第177話「大義」
下水のせせらぎを聞き続けること、およそ十分。音羽の顔色は未だ優れないが、目に見えて取り乱したり、呼吸が荒くなっていたりはしなかった。
「……ごめんね。急に」
「落ち着いたか?」
「うん、もう大丈夫」
そう言って、音羽が立ち上がる。彼女の姿は、地上で大笑いしていた人物のそれとは思えない程、弱々しいものになっていた。
「……辛かったら、戻ってもいいんだぞ」
「そんなこと、できないよ」
転移魔法陣が記された紙を使えば、脱出も容易だ。それでも彼女がそう答えたのは、譲れない想いがあってのことだろう。彼女の瞳に灯る光が、それを表していた。
そんな彼女を見て、クロは頭を下げてから『ごめん』と謝罪の言葉を口に出す。そうせずには、いられなかった。
「なんで、あんたが謝んのさ」
「音羽の前で戦うってのがどういうことなのか、ちゃんと考えてなかった。俺が一番、気にしてなきゃいけないことだったのに……」
どれだけ距離が近くなっても。あの頃のように笑い合えていても。それらは音羽の気丈な振る舞いによって成立しているだけだ。
あの日の惨劇が色褪せることなど、あるはずはない。加害者側のクロでさえそうなのだ。彼女の心には、より深い傷跡が残っていることだろう。
「いいよ、別に。あたしも、考えが甘かった……いや、覚悟ってやつが、足りてなかったし」
「……覚悟?」
クロは頭を上げつつも、その言葉に込められた真意を尋ねるように呟いた。
「さっきの戦いを見て、改めて実感したよ。あんたの中に流れてるその力が、あたしは怖い。また、あんたを呑み込むんじゃないかって、不安になるんだ。だけど、怖がってばかりじゃ駄目なんだよ。今度こそ、あたしは……」
衣服の胸元を握りしめながら、音羽が言葉を紡いでいく。言葉を途切らせたかと思うと、彼女はかぶりを振ってからクロに再びその双眸を向けた。
「これは、あんただけの問題じゃない。あたしも、向き合わなきゃいけないことなんだ」
「……そうか」
気休めで言っているようには思えない。音羽の言葉に、嘘偽りはないのだろう。幼馴染であるクロには、それがよくわかった。
「こっから先、魔物の気配が強くなってる。離れすぎるなよ」
音羽が無理をしていることは百も承知だ。だが、彼女自身の望みに対し、クロが口を出すことはできなかった。彼女が隣に立ったことを確認してから振り返り、再び歩き始める。
「……あんたこそ、もう、離れないでよね」
聞き漏らしてしまいそうな程にか細い、音羽の声。それをはっきりと聞き取りながらも、クロが返事をすることはなかった。
沈黙の中歩き続けること、更に十分。
二人はまたしても柵で隔たれた突き当たりに到着したが、転移魔法を使うことなくその場に留まっていた。
「魔物の気配……正確に言うなら、闇属性の魔力なんだけど……多分、大元は更に下の方にあるな」
「ここより下って……行けるとしたら……」
二人の視線が、ある一箇所へと同時に向く。
それは、下水道を挟んだ向こう側の通路に取り付けられた、一つの扉。先程通過した突き当たりの付近にはなかったものだ。
「音羽、乗れよ」
クロは腰を下ろし、両手を後ろに回して音羽に声をかけた。
魔法もなしに、人間がその身一つで飛び越えられるような幅ではない。身体的接触は避けるべきかとも考えたが、闇の翼や転移魔法を使うよりも疑似強化を用いた方が明らかに効率が良かった。
幸い、断られるようなこともなく、彼女の体が背に預けられる。
「重いなんて言ったらはっ倒すから」
「べりぃへびぃ……あ痛っ」
クロの右側頭部に、一撃。
「冗談だよ、冗談……」
「ほら、さっさと行く」
「へいへい」
鉄拳制裁を加えた割に、音羽の声色に怒りは滲んでいなかった。どうやら、単に呆れているだけらしい。
緊張や恐怖を覚えているわけではなさそうだとわかり、クロは人知れず安堵しながら軽々と下水道を飛び越えた。
「ほいっと……ちょっと待ってろ」
着地後、音羽を下ろして一人で扉へと近づく。
その向こうから、気配は感じられない。だが、何もいないと断定するには早すぎる。拳銃を取り出した音羽の姿を確認してから、クロはゆっくりと扉を開いた。
「……また、扉?」
そこには、三畳程の空間が広がっている。中へと進んで全体を見回すと、今潜った扉の隣に、もう一つ同じような扉が取り付けられているのがわかった。
「大丈夫?」
敵の存在がないことを察したらしい音羽が、近づいて空間を覗き込む。
「こっちも開ける。構えろ」
恐らくは、突き当たりの先へ進むための扉だろう。柵の隙間から見えていた光景からして、その先に敵がいないことはわかりきっていたが、魔物が突然現れる可能性も否めない。念のため警戒を続けながら、クロは二つ目の扉を開く。
「……なんもない、か」
予想どおり、柵の向こうに出ただけ。敵も、地下深くへと進むための手段や手掛かりも見当たらなかった。
「どうすっかな……」
反応が真下にあるからと言って、現在地に階下へ続く経路があるとは限らない。だが、闇雲に探し回ってこれ以上時間を浪費することも憚られた。
「……なんか怪しいんだよなあ」
音羽の呟き。振り返ると、彼女がコンクリートの壁を触っているのが確認できた。
「何やってんだ?」
「いや、どうせ扉をつけるなら、柵の横の壁につければいいじゃん? それなのに、どうしてわざわざこんなスペースを経由したのか、気にな、って……」
言い終わる直前に、音羽の指先のコンクリートが、陥没する。まるで、何かのスイッチのように。
それから、地震のような揺れに襲われた。原因は明らかだ。
扉から向かって左側。その壁が、ゆっくりと開いていった。所謂、隠し通路というものだろう。
「……こんなの、漫画でしか見たことないわ」
「だな」
停止する壁。それが即座に動き出さないことを確認してから、クロが先陣を切った。
「……お手柄だぜ、音羽」
そう言って振り返り、手招きをする。
「下への階段だ」
下方へと伸びる螺旋階段。切れかけた照明では光が届かない程、その底は深く、暗かった。
「じゃあ、この先に……」
「何かしらは、あるだろうな」
あれだけの数の魔物が、偶発的に出現しているとは思い難い。どこかに、何かしらの元凶があるはずだ。
もし、今回引き受けた任務と関係があるのだとすれば。話はややこしくなるだろうが、同時に解決できると考えれば悪いことばかりでもないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いている間に、二人は階段の終点へと辿り着いた。周囲にはまたしても扉が一つあるだけで、他に調べられそうな箇所はない。
だが、そんなものがあったところでクロは見向きもしなかっただろう。
先程から感じていた気配や魔力の発生源がこの扉の向こうに存在すると、既に確信しているのだから。
「……準備はいいな」
小声で尋ねるクロ。音羽の頷きを確認すると、臆することなく扉を開け放った。
彼の目にまず飛び込んできたのは、座禅を組む一人の男。突然の来訪客だというのに、眉一つ動かさず部屋の中央に居座っている。
「……あんた、何者だ?」
尋ねながら、クロは部屋を見回す。
三人以外には人も物も存在しない、殺風景な空間。先程から感じていた気配や魔力は、目の前の男から流れ出ていたものだったようだ。
「大義を成す者、とだけ言っておこう」
座禅を続けたまま、男がそう返す。彼を中心として、闇属性の魔力が渦巻いていた。なんらかの魔法の発動を試みているようだが、手間取っているのか、身動きを取ることはできないらしい。
「闇を垂れ流すことの、何が大義なんだ?」
「……何を言っているのかわからないな。私はただ、魔力を消滅させるべく動いているだけだ」
「どっちにしても、大義なんかじゃねえよ」
しらを切っているのか、それとも本当に心当たりがないのか。表情からは読み取れないが、いずれにせよ野放しにするわけにはいかない。
「他人から与えられた力を我が者顔で振るえる者には、わからないだろうな……自身の努力を、人生を、得体の知れない力で凌駕されたことへの、絶望は」
男がそう言い放った直後、どこからか武装した兵士たちが現れた。
転移魔法によるものだろう。彼らはクロと音羽を包囲するような配置で、小銃を構えている。
「大人しくしていれば、命までは取らない。この世界から魔力が消える様を、そこで見ていろ」
反抗する素ぶりを見せようものなら、即座に蜂の巣にされることだろう。
だがそれは、なんの準備もしていなければの話だ。
眩い輝きに相手が気づいたであろう瞬間には、二人の姿は消えていた。
「『ダウンポウリング=レイ』」
否。天井すれすれへと移動していたのだ。
クロは音羽を抱えて浮遊したまま、幾多もの魔法陣を展開して相手の頭上から光を降り注がせる。
何本もの柱が兵士たちを襲ったが、中央部に座る男だけは半透明な球状の壁によって守られていた。
「……お前を倒せば、魔法を止められるって考えていいのか?」
兵士が軒並み気絶したことを確認し、クロは足場へと舞い戻る。男に視線を向けつつ、音羽の身をそっと下ろした。ひとまず優勢に立てたはずだが、警戒を緩めることなく純白の輝きを維持する。
「……あまり使いたくなかったが、止むを得ないか」
図星を突かれたらしい男の言葉。直後、半透明な光の球体が兵士たちの上に多数出現する。クロは音羽を守るべく身構えたが、それらが二人に牙を剥くことはなかった。
「なっ……!?」
半透明の光が十字架の形に変化し、その鋭利な先端で兵士たちを貫く。頭や心臓といった急所を、狙い打ちにして。
「お前、何を……!」
クロは男を睨みつけるが、半透明な光が再び球体に変化したことで注意をそちらへと戻す。
今度は、兵士たちの死体から同じような輝きが生まれていた。それらは先に存在していたものと共に、ふよふよと宙を漂っている。
いつ、仕掛けてくるのか。
相手の出方を窺っていたクロだったが、それにより、更に衝撃的な光景を目の当たりにすることとなる。
「『死者行進』」
詠唱と思われる呟き。直後、死んだはずの兵士たちが次々と起き上がっていった。




