第134話「それぞれの覚悟」
「ただいま」
帰宅し、玄関の扉を閉じる。時間からして返事がないのは当然だが、視線の先、靴が一足分ないのを見て、クロはあることを思い出した。
「……そういえば、しばらく出張っつってたっけ」
夏季休業と長期出張が重なった都合で、絵札はしばらく家を空けることとなっている。
つくづく、教師という職業は大変だと、他人事のように思いながらクロはリビングへと向かった。
「教師には、なりたくねえな」
今の学力では、なろうとしてもなれないが。心の中でそんなツッコミを入れながら、更に気づく。
「……将来の不安より、まず明日だな」
下手をすれば、明日で人生が幕引きとなってしまうかもしれない。できること、やるべきことを、今のうちにしておかなければ。
とは言え、一朝一夕で強くなれるわけがないことはクロもよく理解している。そもそも、決戦前夜の不要な消耗は避けるべきだ。
それを踏まえれば、やることは一つ。彼はスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げた。
「電話、はまずいかな……」
選択したのは、『藤咲絵札』の名。相手の都合を考えると電話をかけるのは憚られ、メッセージを送るだけに留めることにした。
唸りながら、文章を入力しては消していく。媒体に残る以上、踏み込んだ話はできない。『神』に情報が流出しないとも限らないからだ。
クロは十分近く悩んだ挙句、たった一言だけ打ち込み、送信した。
『いつもありがとう』
死の可能性。別れの言葉。伝えるべきことは他にも山程あったが、クロは敢えてそれを選んだ。
それが、一番伝えたいと思ったことだからだ。
「既読はつかない、か」
風呂にでも入ろう。そう考えてスマホをしまおうとした瞬間、通知音が二回、立て続けに響いた。
どうやら、二つのメッセージをほぼ同時に受信したようだ。
送り主の名を見て、クロは目を見開く。
赤城風太と、氷見谷紫穂。今日は連絡など来ないだろうと思っていたはずの二人だった。
『今、話せる?』
『少しいいかな』
二人とも、同じような内容。
十中八九、明日の試練についてだろう。一人で考えるように、と蒼は言っていたはずだが、無下にするわけにもいかない。
一秒にも満たない程の差だが、後に送信してきた方に『少し遅れる』と断りを入れ、もう一方には返信せずに直接電話をかけた。
数回コール音が鳴った後、相手が出る。
『もしもし?』
青年の声。赤城風太だ。
「俺だ。どうしたんだ?」
『……答えにくい質問、してもいい?』
「内容によるけど……なんだよ、改まって」
明日の試練に参加するかどうかを尋ねられるのだろうと思いつつ、そう返す。
少なからず、苦悩や葛藤があるはずだ。できるだけ、風太を傷つけないような言葉を選ぼうと考えるクロだったが、直後に投げかけられた質問は予想だにしないものだった。
『胸とお尻、どっち派?』
「よし、切るぞー。おやすみー」
『待って待って待って!』
耳に近づけていたスマホから、風太の大声が垂れ流される。
それを遠ざけて睨みつけながらも、切ることはしなかった。声が収まったのを確認し、クロは再び話を聞く態勢に戻る。
「なんでお前に俺の性癖語らにゃいかんのだ」
『いやさ、よくよく考えたら、僕ら踏み込んだ話をしたことってないじゃん?』
「……そうだったか?」
『そうだよ。少なくとも、ここ数ヶ月くらいは特に、ね』
つい先程、下劣な質問をした者とは思えない程の鋭さだ。いや、クロの遠ざけ方が露骨だっただけかもしれない。
「……急に付き合い悪くなったのは謝るよ。ごめん」
『ははっ、別にそんなの気にしてないよ』
ただ、と風太は続ける。
『少し話したかったんだ。最後になるかもしれないから』
「……お前、まさか」
『おっと、聞くのはなしだよ。君が心変わりしちゃうかもしれないからね』
「するわけねえだろ」
『だよね。知ってる』
食えない奴だ、と思いつつ、クロは一矢報いるべく細やかな覚悟を決めることにした。
「……どっちかと言えば胸派だ」
『やっぱり! そんな気がしてたんだよね』
「お前はどっちなんだよ。まさか、聞くだけ聞いて自分は言わねえつもりじゃねえだろうな」
『僕は太腿派だよ』
何がなんでも聞き出してやろうと思っていたクロだったが、風太の即答により牙を抜かれる。
「いや、三択になってるじゃねえか」
『クロは三択だと答えが変わるの?』
「……変わんねえよ」
『ほほほ、お主も好きよのう』
「もう切るからな」
飄々とした様子の笑い声を、正面で受け止めるクロ。通話を終えようとしたが、自身の名を呼ばれたことでその手を止める。
『明日、頑張ろうね』
「……言われなくても」
そう返した直後に電話を切ると、クロは大きなため息を吐いた。
浸っている暇はない。紫穂を待たせているのだ。画面を切り替え、今度は彼女に電話をかけた。
『────もしもし』
「俺だ、藤咲だ。悪いな、遅くなって」
『ううん。私の方こそ、急にごめんね』
「それで、どうかしたのか?」
『どうかした、ってわけじゃ、ないんだけど……』
煮え切らない返事。クロは続きが気になったが、無理に聞き出すのは悪いと思い、紫穂の口から語られるのを待った。
『その……今から変なこと聞くけど、驚かないでね』
「あ、ああ……内容にもよるけど」
またか。そんなことを考えつつも、クロは紫穂の言葉を聞き漏らさないように意識を集中させた。
『藤咲君、ずっと前に、私に会ったことない?』
心臓の鼓動が、強くなる。
いや、まだだ。電話越しにこの脈拍は届かない。どれだけ挙動に現れようと、声にさえ気をつければ怪しまれることはない。
クロは一旦スマホを遠ざけ、深呼吸する。乱れかけた心を落ち着けてから、再び自身の口元にそれを近づけた。
「ずっと前って……俺が転入するより前ってことか?」
『そうじゃなくて、こう、上手く言えないんだけど……』
違和感こそあるものの、確証を得られたわけではないらしい。紫穂の言葉からは、迷いが感じられた。
「あれか? デジャブってやつか?」
『そう、なるのかな……』
「まあ、深く考えることないって。気のせいだろ、多分」
『そんなことない』
はぐらかされることなく、紫穂が食い下がる。
「……なんで、そう言い切れるんだよ」
『わからない、けど……』
これは、まずい流れだ。今すぐにでも電話を切るべきかと思ったが、クロはその指を動かすことができなかった。
『たまに、夢を見るの。中学生の頃の夢。そこまで親しくなかったはずの藤咲君と笑い合ってる、不思議な夢』
「夢は夢だ。それ以上でも、以下でもない」
『それだけじゃない』
食い気味に放ったクロの言葉に、紫穂のそれが更に被せられる。
『藤咲君と一緒にいると、懐かしく思えるの。そんなはずはないのに』
「だから、気のせいだって……」
『藤咲君、お願い。何か知ってるなら、教えて』
聞く耳を持たない、とはこのことか。
クロはこうなることを恐れていた。だからこそ、彼女とはなるべく接触したくないと思っていたのだ。
「……どうして、そう思うんだよ」
『藤咲君、やけに魔法の扱いが上手いから。時々、元から知ってたんじゃないかって思うくらいに』
図星だ。時間稼ぎのつもりだったが、余計に詰められてしまった。
『私の知らないこと……ううん。多くの人たちが知らないことを、藤咲君は知ってるんじゃないかって。そう、思ったの』
これ以上は、無理だ。もう隠しきることはできないと、クロは悟った。
ここでしらを切っても、いずれ紫穂の中の違和感は増大し、記憶の蓋をこじ開けてしまうだろう。その違和感が強ければ強い程、彼女の心は不安定になる。ここまで来てしまったからには、もう明かすしかないと考えた。
「一つだけ、聞かせてくれ」
『え?』
「明日、試練に挑むつもりか?」
『それは……』
「大丈夫だ。氷見谷がどっちを選ぶとしても、俺の答えは変わらないから」
紫穂が答えを決めてさえいれば、それでいい。試練に挑んでほしいとは、微塵も思っていないが。
『……戦うよ。私は』
「そうか」
ため息混じりに、力なく返す。
わかっていたことだが、認め難い。風太と言い紫穂と言い、どうしてこうも正義感が強いのか。
二人の答えを否定する権利など、クロにはない。出かかった自己満足を飲み込んでから、彼は再び口を開く。
「わかった。そういうことなら、一つ約束しよう」
『約束?』
「明日の試練、何がなんでも生き残れ。そうしたら、お前の知りたいこと、全部教えてやる」
どうしようもない現実を、紫穂が一夜で受け止められるとは思えない。まずは、目の前の困難を打ち破ることに集中させるべきだ。精神が不安定なまま、勝てる相手ではない。
そう言い訳をして、逃げた。
彼女と向き合う心の強さが、今のクロにはなかったのだ。
『……わかった』
「よし。なら、もう切るぞ」
『藤咲君』
「うん?」
『私、負けないから。藤咲君も、気をつけてね』
「ああ、ありがとな……じゃあ、また明日」
『うん、また明日』
紫穂の返事を聞いて、クロは今度こそ電話を切る。
長話をしている暇はない。万全の状態で試練に臨めるよう、備えなければ。
「……まあ、気づくわな」
なんの気なしに呟いた自身の思考が、やけに響いて聞こえる。暗くなった画面に映る自分の顔を見てから、クロは自嘲気味に笑った。