っているのかわからず、クロは沈黙する。そんな彼を他所に、貴久は続けた。
「上手くやれば付き合えるかもしんないぜ?」
「ぶふっ!?」
クロは顔を背けて噴き出す。
その行動で、周囲の視線が一気に彼へと集まった。
「どうした、藤咲。大丈夫か?」
壮年の男性教師が、心配そうにクロの方を見ている。怪しんだり、怒ったりしているわけではなさそうだ。クラスメイトたちの視線も、同様のものに見える。
「は、はい……あの、唾でむせちゃって」
「そうか」
短いやり取りの後、何事もなかったかのように授業が再開された。そのことに胸を撫で下ろしながら、貴久の発言を思い出す。
付き合う。その意味がわからない程、クロも馬鹿ではなかった。
「……俺には不釣り合いだよ」
紫穂の容姿は、誰が見ても手放しで褒められる程に整っている。クロが今まで出会った美しい女性たちと比較しても、決して引けを取らないだろう。
対して、己はどうだろうかと自問する。
少なくとも、前の世界で容姿を褒められたことは一度もない。決して壊滅的なものではないはずだが、すぐ傍にハクという美男子がいたためその自信すら持てなかった。
「そうか? まあ、当たって砕けろってやつだ」
そう言って、貴久は視線を正面へと戻す。
「……砕けちゃ駄目だろ」
そんな行動を取る度胸もないが、と心の中で続けながら、クロもペンを走らせるのだった。




