第73話「居心地」
「ただいま」
「おかえりなさい」
家主の帰宅に、返事をするクロ。彼は現在、居候先のリビングでくつろいでいた。
「待たせてすまない。今から夕食の準備をしよう」
真っ黒な背広を着て現れたのは、絵札だ。
衣食住の提供。それらは全て、彼のもとで行われるらしい。
「……教えてくれれば、俺がやっときますよ」
至れり尽くせりのこの状況で、踏ん反り返って鼻歌を歌える程、クロは世間知らずではない。
交換条件として学校へと通わせられているが、それもまた、施しを受けているに過ぎないだろう。故に、彼は絵札に対して何も返せていないことを、少なからず申し訳なく感じていた。
「ふむ。その上昇志向は素直に感心するが……教えるのは休日にしよう。時間があるときの方が、やりやすいからな」
「は、はあ……」
結局、今日の料理も絵札が振る舞ってくれることに。数分で着替え終えると、彼は食材を並べて手早く調理を始めた。
その様子を、クロは椅子に座りながら見つめている。
(……器用なもんだな)
キッチンの縁が少し高くなっているため、肝心の食材は視界に入らない。辛うじて見えたのが、慣れた様子で調理をしている絵札の上半身だった。
「────できたぞ」
開始から十分程経過して食卓に並べられたのは、肉と野菜の炒めもの。何かのタレらしき、どろどろとした茶色の液体がかけられていた。
それと、米を盛りつけた茶碗が二つ。
鼻に運ばれるそれらの香りが、クロの空腹を加速させる。間食を取っていたわけでもなかったため、余計に。
「簡単なものですまないね」
「いや、めちゃくちゃ美味そうですよ」
向かい合って座った二人は箸を掴み、そのまま両手を合わせた。
「いただきます」
声が重なる。そのことには特に触れず、それぞれ食べ始めた。
肉と野菜を一口。適度な甘味と塩気に刺激され、体が米を求める。たった一口の主菜だけで、いくらでも米を運べそうだった。
口の中をいっぱいに満たし、咀嚼する。ゆっくりとそれらを味わいたいという気持ちと、早く次へと手を伸ばしたいという気持ちが、ぶつかり合った。
クロの中で勝利したのは、後者だ。
肉、野菜、米、米、米。
それらを一気に口の中へとかき込む。
「……喜んでもらえて何よりだよ」
微笑しながら、絵札がそう言った。クロの口の中にあるものが飲み込まれたことを確認してから、彼は続ける。
「学校は、どうだった?」
思いがけない質問に、クロは箸を止めた。
「……悪くは、なかったです」
「そうか」
「まだあまり話せてないけど、みんな優しそうで……」
「その割には、浮かない顔をしているな」
今述べたことは嘘ではない。ただ、クロは心に引っかかりを覚えていた。
それが、顔に出てしまったのだろう。相変わらず隠し事が下手だと心の中で自嘲しながらも、彼は素直な気持ちを語ることにした。
「懐かしいと思えるくらいに、居心地はいいんです。でも、それと同時に、ここにいちゃいけないんじゃないかって、思っちゃって……」
たった一日ではあるが、その生活に懐かしさや既視感を覚えていた。やはり、記憶を失う前は似たような環境下にいたのだろう。
序盤こそ躓きかけたものの、温かく迎え入れてもらえたために居心地は良かった。それでも、そこに居場所を求めてはならない気がしている。
帰るべき場所があるからか。
未だ明確にならない罪があるからか。
探すべき仲間がいるからか。
恐らくは、その全てが理由だろう。
「私が言うのもなんだが、無理に通い続ける必要はない。勉強をするだけなら、他にいくらでも方法はあるからな。まあ、学校に通うのが一番堅実なことに変わりはないが」
「……もう少し、頑張ってみます」
通学を続けることで、何か記憶の手掛かりを得られるかもしれない。
ハクの情報が掴めるまで、捜索には携われないのだ。ならば、少しでも有意義なことをしていなければ顔向けができないだろう。
「そうか。そういえば、そろそろ中間試験があるはずだが、勉強の方は大丈夫そうか?」
「う……」
大丈夫ではない。
絵札による英才教育のおかげで、各教科に対するある程度の知識や思考力は身についている。だが、今日初めて受けた授業で、クロは早速置いてけぼりをくらいそうになっていた。
「ま、まあ、なんとかなりますよ」
視線を逸らし、わざとらしく誤魔化す。ただ、それだけでは見逃してもらえない程に、クロの現状は芳しくないものだった。
「国語五十二点」
「ぶふっ!?」
突然の指摘に、クロは思わず噴き出す。幸い、口に何も含んでいなかったため、部屋が汚れることはなかった。
「数学六十四点、理科四十六点、社会四十四点、英語に至っては三十七点、だったな」
それは、転入直前に受けさせられた学力測定の試験でクロが叩き出した点数だ。満点が百点であることを考慮すると、お世辞にも優秀な成績とは言い難い。
「な、なんでそれを……」
「一教員であり、君の保護者でもある。これくらいのことは知っていて当然だ」
「……ま、まあでも、俺、高得点は狙ってないですし」
苦し紛れの言い訳。狙ったとしても、今のクロでは高得点など夢のまた夢だろう。声が震えているのは、彼自身それを自覚しているためだ。
「……好成績である必要はないが、赤点は取らない方がいいぞ」
「赤点?」
「あの学校だと、ちょうど三十点未満だな。それを切ると、補習を受けなければならなくなる」
「……普段の授業に加えて、ってことですよね」
「もちろんだ。所詮は義務教育。出なかったところで不都合があるわけではないが……」
咳払いをする絵札。失言を誤魔化すかのように、再び口を開いた。
「捜索を優先していいとは言ったが、補習なんてことになった日には、意地でも捜索は行わせない。別に、君がいなくとも対象との接触は可能なわけだしな」
「……マジですか」
「大マジだ」
三十点以上。あまりに低い壁だが、今のクロには突破不可能なものに思えてならなかった。
試験まで、残り二週間程。成績を維持及び向上させられる自信は、彼にはない。
「……ハクは、まだ見つからないんですか?」
ハクさえ見つかってくれれば、試験などどうなってもいいのに。そんなことを考えながら、クロは尋ねる。
「ああ。噂一つ聞けていないようだ」
「そう、ですか」
そうすぐに見つかるはずがない。
わかってはいても、やはり期待してしまう。
「君の仲間、ということは、彼も魔法が使えると考えていいのか?」
「ええ、まあ……」
どんな魔法、とまでは答えなかった。ハクの情報をどこまで明かしていいものか、判断に困ったからだ。
「いっそ魔法を使ってくれれば、探しやすくなるんだがな」
「……俺が使えば、向こうから来るかもしれませんね」
「冗談だ。そんなことするなよ? 悪目立ちするからな」
「わかってますよ」
冗談を言い合える程度には、クロは絵札を信用することができていた。未だに腹の内が見えないが、悪人だとは思えない。もっとも、悪人は善人の皮を被って近づいてくるものなのだろうが。
「……さて、中間試験の話に戻るが」
「うっ」
上手く話を逸らせたと思っていたが、そうは問屋が卸さないらしい。
「……そうだな。私が教えても君のためにならないだろうし」
いつの間にか完食したらしく、絵札は箸を置いた。食後の挨拶を挟むことなく、話が続けられる。
「同級生に頼んで教えてもらうといい。友人を作るのも、君にとって必要なことだろう」
「友人、ねえ」
友人。そう呼べる相手はいただろうか。今日話した相手を、クロは順に思い出していく。
一番好感触だったのは、隣の席の男子、池尾貴久だ。気にかけてくれているらしく、何かと声をかけてくれた。
(とりあえず、池尾に頼んでみるか)
「なんとかなりそうか?」
「まあ、多分」
「なら一安心だ」
ちょうど会話が一区切りついたところで、クロも食べ終える。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
そんなやり取りの後、絵札はてきぱきと片付けを始めた。彼を手伝うべく、クロも立ち上がる。
「皿洗いくらいやりますよ」
「気にするな。学生は勉強に励め」
「うっ……あ、ありがとうございます」
絵札が台所の前を譲るつもりはなさそうだ。申し訳なさを感じつつも、クロは与えられた自室へと戻ることにする。
まずは自力で頑張ろう。そう思いながら彼は一人、机に向かって教科書を開くのだった。




