第21話「和解」
「ハク、いるかー?」
寝室の扉を開けてそう尋ねるも、返事はない。だが、ハクの姿はベッドの上にあった。寝息と同時に、掛けられた布団が上下している。
「しまった、もう寝ちゃってたか」
さすがに時間を潰しすぎたらしい。物音を立てないように自分の寝床へ移動し、クロも体を横にする。
結局、謝ることはできなかった。こういうことは後回しにすると面倒なことになると、己の勘が告げている。明日は早起きして、開口一番に謝罪しよう、そう思いながらクロは瞼を閉じた。
「クロ」
「のわっ!?」
急に話しかけられたことで、クロは奇妙な叫び声を上げる。まさかハクが起きているとは思わなかったため、仕方ないと言えば仕方ないが。
「なんだ、起きてたのか」
「……ごめんね」
「いや、別に謝ることねえけど」
「そうじゃなくて、修行中のこと」
「……え?」
クロは戸惑った。謝るべきは自分のはずだ。なのに何故、ハクが謝っているのだろう、と。
「悪いのは俺だろ」
「いや、あのとき、僕は少し苛立っていたんだ」
「ハクが……?」
「うん。僕も、気持ちばかり急いてしまっていてね……それを、クロにぶつけてしまった。お師匠様を侮辱された、というのを言い訳にして八つ当たりしたんだ」
クロは大きな勘違いをしていた。ハクのことを、完璧超人か何かだと思っていたのだ。だがハクも、自分と同じ人間である。悩みもすれば、怒りもする。そんな当たり前のことを、クロは今ようやく理解した。
「俺も、ごめん」
「悪いのは僕だよ」
「元はと言えば俺が悪いだろ」
「いや、僕が変に反応したから」
譲らない二人。話は平行線で、このままでは埒が明かない。ならばと、クロはいつかの出来事を思い出しながら折衷案を出すことにする。
「わかった。じゃあどっちも悪かったってことで終わりにしようぜ」
「……そうだね。このまま口論になっても不毛だし」
「言えてら」
二人は共に笑い声を漏らした。夜故の静けさこそあるものの、重い空気は既に鳴りを潜めていて、普段どおりの雰囲気が戻っている。
「そういえば、なんでハクまで修行を受け直してるんだ? 証集めの旅に出る前に、修行は受けてなかったのか?」
「受けてたよ。でも、ある程度だけさ。今考えれば充分とは言えなかったね」
「どうして……」
「胸騒ぎがしたんだよ。一刻も早く、動かなければならない気がしたんだ」
「……そっか」
その胸騒ぎのおかげで、ハクは屋敷での一件に間に合った。偶然とは言え、自分は色々な人間に助けられているのだと、クロはつくづく感じる。その恩に報いるべく、鍛錬に励まなければ。
ただ、今日は少しだけ羽目を外してみてもいいだろう。そう考え、彼は普段できないような話をすることにした。
「恋愛についてでも語るか?」
「どうしたんだい? いきなり」
突拍子もない発言に、ハクが呆れたように言い放つ。その反応が当然と理解しているため、クロも気分を損ねることなく続けた。
「よく考えたら俺、ハクのこと全然知らないと思ってさ。こんな夜には、おあつらえ向きだろ?」
「とは言ってもね……」
「そんな難しく考えなくてもいいって。好みの女性の特徴とかさ」
無邪気に笑いながら、クロはしつこく尋ねる。夜も更けてきたからか、妙に気分が高揚していたのだ。ハクも同じなのか、困ったような返事をしつつも制止する様子はない。
「実は、今まで異性と深く関わったことがなくてね……だから、あまり考えたことないんだよ」
「意外だな。もっと経験豊富かと思った。顔いいし」
「お世辞はいいって」
「……過度な謙遜は皮肉に聞こえるからやめた方がいいぞ?」
「えっ」
道行く人々と比較しても、ハクの顔立ちはかなり整っている部類に入る。少なくとも、同性のクロが嫉妬する気にもならない程には。だというのに、ハク自身は全く自覚していないようだ。宝の持ち腐れ、とはこのことか。
「じゃあ、フランのことはどう思ってる? 恋愛対象に入るか?」
「また答えづらいことを聞くね……」
「ちなみに俺は違うぜ? いい仲間ではあるけど、残念ながら範囲外だ」
「その割に、クロは何かとフランのことを気にかけてるよね」
「……本当、よく見てるよな」
クロは冗談めかして告げたが、嘘はついていなかった。
フランに魅力がないわけではない。問題があるとすれば、それは間違いなく彼の方だった。
「俺の好みはもう少し大人びた女性だからな。フランを気にかけるのは別の理由だよ」
「聞いてもいいかい?」
「……フランには感謝してるんだ。俺は、あの屋敷であいつと出会わなかったら、死ぬか、闇に堕ちるか、まあどっちにしても碌なことにはなってなかっただろうから」
実際にクロを助けたのはハクだが、フランが屋敷に向かったという情報がなければハクは現れなかっただろう。また、フランがいなければクロは生に執着していなかった。彼女を守るという明確な目的があったからこそ、逃げて生き延びようと考えられたのだ。
恋愛対象、などという枠に収めることはできない。彼にとっての彼女は、より大切でかけがえのない存在となっている。
「もちろんハクにも感謝してるぜ?」
「どういたしまして」
「……やっば。結構恥ずかしいな、これ」
クロは自身の顔が熱くなるのがわかった。暗闇でハクからは見えないだろうが、彼の顔は紅潮している。
「で、結局ハクはどうなんだよ」
「あれ、はぐらかされてはくれないか」
「あったりめえよ」
自分だけ恥ずかしくなるのが納得いかないクロは、しつこくハクを問いただす。
「本当に、恋愛感情かどうかわからないんだけど……」
「とりあえず言ってみろよ」
「そうだね……強いて言葉にするなら、『守りたい』かな」
「それだけか?」
「多分。今のところは」
思っていたような返答を得られず、クロの気分は萎えてしまった。女性関係に疎いと言うハクが、一番近い異性のフランに対しても明確な恋愛感情を持っていないとなれば、これ以上深掘りしても面白そうな話は聞けないと思ったからだ。
「じゃあ俺は? 俺のことはどう思ってる?」
「……え。もしかして、クロってそっちの気があるのかい?」
「あほか。この際だから根掘り葉掘り聞きたくなっただけだよ」
「びっくりしたよ……うーん、そうだなあ」
すぐに答えが出そうにない。自分が手本になれば話しやすくなるかと思い、クロは先に口を開くことにした。
「俺は、ハクに憧れてる」
「え?」
「尊敬、って言うと大袈裟かもしれないけどさ。ハクみたいになりたいって、見習いたいって思ってるんだ。すげー強いとことか、頭がいいとことか、優しいとことか、色々」
「クロ……」
「あれ? さっきから俺ばっかり恥ずかしくなってない?」
全て自滅だ。慣れないことはするものじゃないと、クロは今更ながらに後悔した。それを見て何を思ったか、ハクもようやく口を開く。
「クロに対しても、なんというか、説明し難いんだよね」
「わかんないことだらけじゃねえか。自分のことだろ」
「うーん……強いて言うなら、『共に在りたい』かな」
「なんじゃそりゃ」
「ごめん。やっぱり自分でもよくわからないや」
「そっか」
そう答えた後、クロは大きなあくびをした。緊張が解けた結果、これまでの疲労が一気に睡魔となって襲いかかってきたのだ。
「明日も早いし、もう寝よう」
「ああ……」
瞼を閉じると、クロの意識はすぐさま深い底へと落ちていった。全身の感覚が、緩やかに奪われていく。
「追い求め続ければ、いつか、憧れの存在になれるかもしれないね」
「そう、かな……」
半ば生返事気味のクロ。もう眠気が限界に近く、ハクが何を言っているのかさえもよくわからなくなっている。
「お休み、クロ」
大して難しくもない返事すらできないまま、クロは深い眠りに落ちるのだった。