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動きも音もない自室でふと自然に目が覚める。数年来の習慣で体に起床時間が染みついているのだ。軽く顔を洗って仕事着に着替える。体型を整える下着の上に三つ揃えを着込めば、簡素な家具しかない中で唯一めぼしい鏡には貴族の従僕としてなら申し分ないと言っても良いであろう青年が映る。映っているはずである。毎日見ていると自分では違いが分かりにくくなるというもので、ノアは多少の不安は残るが他の使用人達にも指摘されていないので問題ないと信じておくことにした。こちら近年、自身の男装に心許なさ感じ始めた年頃の女子。主たる公爵家令嬢のルイズ以外には性別を偽って執事をしている。従僕としてならともかく執事としては見目からして格が落ちるのは、任命した主の責としたいところであった。
さて毎朝のこと、何時までも不安に耽ってはいられない。上級使用人として与えられた一人部屋から地下の使用人室まで降りた。すでに忙しく動いている者もいるなか本日の段取りの確認、仕事の指示などをして朝食を胃に詰め込む。何とも気の重たいことに本日はお仕えしているルイズお嬢様の父君にして家の長である公爵閣下が、この別邸を訪れ夕食をご一緒になる。というのは昨夜遅くに着いた本邸の使者が告げたのを汲んだ予定で、ルイズはまだこのことを知らない。
ノアが勤めている公爵家は現在父一人子一人きりという構成なのだがこの二人、あまり仲が良いとは言えなかった。常より公爵は本邸に、ルイズは今いる別邸にというように離れて暮らしている。ルイズについては多少突飛な注文を付けられることがなくもないとはいえ、両者は派手に喧嘩をするような関係ではないため、使用人らが実務において困るということはない。しかし、二人が揃ったときは居たたまれない空気になるのが通例で、直接親子の給仕等を行うことになる者達はやや心配の面持ちであった。
丁寧に磨き上げられた窓が並ぶ廊下。透き通った硝子を抜けて、朝の日差しが差し込んでいる。ところどころ開けられた窓からは、微かな風と共に空気に溶け始めた朝露と草木の香りが運ばれてくる。ノアは静かな廊下をお茶の用意を載せた台車を押して歩み、ひとつの扉の前で立ち止まる。豪華な装飾の施された重厚な両開きのそれを、片側だけゆっくりと開けて部屋へ入った。
空気の動きに呼応して、かすかな甘い香りが揺らぎ立つ。閉め切られて廊下よりも薄暗いなかを、迷うことなく窓辺までたどり着き風を通す。日差しはやわらかいものの薄布を掛けて明るさを調節する。光の入った室内を軽く見渡して、調度などに問題がないことを確認した。
部屋の中にあるもう一つの扉を開けて先程と同じように室内を整え、寝台に声をかける。
「ルイズ様、朝です」
「……分かってる」
少しの間とやや重たい返事の後にゆっくりと身を起こすのがノアの仕えている令嬢、ルイズだ。寝起きだというのにほとんど乱れのない滑らかな髪は、陽光が柔らかく輪になる薄い金色。まだ気怠げな色の残る碧い瞳を縁取る睫毛は豊かで、白い肌は抑えられた光の中でも輝くようだ。ルイズは軽く体を伸ばしてから、鈍い動きで備え付けられた水場へと向かい洗顔等を済ませる。先程よりもはっきりとした顔つきで寝台に戻ったところで、ノアはルイズに薄めに淹れたお茶を差し出した。そうして昨日までに選んでおいた服や装飾品が、本日の意向に違わないかを確認しながら身支度に移る。
ルイズが着替えて鏡台の前に座るとまず髪に巻き癖を付けるために巻いていた布紐をほどき、それから緩く巻く髪に櫛をいれていく。鏡越しに見えるルイズの相貌は完璧に熟した艶やかさではなくふとした瞬間に感じられる幼さを残したもので、ノアはその美しさと可愛らしさを備えた容姿を好んでいた。多少のわがままならかなえたいと思うし、誠実に仕える努力は惜しまなかった。
「何か?」
視線に気づいたルイズがノアに問いかける。
「いえ、本日もお美しいと」
「当然」
自分の見た目が良いのは当たり前のこと、と言葉を放つが表情は満足げである。とはいえ年頃の令嬢のこういった世話は本来なら女性使用人が行うべき業務だ。なぜ表向き男性使用人であるノアが担っているかといえば、幼い頃のお嬢様のちょっとしたわがままが発端である。遊びの延長のように指示されてから、現在もこうした自室での世話はほとんどノアに任されているのだ。
町の片隅で似たような子供らと暮らしていた身元もはっきりしないノアをルイズが拾ったことも、そんなノアがルイズの身の回りの世話に重用されていることも、本来なら咎めるべき立場にある公爵は放置し続けている。そのため公爵家の忠実な配下達は、年若い執事もその執事が令嬢の身の回りの細やかな世話までしていることも、今に至っては当然と扱っているのである。
身支度を整えたところで、頃合いを見計らい部屋の前までやって来る使用人から出来たての朝食受け取る。この邸には公爵家に連なる者が一人しか暮らしていないということもあり、食堂へは赴かず自室に用意させることが多い。上品な所作ながらしっかりと量も摂るルイズに、ノアは過不足のないよう給仕していく。
「今日の予定は?」
食後の茶を飲んで一息ついたルイズが訊ね、ノアが今日一日の予定の確認を行う。家名に恥じない振る舞いをと自らに課すルイズは、学校が長期休暇中の今も家庭教師を招き勉学や芸事の修練を積んでいる。本日は午前午後とそうした予定が組まれているため、ノアは再度確かめながら順番に予定を告げていく。
「それから、夕食に公爵様がこちらの屋敷においでになるそうです」
「そう。支度は任せても?」
ルイズの目が少し細くなる。ごく淡い紅の添えられた口元と相まって優美な微笑みに見えるが、ノアの経験上これは面倒なときやうんざりしているときの表情である。
「昨夜の内に知らされておりましたので、ルイズ様さえよろしければ私どもで足りるかと思います」
「ならそうして」
夕食会についても了承を得て一度下がろうとしたノアに、席を立ったルイズが近づく。ノアは自分よりもほんの少し低い位置にあるルイズの瞳に愉しげな色が差しているのが見えて壁まで後退る。扉は開いていないしそもそも主を前に逃げるなどという無礼は許されないのだが、それでもそうしたくなるような空気の変化を感じ取った。
「今日は勉強をしなくてはならないし、遊びにも行かないし、夜は食事会。どうしたら頑張れると思う?」
「そうですね、明日の勉強をお休みしてお出かけなさるとか……ああ、甘いお菓子を多めにご用意いたしますから今日のお茶の時間はきっとお楽しみになれるでしょう。今から遣いを出せばお休みの前に町で評判の」
「ノア」
焦ったノアがからまくし立てるのを遮って、ルイズが呼びかけた。ノアが口をつぐむと、ルイズはその肩を掴んで自身の方へと引き寄せる。ほとんど無い身長差のため二人の顔の距離がごく近くなり、ルイズはそのままノアの耳元に口を近づけて言う。
「おまえ、お菓子で、ルイズが、やる気を出すと思うの?」
にじりよるような低めの声でゆったりとした問いかけが囁かれ、ノアの首筋にぞわりとした感覚が走る。
「お好きかと」
ルイズはそれなりに節制してはいるものの甘いものが好きで、雇っている菓子職人が作る物とは別に人伝に聞いた流行の物も取り寄せるなどして吟味していることをノアはもちろん知っている。またルイズが日々研鑽を重ねるのは個々の物事への関心というより自身を立場に釣り合うようにするためで、ときおり甘味等を味わうことで息をついているということも。違えていないと分かるものの、ノアは緊張に体を強ばらせる。間もなくルイズがくすりと笑ってこぼれた吐息に、身じろぎしそうになるのを堪えた。
「そう、好き。甘いもの」
軽やかに一歩下がったルイズは満足げな表情だ。弾むような動きで服の裾を揺らめかせて告げる。
「ちゃんと用意しなさい。でないときっと、とても不機嫌になってしまうから」
「必ずご用意いたします」
ノアはルイズの部屋を後にして、思わず天を仰ぐ。これから本日分のいつも通りの仕事に、昨夜の本邸からの遣いより受け取った書類の確認にと忙しいため足は止められない。却ってその方が良いだろうと考えながら、一旦片方だけ手袋を外して手の甲を頬に当てて緊張に上った血を落ち着けさせる。近頃ルイズの戯れに、困らされることが増えたように感じる。ルイズは見目も所作も美しく、正直なところノアにとってそんな主との近しい触れ合いは仕事でなければ褒美のようにも思えるものではあったが。
ルイズはノアが仕え始めた幼少の頃は、わがままという言葉が当てはまるような振る舞いでときおり使用人を悩ませていた。成長するにつれ誰彼構わず難題を押しつけるというようなことはしなくなり、子供としては普通の成長の仕方で今となっては優秀な令嬢だと周囲の人間には評されている。しかしその実、特定の他人を弄んだり追い詰めたりしては楽しむという悪癖をいつしか身につけてしまっていた。特定の他人というのはルイズ自身やその周囲への振る舞いが目に余った者であったり共に過ごす時間の長いノアであったりする。
しかし優秀の評に違わないルイズは、そういった行為を多くの人の目に触れさせることはない。使用人達もルイズのことはたいへん可愛らしいうえに聡明で努力も怠らず、多少変わったところはあるものの貴族の娘としては優良的だと思っている。
ルイズの悪癖は退屈であったり不満があったりするときに発揮されることが多いとノアは分析していたが、親子関係が良好でないということにはさすがに口を挟める立場にはない。今回の訪問がつつがなく終えられることを祈るばかりであった。
ときおりルイズの元を訪れつつ、ひととおり午前の仕事を済ませたノアは与えられている自分の部屋で公爵からの書類に目を通す。公爵付きの上級使用人が作成したであろうそれは実に簡潔にまとめられていた。
曰く、実子を迎え入れるので良いように取り計らうように、と。
頭が痛くなる内容に、ノアは思わず一度目を閉じた。ルイズが聞いたらなんと思うことだろうか。
ふと、閉じて暗くなったはずの視界に何かがちらついた気がした。このままよそ事を考え始めたかったが、そうも行かないので続きを読んでいく。
名前はアメリア。公爵は長らく認知していたらしく親子関係については疑うところはない、ルイズのひとつ年下の妹にあたる、と進むに連れて既視感を覚え始めた。ルイズ、アメリア、庶民から公爵家へ、聞いたことがある気がするのだ。
確か二人は同じ学校へ通うことになるはずだ、と思いながら書類を読むと、その通りに手配しているらしい。しかしつい先日まで平民だったとはいえ、同じ家の者が同じ学校に通うことはおかしなことではない。ルイズが通っている学校は生徒の多くを貴族が占めるもののそれ以外の出身の者も受け入れている。
妙な考えを打ち消しながら読んでいくが、どれもこれもノアの知っている情報だ。アメリアの母親の病気や領地の賑わった町からやや外れた土地の出身であること、姿の特徴なども。
どうしてと声が漏れそうになったときぐるりとめまいがするように記憶が駆け巡り、思い出した。
プレイしたことのある乙女ゲーム、自身が事故にあっておそらく死んだであろうこと。あちらでの生活の記憶は確かにあったように感じるが、前世という言葉が合うかのように遠い。正直なところ、自身が死んでしまった際のことよりもルイズに拾われる前にしていた路上生活の方が辛く思い出される。
とはいえ突然頭がおかしくなって辻褄を強引に合わせて自分だけの現実を作ってしまっているのでなければ、といくつかの条件を無理矢理つけて結論を出す。ノアは一度死に、そちらの世界では架空の物語であったこちらの世界に転生したということ。そしてこれらの記憶を信じるならばルイズは
「悪役令嬢……」
どうしよう。どうするべきか。混乱しながら辺りを見回すと時計が目に入り、ノアはルイズの昼食の給仕をしなければならない時間だと言うことに気がつく。そんなことをしている場合ではないのだが、と自分で突っ込むもののお嬢様のお食事はそんなことではない、とやはり自分で反論する。半分程は現実逃避だと分かっているものの、とりあえず思考が回る程度に落ち着くまでにも時間が必要だった。
ひとまず夜まで。本日の業務を終えるまで、この件については保留とすることにした。
ルイズが昼食をとっている間、ノアは側にただ控えているだけの瞬間が出来てしまうため、どうしても頭が例の懸案に傾いていた。件の乙女ゲームはノアがこちらに来る前に気になっていたイラストレーターが関わっている、ということで知人に勧められて始めたものだった。主の見目が好ましいのもそういうことかと合点がいく。
ゲームではいくつかのルートのエンディングを迎えたものの、何度もプレイしてゆっくりはまっていくタイプのノアとしてはまだ途中も途中という状態だ。少し古風で西洋風、華やかで可愛らしいファンタジーな世界観で、ゲーム内で描かれなかった細かいことを除けばこちらの常識や物事は大体その通りであるように思う。生活などはプレイヤーへの配慮かあちらの習慣に合わせられているものの、貴族や魔法といったものがモチーフとして出て来る。
ノアはこちらでの生活に慣れ親しんでいたものの、魔法がある世界という感慨に耽る。食事や風呂の用意にも、諸々の家事にも、改めてみるとありがたいことだった。あちらの世界にしてみればやや前時代的な世界観で、電気もなければ魔法もないという状況だったなら苦痛を感じていたかもしれない。ドレスの手入れなどは、むしろこちらの方が楽なくらいだろう。
ゲームの開始はヒロインが入学するところからなので、まだ数週間先のことになる。
育成要素も少しあり学校で生活を送りながら、自身の能力のパラメータを上げながらイベントをこなし攻略対象と結ばれる。その流れの中でヒロインの前に立ち塞がるのがルイズなのだ。ヒロインの義理の姉、才色兼備で人当たりも良いが実は人知れずヒロインに辛くあたる。その行く末はエンディングによって多少異なるものの、子供向けの童話の悪役がごとくさらっと罰を受けてしまったり消えてしまったりと基本的に明るくない。優雅な手つきで食事を摂るルイズを見て、ノアは思わず上を向く。
「何してるの」
「調度の確認を少々」
ルイズは問うたものの執事の奇行よりも食事に興味を惹かれる食べ盛りらしく、ノアが咎められることはなかった。ルイズにとってもこの先しばらく心穏やかでいられる時間がないかもしれない、と思うとノアも胸が痛む。僭越とは思いながら、お茶の時間以外にも予定の間の度に菓子等を持って伺候してしまった。
暗い夜に煌めくような食堂で、しかし華やかな談笑はなく微かな衣擦れと食器の音だけが響く。公爵親子は慣例的なやり取りを二、三したあとはただ黙々と食事を続けている。公爵は相変わらず無表情に目を伏せて、ルイズもいつも通り表情だけで笑みを見せている。二人とも見目、所作に至るまで雅やかなのに落ちる空気は陰鬱だ。
「娘を一人、迎え入れることにした」
食事が終わりに近づいた頃、唐突に公爵の平坦な声が述べる。
「娘、というのは」
「私の子だ。母が亡くなり引き取ることにした。お前の妹になる」
ルイズの笑みが深くなるが、それが新しい家族への期待や喜びから来るものでないことは確かだ。
「お名前は何と仰るのですか」
「アメリアだ。詳しいことは後ほど聴くように」
公爵は自ら告げるという義理を通した以上、話すことはないと言わんばかりの声音で話を終わらせた。静黙たる晩餐に戻った室内と対象に、上級使用人以外には知らされていなかった情報の回った使用人室は、今頃たいへん賑やかになっていることだろう。
ノアは夕食会が終わるとアメリアの受け入れの準備について公爵付きの使用人らと簡単に算段をつけ、この別邸の使用人にも改めて説明をした。公爵に任せられたアメリアの話をしにルイズの元へ参じなければならないが、朝のうちに急遽遣いを出して手に入れた菓子が果たしてどの程度役に立つものか。
「分からないのだけれど、お父様はどういうおつもりだと思う?」
入室そうそう責めるような口調でルイズが言う。これはルイズの自問に近いものと分かったノアは、返答よりもむしろお茶の取り扱いに注意を払った。落ち着かない様子で室内を歩き回っていたルイズは、やはりほとんど間をおかず次の言葉を紡ぐ。
「ルイズが男だって気づかれた様子でもないし」
そう、ルイズは男だ。またそのことは現在公爵家に仕えているノア以外の使用人はもちろん、父親である公爵にすら隠している。形の良い顎に指を添えて考え込んでいるルイズは、見た目には愛らしくも美しい令嬢。ノアの知っているゲームの設定では悪役令嬢ポジションながら属性は女装男子。そのうえ条件を満たした二周目以降は攻略対象とのことであった。
「ルイズの話、聞いてるの?」
苛立ちを含んだ声でルイズが言う。ノアは現時点で知っていて当然のこと、知っているはずがないことを混同しないよう留意して返答を組み立てる。
「頂いた書類にも、公爵様付きの方達にも気づかれているような節は見当たりませんでした。謀略あってのことではないと思います」
ゲームの記憶に照らしてみてもこの時点でルイズの性別について公爵家が疑問を持つ展開はなかったはずである。茶をすすめると、ルイズはひとまず動きを止めて椅子に座る。
「公爵様がルイズ様の秘密にお気づきになっていたとして、相手がご令息ならともかくご令嬢では状況は大きく変わりません」
「それでも、不確定要素は少なければ少ないほど良いでしょう」
表向きルイズは公爵の実子ということになっている。少し情報に詳しい者であれば知っている事実として、ルイズは公爵の兄と夫人の子供である可能性がかなり高いというものがある。夫人に懸想していたものの兄を敬愛していた公爵は、二人の結婚を祝福し身を引いた。その後突然兄が亡くなり、当時すでに兄の子を身ごもっていた夫人をもちろん追い返すことなどせずそのまま邸におき支援を申し出た。
ルイズは兄とその妻の子であっても、今の公爵の子であっても直系長子に変わりない。貴族社会であり血統を重んじほとんど男女平等とはいえやや男性優位の残る社会では公爵がルイズを自身の子として認めてしまった以上、他に跡継ぎ候補が現れたとしてもルイズの優位は揺るがない。
「それで、どのような方だと?」
「ご性格について詳細をうかがってはおりませんが、アメリア様はルイズ様の一つ下のご年齢だそうですよ」
「……そう、年が近いの」
ルイズはお茶の表面に視線を落として、しばし物憂げな表情を浮かべた。
以前の公爵は活発というほどではないものの明るく慈悲深かったという。また生前の兄と夫人を大層慕っており、仲も良好であったらしい。兄が事故で亡くなるとそのまま夫人を支えるべく行動をとった。しかし尊敬していた兄の事故死や突然の立場の変化などに心がついて行かなかったのか、公爵は精神の調子を崩し、ときに夫人に辛くあたるようになった。妄想に囚われ夫人の不貞を疑って使用人を罰しようとしたこともあったらしい。それと関わりがあるかは分からないが元から体の丈夫な方ではなかった夫人は妊娠中から体調を崩しルイズを出産後すぐに亡くなったという。
幼子にも容赦しないのではないかという当時の公爵の峻烈さから、乳母などが気を回して愛する夫人に似ている、か弱く守るべき令嬢であると申し上げた。そうして手を出されぬよう務めたらしい。その後やや時を経て、愛する相手を立て続けに二人も亡くしたという状況に打ちのめされ現在のようになられたとノアは聞き及んでいた。
公爵自身も苦悩の中にいただろうことは想像に難くないが、ルイズとしても複雑なのだろうとノアは察する。
「来学期より転入生としてルイズお嬢様と同じ学校に通われることになります。それまでにひととおりの教養を身に着けていただくため、少々人の出入りが増えます」
「先生方は?」
「ルイズ様がお世話になられた方もお呼びするそうです」
「手紙をお送りしなくてはね。アメリア様がいらっしゃったら昼と夜は食堂で頂くから、そのように」
「かしこまりました」
女主人のいないこの家ではルイズがそのような立場にある。アメリアを受け入れるにあたっての部屋の場所や調度、使用人の配置等について大旨を決めていく。
「ときどき様子を見られるように予定を組んでおいて。アメリア様に伺ってからになるけれど、一度くらいは一緒に出掛ける機会も作りましょう」
話が一段落してルイズはようやく菓子に手をのばす。卵白を主に使った薄焼きのクッキー生地にチョコレートと乾燥させて刻んだ果物がついている。使用人に町にある店まで取りに行かせたもので、事前に割れたものなどは取り除いて改めて皿へと盛り付けられている。急ぎ用意したものとはいえ食を取りまとめている使用人が近頃評判を聞き検討していたもので、ノアも運ぶ前に割れたものを試食したがルイズの気に入りそうなものだと感じた。
「口当たりが軽くて美味しい」
ルイズはノアが今日見た中では一番穏やかな表情をする。性別のこともあり細身でやや背の高いルイズは涼やかな美貌の印象があるが、表情は今なおときおり幼さを感じさせる可愛らしい様を見せる。ノアはルイズの容姿をこの華やかな世界でも特に優れているものと思っていたが、ゲームでも攻略対象として他とは一線を画す存在であったのだからと改めて納得する。
「もう少し涼しくなったらお茶会でお出しするのも良いかもね」
いくつか食べて感想を述べたルイズがノアを手招きして、近くに呼び寄せた。ノアは思わず眺めてしまったことで機嫌を損ねたのかもしれない、と思いながらルイズの傍らに膝をつく。
「おまえの仕事も増えることになるけれど」
「誠意務めますが、変わらずお側にあれるよう心懸けます」
ノアがルイズの含意を潜ませたような目つきを見上げて思案していると、ルイズは菓子を一つつまみあげノアの口元に寄せた。餌付けに慣れた動物のように、反射的に小さく開いてしまったノアの口に菓子が押し込まれた。ルイズの白い指先がノアの唇にわずかに触れて、離れていく。
「そうして」
主への返答に取り急ぎ頷いて、ノアは口内の菓子を噛み飲み込む。甘いことくらいしか分からなかったのを残念に思った。
「美味しいでしょう」
自慢げに言うルイズの様子を見ていると、情報を仕入れたのもご用意したのも自分たち使用人だが、真に価値を知るのはこの方である、とノアは思わされる。菓子に合わせたお茶の香りを揺らめかせ、味や食感をゆっくりと堪能している様の麗しいこと。しばし癒やされる時間に浸った後、ノアは就寝の支度を手伝ってからルイズの元を辞した。