『作品の息切れ』
これは、説明が難しい現象なのだが、私が時折短編小説や、長編詩で起こすことについて。最近、少しずつ無理をしないようになってきた事柄がある。無理矢理言葉にしようと試みるなら、作品の息切れというそれ、
だ。
この現象は、長編の(連載)小説を書いている場合には起こらない。一つは、集中力という視点でもあるのだが、どうも、それだけが原因ではないように思う。この現象は、実は私には深刻で、作品が作品途中にも関わらず息切れを起こすと息切れたであろう箇所から行き成り展開が変わる。例えば、猟奇的表現でサイコホラーテイストで途中まで書き上げていたのにも関わらず、息切れを起こした部分から、コメディタッチのホラーに以降してしまう。という具合だ。一番微妙な例を挙げるなら短編内で二回息切れたであろうその自身の作品は、猟奇的サイコホラー→コメディタッチホラー→純愛テイスト で、終了したというものがある。最早、何系統やねん、と放り出したい位の壊れ具合だ。作品がブレるにも程がある。(幸い、ご指摘を受けたことは無いのだけれど、ただただ生温かい目で見守って頂けているだけなのかもしれない)このような短編小説、長編詩でよく発生しがちだった私の中での悩み、作品の息切れ。それを改善出来る光明を実は、見つけてしまったかもしれない。効果あるかも、という話に過ぎないのだが、今のところ4作品は、その方法で息切れを起こさなかったのだ。
その方法とは、今、行っているイソップ寓話の好きな話をテンプレにして、それにそって短編小説を書くというもの。つまり、私の短編小説や長編詩で起こす作品の息切れは、私が展開を迷った時に起こりやすく、その際、一気に表出出来なかった場所がもたついた為起きていた弊害なのではないかと気づいた。
私は、長編小説や、短編小説、詩、今書いているような雑文さえ、プロットをたてない。プロットをたてない理由は私なりにきちんとある。私がしたい無意識の表出は、プロットをたてるようなものではないからだ。
けれど、今回、プロットをたてる利点を改めて認識したように思う。そして、推敲とはどういうものか、文章を整えるとはどういうものかを学んだ。これは、私にとって良い機会だと思う。文章作法とは名ばかりだが、プロットを立てる異議、推敲とは、文章を整理することとは、という点についてこの場で考えようと思った。勘の良い目の前のあなたならもう既に理解されているだろう。ええ。実際にこの解りづらい『作品の息切れ』というこのタイトルの文章を使ってプロットの異議、推敲の練習、文章を整理することを考えていくことにしよう。
→次の項では、この文章をいよいよ推敲しようと思います。