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ルイズに昨夜の真意を訊ねるのを控えるならば、アメリアから探るべきだろうとノアは思い立つ。表向きは慣れない生活で困り事がないかの聞き取りで言い訳が通る。手始めにアメリアにあまり近くない使用人達に訊くことにしたが、明るくてよくご挨拶をしてくださる、ルイズ様と並んできっと良いご令嬢になられるといった賞賛が主であった。
仕方がないのでアメリア付きの使用人に話を聞こうとしたのだが、これがすぐには難しかった。人に仕えられていることに慣れていないアメリアのために人数を最小限にしていたこと、そして同じようにルイズに侍っているノアとは別々の場所で過ごす時間が多かったことが主な理由である。ルイズの世話を早めに切り上げて会う機会を得ようとしたが、自由時間に一所にとどまっていることが少ないアメリアに同伴していて居場所が掴みにくい。
しばらく待つか、公爵にルイズとアメリアの様子を報告しなければならないからと呼び出してしまおうか。見当を付けて庭へ出たものの姿が見つけることが出来ず、ノアがそう考え始めたときのことだった。
「良い天気ですね」
邸の石造りの柱の陰から、アメリアがひょこりと姿を現す。
「アメリア様……そうですね。お散歩ですか?」
ノアは挨拶をしてから、周囲に使用人がいないかさっと視線を巡らせる。
「さっき、息抜きにお庭でお茶を頂こうってことになって。用意をしてくれるというので先にお庭を見に来たんです」
「それは良いですね。お勉強はたいへんですか?」
アメリア付きの使用人らは新しい主の為に趣向を凝らしているのであろう。勉強の合間にも楽しそうな声が聞こえてくることもあり、使用人としては頼もしい限りだとノアは思う。
「あんまり物覚えのいい方ではないんですけど、皆さんがよくしてくださるおかげで何とか頑張れていると思います」
にこにこと可愛らしい笑顔だが、ルイズはこの表情に引っかかりを覚えているという。一生懸命な様子で好ましく感じられるのに、とノアは思わず言葉を漏らす。
「アメリア様が笑ってくださるそのお顔、私はとても好きなんですけれど」
「っえ! そ、そうですか?」
「失礼しました。ルイズ様も気にかけていらっしゃったのでつい」
アメリアはノアの言葉に顔を赤らめて慌てた。その様子にノアは出過ぎた言葉だったかと省みる。ルイズは自分への賞賛を当然としながらも褒められと嬉しそうにするため、ことあるごとに賛辞を送るようにしていた。その感覚のまま接するべきではなかったかと思いながらも、照れているアメリアが可愛らしいので頬が緩みそうになる。
「母が、よく笑う人……で、わたしもそうなれたらいいなって。お母さん、すごい人で、わたしにとってはなんですけど。ずっと明るくて」
使用人からはなかなか触れられる話題ではないのだが、そもそもアメリアが公爵家に迎え入れられた理由が母を亡くして身寄りがなくなったからである。ノアはアメリアの見る者に訴えかけるような一生懸命さには、まだ晴れぬ自身の葛藤に対する必死さも混じっていたのだろうと思案する。不幸中の幸いというのも不謹慎だが、現在公爵家には夫人がいない。実母への情から弱音を吐いたところで問題視するような者はいないのだから、アメリア付きの使用人にも改めて心身に留意するよう後ほど伝えておくことにする。
「わたしはお母さんが無理しちゃうことが多かったので怒ってる方が多かったかも知れません。でもわたしが笑うと嬉しそうに笑ってくれて」
「素敵な方なのですね」
「わ、すみません。いっぱい話しちゃって。久しぶりに母のこと考えたらまだやっぱり寂しくてつい」
時代がすすみ以前よりは主と使用人の距離が近くなったとはいえ、いまだ古風な家では開けた場所での使用人の雑談は以ての外としていることもある。それを知っているアメリアはノアを会話に付き合わせてしまったことに恐縮する。実際はこの別邸では公爵の監督もなく、ルイズも使用人に対してはそれなりに親しく接することから厳格にしなければならないということはない。とはいえアメリアにしてみれば生まれついての公爵家令嬢で気品ある風貌のルイズとその傍に静かに控えている印象のノアは、ついこの間までは住む世界の違った人々といった雰囲気がして少し気後れしてしまう。
「いえ、お話しいただけて嬉しいです。皆アメリア様のお力になりたいと思っておりますから、どうか遠慮なさらずに」
「あっでも付いててくれる方達も気遣ってくださって、わたしがあんまり気にしなくて良いって言っちゃっただけで。だから、大丈夫です」
ルイズは足を止めない分落ち込むときは落ち込む方だが、アメリアはひたすら前を向こうとする質のようである。母と実の父を亡くし偽って公爵の娘をしているルイズと、母を亡くして身寄りがなくなったアメリアは差異あれど似た境遇だ。ルイズは他人の感情を理解はしてもあまり共感を示さないが、無意識にアメリアと自分を重ね違和を感じていたのかもしれないとノアは考えを巡らす。
ノアが仕えるようになったのはルイズが幼く、まだ親を強く求める年の頃であった。ルイズのそれはわがままとして表れていたものだが。ともかく二人に共通する寂しさのようなものに触れた気がした。ノアはこちらの親の記憶がなく、あちらの親とも切り離されているのでそういったことに少し鈍くなっていたことに気がつく。我ながら見切ってしまったような行動に、あちらに対しての後ろめたさを感じた。覚えずあまり意識を向けないようにしていたのかも知れない。
「それに、ルイズ様は幼い頃にお母様を亡くされたって聞いて。私ばっかりめそめそしていられません」
「お邸は広いですから、こっそりめそめそしていてもルイズ様には分かりませんよ。それにそういう意味ではアメリア様ならルイズ様のお心に寄り添うことが出来るかもしれません」
「ノアさんはご家族は……」
「いない、と思っていたのですが最近少し思い出す機会があって、申し訳ないなと……」
ノアが歯切れ悪く答えると、アメリアは不思議そうに小首をかしげる。
「? そうなんですか」
「何もしてあげることが出来ないので、とりあえず自分は元気でいようかなと。私もむこうが元気だったら嬉しいので」
「そう、ですね。会えなくても、喜んでくれるよう生き方を。それに今は公爵様もルイズ様もいらっしゃるし、皆さんと仲良く暮らせたらわたしも嬉しいし、きっと……」
アメリアは母に思いを馳せながら言葉を溢す。ノアにとっても主の家族が仲睦まじくあることは好ましい。どうか叶って欲しいと思う。少し賑やかな音がして二人が顔を向けると、庭でのお茶の準備を始めた使用人達が映る。ノアもルイズのお茶の用意をしなければならない時間が近づいていたので、アメリアに挨拶をしてその場から下がった。
ルイズの部屋に茶と甘やかな焼き菓子の香りが満ちる。アメリアが共に暮らすようになってから、茶に添える菓子はこの邸では定番のものを出していた。定番というのはルイズのお気に入りであり、料理人も作るのに慣れているものである。まだアメリアの好みが把握出来ていないことも理由のひとつではあるが、何となくでもこの邸のことを知って貰えたら嬉しいという使用人達の気持ちもある。反面ルイズにはやや代わり映えしない日が続いているので、ノアはそろそろ内容はともかく今日のアメリアのように外に準備する等工夫を凝らしたいところであった。
「少し遅かったと思うのだけれど」
「失礼いたしました」
棘のあるルイズの言葉に驚いて、ノアは自分の時計を見るがほとんど定刻通り。念のためにルイズの部屋の時計も見てみるが、ずれているわけでもなかった。
「さっきは早く下がったし、庭でふらふらしていたようだから早く来ると思ったの」
ノアが時計を確認したのを見て、そういうことではない、とすねたルイズが補足する。
「用事がございまして……慌ただしくしてしまいましたね、申し訳ございません。お庭ではアメリア様と少しお話しさせていただいたのですよ」
「知ってる」
アメリアと話した場所はルイズの部屋の窓からも見える位置であったことに、ノアは思い至った。先程のアメリアとの会話で内心も少し知ることができたので、ルイズにも理解して貰えれば苦手意識が薄まるのではないかと思う。似た境遇故に無意識に自身を置き換え違和を感じてしまったかもしれないが、ルイズとアメリアでは感情の発露の仕方も違って当然。虚偽りと言ってしまえばその通りだが、他人を騙そうとしてのことではなく悲しみのなか前を向こうとするが故の装いなのだ。
「アメリア様の……」
「ノア、数日中に馬に乗りましょう。新学期も近いことだし、息抜きをしておきたいから」
ノアの言葉を遮り、ルイズは明らかに意図して話を逸らした。ルイズはアメリアのことが気に食わない、と確かに言ってはいたが話も聞きたくないといった様を見せる。ルイズの機嫌を損なったことに、ノアは話の運びを間違えたと悟る。
「承知いたしました。供はいつも通り私だけでよろしいですか」
「おまえの用事がなければね」
分かりやすく嫌味を混ぜるルイズに、かなり気を悪くしていることをノアは察する。早い内にルイズが楽しめるような物事を用意して、機嫌の良い内に手早くアメリアのことを伝えなければならないようだ。
ノアがルイズの予定を調節し、遠乗りの時間を組み込もうとする矢先のことである。公爵がルイズとアメリアが住んでいるこの別邸へやって来ることが遣いによって知らされた。ノアがルイズに事情を説明すると、苦々しげではあったものの流石に断れるはずも無く了承を貰うことが出来た。使用人達も令嬢達を軽く見ている訳ではないが、やはり家の長たる公爵が来るとなるといつもより気が張ってしまうものである。本日も多分に漏れず、別邸には緊張が漂っていた。
「わたし、きちんと出来るでしょうか」
「先生にもちゃんと教わっていらっしゃいますし、問題はないと思います。肩に力が入りすぎるのも良くないといいますから、あまり思い詰めずとも良いのでは」
本日、公爵は昼食だけこの別邸でとり、泊まらずに本邸へと向かう予定だ。公爵は到着してすぐ書斎に入り、ノアや他の上級使用人の報告や近隣の様子などを聴き取った他は書類仕事をこなしていた。昼時のみの短い立ち寄りというのは、ルイズにとってはどちらかと言えば気が楽な方かもしれない。しかしアメリアにとっては少し事情が変わってくる。
平民出身のアメリアは学校が始まり他家の貴族も混じる人の前に出るまでに、上流の家の者の振る舞いを身につけることが勧められている。食事というのは決まり事や所作など気を付けなければならないところが短い時間の中にも多くあり、また人前で見られる機会が多いものでもある。もしも本日の食事の際に公爵からいまだ不適格と評されれば、転入時期を遅らせられたり厳しく指導されたりなどの措置があるのではないかと案じていた。
「そうですね。いつも通りに」
「ええ、いつもご一緒にお食事を頂いているわたくしが保障します」
「ルイズ様にもそう言って貰えたら、何だか大丈夫な気がしてきました」
ルイズの、気に食わないと思っている相手にも優しく愛想良く接する様子は見事であるとノアは感じる。裏表ある社交をそつなくこなし、見目振る舞いにおいて世評に高いだけはある。事情を知らずに見たならば心が温まったであろうやり取りを眺めながら、どうにかこれを真にせねばと思った。
三人揃っての昼食が始まるとアメリアも心配していたような問題も起こさず、つつがなく進行した。公爵は相変わらず物静かだが、アメリアがこの邸に来てからのことを公爵に報告しルイズとの会話も続く分、いつになく明るい食卓だった。ひとつ驚くべきことに、そんな二人のやりとりを聞きながら公爵が僅かに目を細めたのだ。あり得ない、少なくともここ数年あり得なかった状況を目撃した使用人の何人かは思わず目を瞬かせた。ノアも驚きを隠しながらルイズのほうを見ると、やはり少し目を見開いてほんの少しではあるものの感情の動きが窺えた。アメリアはそれがどれほど珍しいことか知らなかったため変わらず楽しそうに食事をとり続けたが、公爵のそれは他家との交流時ならともかく普段邸にいるときには見せないような優しいものであった。使用人達は主達の関係が明るい方へと向かうことを期待を持つ。ノアもルイズのアメリアに対する考え方さえ変わればきっと、家族の仲もルイズの未来も良くなることは難しくないはずだと思った。
ノアが午後の茶を用意するために炊事場へ向かって廊下を歩いていると、アメリアと行き会った。この邸は主と使用人の導線が分けられている。しかしアメリアは自分付きの使用人を早く迎えたいという思いからか、使用人の通路の近くにいることは珍しいことではなかった。
突然慣れない人間に四六時中囲まれては休まらなかろうという気遣いから、アメリアには通常貴族の子女がそうするほどには使用人を付けてはいない。しかし出歩くのも好きなようで、人が侍っていることが苦にならないなら常に一人二人付けていた方が安心できる。とはいえ鑑たるルイズが余り使用人を侍らせないので提案したところでアメリアは遠慮してしまうかもしれない、などと考えながらノアは壁際に寄って控える。アメリアはその存在に気付くと歩み寄って声をかけた。
「ノアさんも今からお茶の準備でしたか」
「ええ。もし何かご用事があれば他の者に伝えますが、いかがなさいましたか」
「いえ、ご挨拶だけで。あ、でも……」
アメリアは明るい顔をしたり眉根を寄せたりと、短い間にも表情をころころと変えながら思案する。
「……あの、出来れば今度ルイズ様とお茶をご一緒したいんです。お誘いしても大丈夫でしょうか」
「そうですね、きっとお受けしてくださると思いますよ」
ノアから見て、ルイズはお茶の時間を割と大切にしている。アメリアに対する最近の様子を見るに、共に茶の時間を過ごすことは了承するはずだがおそらく機嫌は良くなくなるだろうと見当をつけた。とはいえアメリアも淑女として節度ある振る舞いを習っている最中なので、急遽予定を決めるということもないはずである。ノアは今日明日にはルイズにアメリアのことを話して、どうにか悪感情を薄めて貰わなければならない。
「ルイズ様といちばん一緒にいるノアさんにそう言って貰えて良かったです。あっ、お仕事あるのに時間をとってしまって」
「いえ。私もその日に向けて精一杯ご用意いたしますね」
「楽しみです!」
ノアはそこでアメリアと別れ、お茶の用意を持って再度上階へと戻ってきた。本日、ルイズのためにアメリアにも出すもの以外にも、ルイズお気に入りの店から取り寄せたお菓子も添える準備をしている。馬遊びを延期してしまった穴埋めとして機能してくれれば良いが、と考えながらルイズの部屋の近くにさしかかると何やら室内から声が漏れ出ていた。ルイズがノア以外の使用人に用を言い付けることも珍しいことではない。取り込み中であれば邪魔をしないようにとノアが様子をうかがうと、あまり穏やかではない雰囲気のルイズとアメリアの声が聞こえる。
「『……ルイズの場所を……あなたは、あなたなんて……っ』」
慌てて室内に入ったところで聞こえた、ルイズがアメリアを責める言葉に思わずノアの思考が止まる。どこか聞き覚えのある言葉。シナリオ初期にどのルートでも悪役令嬢が漏らす台詞。初期とはいえゲームが開始してから、学校で聞くことになる、まだ先のはずの。先程自分がアメリアと別れてからの短い間に一体何があったのか、とノアが混乱しつつも考えを巡らせるなかルイズと目が合った。ルイズはノアが現れたことに驚き、現在の自らの失態に気づく。息をついてから、表面上は取り繕っているものの絞り出したような声で言う。
「……申し訳ございません、少し疲れていて……ぼうっとしてしまったみたい。お話はまた改めて。今日は下がります」
「っあ、こちらこそごめんなさい。わたしが突然押しかけてお話ししてしまったから……すみません」
ルイズは礼をとると謝罪をするアメリアを振り返らずに、寝室に入って行ってしまった。残されたアメリアは動転したままにノアへとすがりつく。
「あの、わたしっ」
「落ち着いてください。何があったのかお話しいただけますか」
「はい。でも、よく分からなくて。廊下でルイズ様にお会いしたので、話しかけたらお部屋に入れてくださって……さっきノアさんとお話ししていてって、お茶会の話とか……」
ノアにはルイズがいくらアメリアを快く思っていなかったとしても、そう簡単にそれを表に出すとは考えられなかった。何か引き金となるものがあったはずだと思うも、アメリアの話には取っ掛かりになりそうな点がない。ひとまずルイズの行動を誤魔化して、アメリアを落ち着かせることにする。
「ルイズ様も最近お勉強に根を詰めていらしたので、そのせいかもしれません」
「でも、わたしが何かしてしまったのなら……」
「私からお訊ねしてみます。そろそろお茶のお時間ですから、アメリア様もごゆっくりなさってください」
ノアはアメリアを他の使用人に託して、ルイズの様子は自分が見るからといって人払いを済ませる。寝室に入るとカーテンを閉めたところのようで薄暗い。隙間から僅かに差し込む陽光が、窓際でカーテンの裾を握り締めているルイズを象っていた。まだ日も高いというのに緩いワンピースの寝間着に着替えていて、ノアが視線を巡らせると先程まで着ていた服は乱雑に椅子にかけられていた。
「ルイズ様、何があったのですか」
「言ったでしょう、気に食わないって。それなのにつらつら話しかけてくるものだから、我慢出来なかっただけ」
ノアが接してきた普段のルイズは嫌った相手への態度が厳しくなることは珍しくないにしても、そうする相手も選ぶし誰が見ても明らかな非があるわけでもない相手を怒鳴りつけるようなことはしない。アメリアを気に食わないと思っていたとしても、部屋に招いた時点ではルイズ自身、我慢出来ると思っていたはずなのだ。そのきっかけとなったのが何なのか、突き止めなければならない。
先程のルイズの言葉はシナリオが開始してからのものである。あの言葉を覚えていたのはどのようなルートを辿っていても、初期に共通して聞く言葉だからであって、ルイズが繰り返し口にしていた言葉だからではない。たまたま、同じ言葉が出て来たということも否定は出来ないが予測される悪い事態は、状況が正規のシナリオより悪化しているということだ。だとするならばその原因となったのは、転生の記憶がなければしなかったであろう行動をとってしまった自分ということになるとノアは考える。
「明日には謝るから、適当にごまかしておいて。おまえも下がって良い」
ルイズは少々荒い所作で寝台に腰掛けた。ノアはどうにか話しをするためにも、ひとまず間を稼ごうとする。
「お休みになるのでしたら、その前にお茶をお召し上がりください」
「要らない! 出て行って!」
ルイズはノアの方を向かず、いつになく強い語調で言う。ひとまず退散するにしても、育ち盛りの年頃であるせいかやや食欲が旺盛なルイズがお茶も夕食も抜くとなるとかなり辛いはずだった。後ほど様子を見に来るべきか。
「では簡単に召し上がれる物を用意しておきますから、必要があればお呼びください」
「何も要らないって言ってるでしょう! ルイズのいうことがきけないの!?」
「私は執事ですので、ルイズ様には健やかに過ごしていただかなければならないのです」
光が布の隙間から僅かにさすばかりの薄暗い部屋で、ルイズの顔が歪むのが見える。嘲笑うときの笑顔にも、怒りながらの泣き顔にも見える表情。
「っ……そう。執事だから鬱陶しく構うの。……だったら辞めてしまいなさい。そんなもの。好きにしていいから、あの方の従者でも……出て行くのでも」
ノアはルイズの機嫌を損ねてしまったことは幾度となくあるが、ここまで言われたのは初めてだ。思いがけない言葉に困惑し、直ぐには言葉が次げない。身分の差はあれど常に側にあって幼馴染みのように育ってきた。他人の手助けなどほとんど必要としない多才なルイズが優秀な訳でもない自分を側に置き続けていたのも、幼い頃から共に過ごした日々あってこそ。それなりに信頼されていると自負してさえいたのに。何より今は執事を辞めるにしても、なんとかルイズの側に付いていないと悲しい結末の阻止も難しくなってしまう。
「私はお側にいる必要がないということでしょうか。至らない自覚はございますが、どうか……」
「必要ないって思ってるのはノアの方でしょう!」
「えっ……」
ルイズにいきなり腕を引っ張られ、ノアは体勢を崩す。柔らかい寝台の上に倒れ込んだので痛みはない。起き上がろうとするも肩口を押さえつけられ押し倒される。
「ノアはルイズのものなのに! あの子が来てからあの子のことばっかり気にしてる」
「そんなことは」
「前は用を言い付けてるとき以外にもルイズのところにいたのに、今はあの子のところに行ってる。あの子のこと嫌いって言ったのに、わざわざ」
「ルイズ様がそう仰ったから、お二人に仲良くしていただきたいと思って」
「仲良くなんてしたくない。お父様もあの子を見て微笑んでいらした。ノアだってルイズの知らないところであの子と一緒にいるし、勝手に話してる」
「それは、ルイズ様の為に」
「執事だから! 主人のために動いてるんでしょう!?」
ルイズは怒っているのに、ノアにはどこか悲愴な色をたたえているように思える目で見つめてくる。
「ルイズはノアのこと……」
尻すぼみ言って俯くと、長い金髪がルイズの顔を隠してしまう。
「ルイズ様、私は……」
ノアが言葉を選びながら話そうとすると、ルイズはゆっくりと頭をもたげる。話を聞いてくれるのかと一瞬期待したものの、見えたのは眉をひそめて自嘲的な表情。
「うるさい」
「っ」
ノアが言葉を紡ぐことを躊躇うと、ルイズはノアのネクタイをやや乱雑に引いて緩めてしまう。それ自体は何度かされたことがあるためノアが驚きつつも静観していると、ルイズが今度は襟元の釦を外し始めたので反射的に止めようとする。
「ルイズ様!」
抑えようとした手首をとられて、逆に寝具に押しつけられてしまう。ルイズはノアの首元近くに顔を伏せてしまい、表情を読み取ることも出来ない。なんとか体勢を整えようとすると、下半身に体重をかけられてしまいほとんど身動き出来なくなる。
「……嫌なの?」
ルイズが普段より低い、淡々とした響きで問う。
「嫌、というか……」
改めて聞かれて混乱したのか、混乱しているのに聞かれたから思考がまとまらないのか。突然押さえ込まれれば大抵の人間は驚く、使用人が主の寝具に倒れ込むなどというのはあってはならない、そもそもルイズは何のために何がしたいのか。ノアが考えていると、緩められた襟元にルイズが顔を寄せる。そのまま喉元に歯を当てられて、すぐに訪れるであろう痛みに身構えたものの予想に反してそれは来ない。
ノアはルイズに齧られたことも初めてではないのだが、そのほとんどは突然の悪戯であった。今までにないくらいやわくゆっくりと歯を食い込ませる内にも吐息が熱く感じられて、思わず息が詰まる。ノアが動きでも言葉でも止めることが出来ずにいると、ルイズは一度口を離して今度は先程噛み付いたところを舐めあげる。首元は生死が振れる急所であるのに、凶器を突き立てられるより撫でられる方が体の奥に訴えられる物があるのは何故だろうか。
「嫌がらない、執事も辞める気がない、それでルイズの為に動くというのなら……」
ルイズは上体を起こして抑えつけた唸るような声で言うが、終わりの方は言葉にならない。ノアの握りしめられた手首にかかる力が一瞬強くなり身構えるが、ルイズはそのまま手を離した。途端、今度は腕を掴んで寝台からノアを引き起こすやいなや、なかば引きずるように寝室から追い出した。ノアは振り返るもルイズの顔を見ることも声をかけることも出来ず、いつも通りの穏やかな陽の差し込む部屋なのに、いきなり置き去りにされたような気持ちになった。