第166話「願望」
「……え?」
扉の向こうには、薄暗い空間が広がっている。目に魔力を込めることで飛び込んできた光景を処理するのに、クロは数秒を要した。
その後すぐに、扉を閉める。
「あっぶねええ……!」
ため息混じりに呟くクロだが、身の危険を感じたからというわけではない。見てはいけないものが、扉の先に存在していたのだ。
一組の男女が、同衾していた。
ただ眠っていただけではない。彼も実際に経験したことなどないが、『そういった』行為の真っ最中なのは明らかだった。
「妄想の中で押っ始めんなよ、ったく……」
千歳や風太の願いが可愛く思えてくる程、生々しい欲望。
クロも、思春期真っ只中の青年だ。平静を装ってはいるものの、その顔は瞳と同じ赤色に染まっている。もう、この扉の先には進みたくないとさえ思っていた。
だが、そうも言っていられない。彼は先程の男女両名ともに面識があった。そして、この空間の核が女性────いや、少女の方であるとも見抜いている。
現実世界で純潔を既に散らしているのかどうか定かではないが、うら若き乙女が妄想の世界で身を委ねているという現状が、クロは容認し難かった。たとえそれが、『彼女』の願望によるものだったとしても。
深呼吸の後に目を閉じてから、再度その扉を押し開ける。視界を黒く染めたまま、彼は口を大きく開いた。
「夢の中でえ! そういうことするのはあ! 良くないと思うなああああ!」
クロ自身も喧しいと思う程、張り上げられた声量。
だが、返事はない。恐らく、精神が未だ覚醒していないのだろう。外からどれだけ叫んだところで、状況が好転することはなさそうだった。
やはり、踏み込むしかないのか。覚悟が決まりきっていなかったが、彼は恐る恐る瞼を開く。
直後、その心臓が強く鼓動した。
「うわああっ!?」
先程の少女が、目の前に立っている。
その特徴的な紫の瞳から光を失った、おぞましい姿で。
あまりに予想外な出来事だったため、クロは驚きを隠せなかった。彼女がいつの間にか制服を着用してくれていたため、目のやり場に困らなかったことだけは幸いか。
「は、灰本……正気に戻ったのか?」
灰本つかさ。それが、この少女の名前だ。愛麗大学附属高校の自警団員であり、黄田大和と少なからず親交があるらしい。
それと関係しているのか、先程、彼女と共にいたのは他ならぬ大和だった。
本物の彼は、真後ろにある扉の先で絶賛戦闘中のはずだ。そのため、クロは彼女の方が核であるとすぐに気づくことができていた。
「大和さんの匂いがする」
「は……?」
「大和さん、どこ」
「ひっ……!?」
ずいと、つかさが顔を近づける。可憐な容貌をしているが、無表情故かクロには恐怖しか感じられなかった。
「貴方から大和さんの匂いがする。貴方が知ってるんでしょ? 大和さんはどこ? 隠してないで教えてよ。私から大和さんを取らないで。どこにいるの。教えて。教えて。教えて。教えろ。ねえ、ねえ、ねえ!」
灰色の髪を揺らし、尚も迫り続けるつかさ。
クロは目を逸らすこともできず、ただ後ずさる。だが、後ろに先程の扉が残っているため、大した距離を稼ぐことはできなかった。
「こ、この扉の先にいるよ……」
底知れない執着心に怯えながらも、クロは自身の背後を指差して相手の進行方向上から逸れる。
彼の回答に満足したらしいつかさは、ゆっくりと口角を上げてから件の扉へと歩を進めた。
それによってか、彼女が核となっていたはずの空間と、そこに繋がる扉が霧散していく。図らずも、彼女の救出に成功したようだ。
「あ、あの……魔力を消耗してるはずだから、帰った方が……」
「邪魔しないで」
その一言だけで、クロは蛇に睨まれた蛙のようになってしまう。だが、最低限やるべきことをやらなくてはと思い、自身のポケットから紙を取り出した。
「これを使えば外に出られるから……黄田のことも、よろしく……」
「……どうも」
蔑むような目で見ながらも、つかさは紙を受け取る。それからすぐ、扉の方へと向き直って口を開いた。
「待っててね、大和さん……」
そう呟き、つかさが扉の先へと消えていく。
白の世界に一人取り残されたクロは、尻餅をついた後に大きなため息を吐いた。
「あっ、せったああっ!」
負の感情を受け取り慣れている自分ですら、恐怖を覚える程の威圧感。それを、『愛麗』に通うお嬢様が放っていることにもまた、クロは驚きを覚えていた。
「ま、まあ、なんとかなるだろ……」
不思議と、つかさへの心配はない。どちらかと言うと、彼女から重い感情を向けられているであろう大和の方に同情を覚えていた。
「……お、早いな」
つかさの空間へ繋がる扉が消滅したことで、同じ位置に新たな扉が出現する。
恋慕の情を拗らせた彼女から逃げるように。自身の責務から目を逸らすように。クロは五つ目の扉を開いた。
「うわっ……」
その先の光景を目にしてすぐ、クロは声を上げる。
「こりゃまた、変な場所だな……」
そこでは、様々な色の絵の具が混ざり合う途中のような、主張の強い景色が一秒おきに切り替わっていた。
なんとも目に優しくない空間だ。視力に異常をきたす前に引き上げるべく、クロは核となっている者の救出に乗り出した。
「おーい! 誰かいないのか!」
姿が見えないために呼びかけるが、返事はない。
声も聞こえない程の遠距離にいるということか。あるいは、なんらかの魔法によって認識を阻害されているのか。
いずれにせよ、ただ彷徨っているだけというのは悪手だろう。何か、手を打たなければ────クロがそう考えた直後、どこからか声が聞こえてきた。
『私は、誰?』
少女のものと思われる声。反響しているせいで場所の特定まではできなかったが、クロはその声の主に心当たりがあった。
「……紫穂か?」
山盛高校自警団員の一人、氷見谷紫穂。恐らくは、彼女がこの空間の核なのだろう。
「紫穂! 俺だ、クロだ! 返事してくれ!」
やはり、返事はない。
いや、紫穂の声自体は聞こえ続けているのだが、彼女にクロの声は届いていないらしく、ただただ独り言が繰り返されるのみだった。
『本当に好きだったものがわからない』
『本当に嫌いだったものが思い出せない』
景色が切り替わる度に紫穂の言葉が増え、重なっていく。一人の口から語られているとは、とても思えない。
『私は本当に私なの?』
『この私は本物じゃない』
『あの私が本物』
『その私は偽物』
『どの私が本物?』
色が混ざり合うように、紫穂の言葉が同化していく。聞き取りづらいはずだが、クロは一言一言の内容を正確に処理することができていた。
直接、脳に刻まれている。彼自身、そう思えてしまう程に。
『わからない』
『わからない』
『わからない』
やがて、同じ言葉が繰り返されるようになった。数は尚も増え続け、それに比例して色の種類も夥しい数になっていく。
「どこにいるんだよ、紫穂!」
何度呼びかけても、返事はない。走れど走れど、紫穂の姿は見えない。声は聞こえるが、発生源がわからない。
「お前の、願いって……」
『わからない』
偶然か必然か、互いの独り言が重なる。
それにより、クロは気づいた。
紫穂自身、願いがわかっていないのだと。だからこそ空間が上手く構成されず、核たる彼女の存在もまた、外部から認識できなくなっているのだと。
「どうすれば……」
理屈はわかったが、このままでは紫穂を救うことはできない。何か、何かないかと、クロは必死に考えを巡らせた。
願望。核。構成される空間。その脱出法。
考えに考えて、辿り着く。
あまりに危険な賭けへと。
「俺は……」
咄嗟に出てしまった声。覚悟を決め直すべく、胸に握り拳を当ててからクロは再度口を開いた。
「俺は、紫穂に会いたい! 紫穂を救いたい! それが、俺の『願い』だ!」
直後、高らかな宣言に呼応するかのように、流動していた色が圧縮されていく。
この空間の核が、紫穂からクロへ移行しようとしているのだろう。明確になった新たな願望を、叶えるために。
狙いどおりだ。あとは、自我を強く保つだけ。仮にそれが上手くいかずとも、空間から切り離された紫穂に救助してもらえばいい。
(上手くいってくれよ……)
魔力を奪われる危険がある以上、紫穂の救助は後回しにするべきだったろう。だが、そうはできなかった。
紫穂のこの惨状は自身が招いたものに他ならないと、クロは気づいていたからだ。
真実を知ることで彼女が精神的に不安定な状態に陥る可能性は、充分に考えられた。なんらかの対策を講じて徹底するべきだったが、彼にはそれができなかったのだ。
責任は、全て自分にある。そう理解していながらも見て見ぬふりをすることは、どうしてもできなかった。
(あ、やばっ)
薄れゆく意識。やはり、『偽りの世界』に呑まれてしまうか────そう諦めかけた直後、状況は一変する。
『来ないで!』
「なっ……!?」
紫穂の一言で、クロの意識は急激に引き戻された。
いや、それだけではない。感知も視認も不可能な謎の力によって、体を勢い良く吹き飛ばされてしまった。
「がはっ……!?」
体を扉に強く打ちつけるクロ。背中全体を激痛に襲われながらも、目をしっかりと見開いて自身の先にある光景を捉えていた。
「なんで、だよ……」
再び、無数の色が揺蕩っている。クロの覚悟は、一瞬にして水の泡と化してしまった。
理由は一つ。
紫穂による、拒絶。
「俺じゃ、お前を救えないのか……?」
虚空に向けて、手を伸ばす。クロのそれが何かを掴むことも、何かに掴まれることも、ありはしなかった。
「……くそっ」
その拳で背面の扉を殴りつけてから、ゆっくりと立ち上がる。
「少しだけ、待ってろ」
届くかもわからない言葉を呟くと、クロは振り返って扉を開き、力ない足取りでその場を後にした。