第74話「前触れ」
「やっちまったああああっ!」
陽射しがありながらも、まだ肌寒い朝のこと。鞄片手に通学路をひた走る、一人の少年がいた。
何を隠そう、藤咲クロである。
転入した翌日。彼は寝坊してしまい、朝食も取らずに全力疾走することを余儀なくされていた。いっそ休んでしまおうかとも考えたが、登校二日目にしてそのような所業を働けば絵札からの信用を失いかねないと判断し、今に至る。
周囲に、他の生徒の姿は見えない。始業直前に駆け込もうという愚か者は、彼以外にはいないようだった。
「……ん?」
自宅から学校までの距離はそう遠くないため、このまま速度を落とさなければ間に合いそうではあったのだが、彼は足を止めてしまう。
そこは、直進と右折に分かれる丁字路。右に曲がってしばらく進めば学校に辿り着けるのだが、クロは直進方向をじっと見つめていた。
そこに、普段はないものが見えたからだ。それなりに距離が開いていても多少の差異を判別できる程度には、この道を利用していた。
「あれは……」
それは、物ではない。目を凝らして見ると、のそのそと動いているのがわかった。角を生やした獣が、四足歩行で大地を踏み締めている。
「……鹿?」
どこで見た、とはっきり思い出すことはできないが、クロはその動物を知っていた。そして、このような住宅街で見るのは稀だということも。
近くの山から迷い込んでしまったのだろうか。そう思いながら先を急ごうとした、その時。
目が合った。はっきりと、そうわかった。
瞬間、鹿が駆け出し、ぐんぐんと距離を詰めてくる。
「え?」
何かから逃げている、というわけではなさそうだ。だが、振り返っても、特に何があるわけでもない。
つまり、鹿の狙いはクロということだ。
「待て待て待て待て!」
学校のある方へと、クロも駆け出す。
ただの偶然であってくれ。そのまま真っ直ぐ進んでくれ。
そんな願いは、無情にも打ち砕かれた。鹿もまた進行方向を変え、彼の後を追うようにして走り続ける。
いや、事実、追いかけているのだろう。
「なんでだよっ!?」
人と鹿。どちらが速いかは、言うまでもない。いつの間にか、後数秒で追いつかれてしまう程の距離にまで迫ってきていた。
疑似強化を使えば、あるいは。そう考えたが、逃げきることができたとしても、暴走状態にあると言って差し支えないであろう鹿を放置するのは気が引けた。
ならば。
「ふんぬっ……!」
鞄を放り投げてから振り返り、肉迫していた鹿の角を掴んで突進を受け止める。多少強引でも、鎮静化させてみようと考えたのだ。
「重っ、てえ、なあ……!」
じりじりと押されるクロ。疑似強化は、まだ使っていない。傍から見て不自然でない程度に使うべきか、悩んだ瞬間。
(これ、は……!?)
突如として違和感を覚えた。
過去に、何度も感じたもの。だが、ここで感じるはずのないもの。
予想外の出来事に思考を乱されたせいで、クロは一瞬力を緩めてしまった。
その一瞬が、致命的な隙になりかねないというのに。
「あっ……」
鹿が勢い良く頭を横に振る。手を放してしまったクロは、左方向へと投げ飛ばされる形になった。
それだけなら、なんら問題はなかっただろう。前の世界で鍛錬を積んできた彼にとって、受け身を取ることなどそう難しくはないのだから。
だが不幸にも、彼が投げ飛ばされたのは車道だった。
そして、待ってましたと言わんばかりに、赤い車が彼へと突っ込んでいく。
(やべっ……)
その位置から『影』が見えたことだけは、幸運と呼べるだろう。
視界の端に映っていた、歩道脇にある木の影。転移魔法でそこに飛んだおかげで、事なきを得た。受け身を取りつつ、クロは周囲を確認する。
「……! 車は!?」
人がいきなり飛び出してきて、慌てない運転手などいるはずはない。二次的な事故が起きていないかとクロは心配したが、どうやら先程の車は急停止しただけで、どこかに衝突したり横転したりはしていないようだ。周囲に他の車がいなかったことも、要因の一つかもしれない。
「さて、と」
一安心しつつも、鎮圧するべき相手に視線を戻す。
鹿は唸り声を上げながら、今にもクロの方へ突進しようとしていた。
「させねえよ」
それより速く、クロが駆け出す。
相手の速度が上がりきる前に懐へと潜り込み、角が当たらないよう身を反らしながら、右の拳で渾身の一撃を叩き込んだ。
「はあっ……」
鹿が倒れ込み、大きな音が鳴り響く。立ち上がれたとしても時間がかかるはずだ。しばらくは身動きを取れないだろう。
とりあえず、クロの目的は果たせたようだ。
「……そうだ、車!」
停止している車の方へ、クロは駆けていった。
運転手からすれば何が起こったのかわからないはずだが、それをいいことに放置するわけにもいかない。
運転席側の窓を軽く叩き、開けてもらう。
「大丈夫ですか?」
「え、いや、あの……」
運転手は若い男だった。二十代前半といったところか。
男は明らかに動揺している。無理もない。運転中、人がいきなり飛び出してきたかと思ったら、その瞬間に消え、何事もなかったかのように再び目の前に現れたのだから。
「だ、大丈夫なんですか……? ぼ、僕、今、轢いて……」
呂律が回っていなかったが、察するに、クロを轢いてしまったと勘違いしているらしい。消えた瞬間を見ていないのか、はたまた覚えていないのか。
どちらにせよ、その点について追及されないのならば好都合だ。
「大丈夫です。あなたは何も轢いてません。ご覧くださいこの車体を! 新品同様ぴかぴかですよ!」
「そ、そんなはずは……」
男は疑念の眼差しを向けながらも、降りて自らの車を確認する。
クロは嘘などついていない。
事故は本当に起きていないのだ。
故に、車には傷やへこみが存在しない。元からついていたものに関しては、彼の知るところではないが。
「あ、あれえ……?」
「お兄さんの高い運転技術と、俺の反射神経で、上手いこと事故を防いだんです」
「いや、でも」
「そう、なん、です!」
顔をずいっと近づけ、咄嗟に考えた台詞を吐く。今の言葉には嘘が混じっているが、誰を傷つけるためのものでもないため、心が痛むことはなかった。
「わ、わかったわかった……」
男は再び車に乗り込み、窓から顔を出す。尚も納得できていないのか、クロに向ける笑みはやや引き攣っていた。
「えっと……気をつけるんだよ?」
「はい! あ、そうだ」
クロは自身の口元に人差し指を当てる。そして、圧をかけるように男へ顔を近づけてから、続けた。
「今のことは内緒で」
「あ、ああ……」
何を言っても押し切られると判断したのか、男は食い下がることなく窓を閉じる。クロが少し離れてから手を振ると、車は再び発進し、走り去っていった。
「……さて」
やるべきことはまだある。先程の違和感について探らなければ。そう思い視線を戻すと、ちょうど鹿が立ち上がろうとしていた。
(来るか……?)
念のため、構える。
だが、鹿はクロを見ても特に何の反応も見せなかった。先程までとは打って変わって大人しい。
違和感は、消えてしまっていた。
もっとよく調べようと、一歩踏み込む。
「あっ……!」
その瞬間、鹿は山の方へと駆け出した。まるで何事もなかったかのように、軽快な足取りで去っていく。
その後ろ姿を、クロは呆然と見つめていた。
(……それにしても、さっきの)
鹿が発していた、違和感。その正体について、クロは目星がついていた。
だが、信じられない。信じたくない。
同じものを外部から感じ取ったのは、あの世界にいた頃のことだ。
「……魔物、なのか?」
冥王の瘴気に当てられて暴走した動物。それらが宿す闇属性の魔力を、クロは鹿から感じ取っていた。
あり得ない。この世界には、魔物どころか魔力も存在しないのだから。
だが、他の何かであるとも考えづらかった。それは彼自身、同じものを宿しているからだろう。
何故、闇属性の魔力が、あの鹿に────
調査し損ねたことが悔やまれる。
「……ああああっ!?」
とりあえず学校に、と考えて、思い出した。遅刻寸前だったことを。
付近に時計はないが、確認せずとも猶予がほとんど残されていないであろうことは容易に想像できる。鹿も驚くような速度で、クロは学校へと向かうのだった。




