第九話 有賀
夏休みも終わりに近い、八月の下旬。
秋の虫が鳴いている夕暮れに、僕はマウスのケージのための敷材をホームセンターに買いに行った。
一夏しか生きられないと聞いていたマウスだが、今の所元気に動き回っている。
ただ、世話を頼まれた時よりは、明らかに動きが鈍くなって見た目も皺が多くなった。
一か月も毎日世話を続けていると愛着も湧いてきているので、最近は毎朝マウスたちが冷たくなってやしないかと恐々覗いている。
ふとした時に、そろそろかと三匹が居なくなった時のことを想像するだけで、涙ぐみそうにすらなってしまう。
考えてみれば、家ではチャミが唯一のペットで僕は一度も近しい生き物の死に触れたことはなかった。
小六の時クラスの女子が、飼っていた犬が死んだから学校を休んだという話を聞いて、「なんだ、犬が死んだくらいで?」と思った自分が居たが、周りの女子が可哀想だと言って泣いていたので黙っていたのを思い出す。
いざ自分が同じ立場になったら、学校を休むかどうかは置いておいてもやっぱり、一緒に暮らしていた生き物が死ぬのは怖くてつらいものなんだなと思った。
一か月程しか一緒に居ない、名前もちゃんと付けてやってないマウスなのに、こんな風に思う自分に驚いた。
「昴くん」
川原の土手を歩いていると、遠慮がちな声に呼ばれた。
「涼しくなってきたから、お買い物と散歩に来たんだ。昴くんもチャミの散歩?」
「えっ?」
都の視線の先を振り返ると、猫らしいニャアという鳴き声で前足を振るチャミがいた。いつの間についてきていたのか。
「こんにちは、チャミ」
都は嬉しそうに屈んで、チャミの前足と軽く握手した。
こんなところで都と会うとは思わなくて、僕はどきまぎしていた。
「買い物って、何買ったんだ?」
チャミの顎を撫でて、都は「夕食のもの」じゃがいも、人参、お肉、洗剤とか、と答えた。
都の母親は病気がちなので、都は良く家事をしている。
まだ中学生だというのに、買い物の内容が家庭的な感じだ。
「お母さんと一緒にカレー作るんだ」
「そっか」
小学生の時から変わってない都に、少し安心する。
と、細い腕に引っかかっている荷物が重そうに見えた。
「帰るの?」
さりげなく、さりげなくと胸の中で呟いて訊いた。都の腕から買い物袋を奪い取ろうと手を伸ばす。しかし、都は悪いからいいよと言うように身を引いた。
なぜと顔を上げると、都のすぐ後ろにはチノパンにポロシャツ姿の同い歳位の男が立っていた。僕は見たこともない男に、訝しげな視線を送ってしまったと思う。男は所在無さげに都の後ろで河原の方を見ていた。
髪を短く刈っていて、色黒でテニスなんかをやりそうな、爽やかそうな男だと思った。よく見れば、そいつの左手には洗濯用洗剤の入ったドラッグストアのビニール袋がぶら下がっていた。
僕とその男を見比べて、都は少し困ったような顔をして言った。
「さっき、スーパーで会ったんだ。通り道だからって、家まで運んでくれるって……。二人は同じクラスだよね」
えっ、と僕は男をまじまじと見る。そういえばこんな奴居ただろうか。クラス全員と話していないのでわからなかった。
だがよくよく見れば、廊下側の席でいつも机に伏せっている有賀という奴だ。
前の方の席なのに授業中もよく居眠りしているので、先生に度々怒られていた。
「僕は教室ではずっと寝ているから……」
有賀は下を向いてボソボソと都に言った。
「寝てても成績は一番なんだから、羨ましいな。睡眠学習が、数学であんな点を取れる秘訣なのかな」
都は楽しそうに言う。有賀が薄っすらと照れたように笑った。
一体、どうして都はこんな奴と買い物しているんだ。僕が持とうとして拒まれた荷物を、なんでこいつには持たせているのか。まさか……都は、こいつと……。
無愛想な有賀の横顔と都を見比べる。
――あっ!
「どうしたの?」
突然大きな声を出した僕の方を、都と有賀が不思議そうな顔で見た。
「何でもない、……帰るよ」
僕は、都が「一緒に帰ろう」と言うのに手を振り払って早足でその場を去る。
「……邪魔しちゃ、悪いし」
「昴くん!?」
離れて行く僕の背中に、都は彼女にしては大きな声で待って、と言った。
一度だけ振り返り手を振る。都の表情が悲しそうかどうかを、僕は確認したかった。
少しぬかるんでいる土手をどんどん歩いて、二人から見えない位になったら全速力で走る。
思い出していた。
二人から出来るだけ離れるために、めちゃくちゃに走る。どこへ行くなんて考えずに走る。息が出来なくなっても目をつぶって走った。足がもつれて、小石につまずいて土手を転がり落ちる。散歩をしていたおばさんが土手の上から、大丈夫?と声をかけてくれたのに、手を振って応えた。
三十二回目の世界で、結婚した都は有賀という苗字になっていた。
転がってもなお、僕は長い間肩で息をしていた。
数学の点、と都は言った。
数学を友達の家で勉強したと、いつだか言っていた。あれは、あの時の友達とはきっと有賀の事だと思った。
都が数学の教科書を借りにきたおかげで、僕はしばらくの間、噂話の中心にされた。
迷惑ぶっていたが、都が僕を頼って来てくれたのが、内心嬉しかった。
都が困った時に一番に頼るのは自分なのだと、勘違いしていた。そんな自分がとんでもない勘違い野郎のクズに思えた。
情けなくて泣けてくる。
薄くて精細な飾りの施されたベールを被った、大人になった都。普段は青白い頬に、ほんのり朱色が射していて、幸せそうにほほえんでいた。隣に居たのは自分ではない。やっぱり、この世界でもそうなんだ。
全速力で走ったので横っ腹がすごく痛い。
気持ち悪い。
なんでこんなに苦しいんだろう。走ったから?
ユノアはどの世界の僕でも、都のことを忘れられないと言っていた。
僕は、都のことが好きなのか。
こんなに苦しいのは走ったせいなのか。それとも、ユノアの言った通りなのか。
「……あのね」
頭上から、細い声が落ちてきた。
どれだけそうしていたのか。
目を開けるともう日は沈んでいるらしかった。土手の草と、夏らしい白いサンダルの爪先が薄暗い中に見える。蹲るポーズのまま、爪先の主の次の言葉を待った。
「……有賀君は、塾が一緒で……ノートを写させてほしいって言われて、一回だけ一緒に勉強したの」
「へえ」
声が震えてしまう。何で彼女はこんなところまで来たんだろう。
「噂を立てられてしまって、困ってたんだ。たぶん、有賀くんも。でも、そんな噂を気にして、友達なのに普通に喋らない方がおかしいのかも、と思うと、よくわからなくなって……」
何で、こんな事を言うんだろう。
教科書を忘れたと言って僕の所に来た時のことを思い出した。
都の様子は少しだけ変だった。
有賀との噂を払拭するために、わざわざ僕の所に来たのだろうか。
「なんで?」
顔を上げずに、僕は続けた。
「有賀って、格好いいし、頭いいし、性格もたぶんいいし、噂立てられてもいいんじゃないの?」
何だか、浮気したことを非難しているみたいないいぐさだ。僕にはそんな権利全くないのに。
「……そんなことない」
都はゆっくり答えた。そんなこと、とは何を指すんだろう。有賀がかっこよくないとかは、都は言わないだろう。じゃあ噂になるのはよくない、という意味だろうか。
「あ、もしかして都、面食いかあ? 昔、ブラッドツッカーとかいうバンドの奴のファンだったし、そういう顔がいいとか」
一生懸命おどけてみても、やっぱり不自然さが出てしまう。早くここから逃げ出したいのに、足が震える。顔を上げられなかった。
「そんなこと、ないよ。たぶん、私が人を好きになるとき、容姿だけで好きにはならないよ」
「へえ、でもあいつ、性格も良さそうじゃん。なんで有賀と噂になっちゃ、嫌なんだよ」
都が一瞬、息を飲んだ気がした。
白い爪先が一歩下がる。
「他に好きな人がいるから」
風が強く吹き抜けて、僕は顔を上げた。
都はただ、静かに微笑んでいた。