第一話 桜の木の下で
今年も桜が綺麗だなあ。
俺は家の裏にある小さな公園のブランコに座っていた。
住宅地の中にポツンとある公園で、遊具は古びたブランコの他には砂場しかない。その砂場も、ただ他の地面との境界が在るだけで、とても定期的に整備されているとは思えない代物だ。
周囲から取り残されたようなこの寂れた公園には、自分の他に平日の日中に訪れる人はいなかった。
自宅以外に行く先のない者にとって、これ以上都合の良い場所は無い。
遊具はオンボロだが、公園の周りを取り囲むように生えている桜の木は定期的に剪定されているようで、今年も見事に咲き誇っている。
例年より少し早めの開花で、今日は花冷えしているが、それもまた自販機で買ったカップ酒を旨くするので良しとする。
「花はいいねえ。俺も花に生まれたかったなあ」
ただ咲いているだけで、人々に称賛される存在。
そんな存在になれたらよかったのに。
今日はめでたい誕生日。
彼女居ない歴=年齢、職歴無し童貞のこの俺――山中昴の、三十五回目の春だ。
我ながらなかなか、長生きしたのではないかと思う。
と言っても、幼少時に余命を宣告された訳ではない。超が付く健康優良児で生まれた。その点は病気に苦しんでいる人には申し訳無く思う。
自分の人生はドブ川に捨てられたゴミのようなものだった。
普通ならばもっと早く……三十位で悲観して死んでもおかしくない。
小学生の時は楽しかったなあ。
授業の合間の短い休み時間も惜しくて、外に出て走り回ったっけ。
授業が終わったらまた走って帰って、友達とゲームしたり自転車で川に行ってザリガニを釣ったり、サッカーしたり。
夕方の鐘が鳴っても、三十分くらいはオーバーして遊んで親に怒られたっけ。
……帰り道の夕焼け、綺麗だったな。
あの時の友達、どうしてるのかな。
「…………くそっ……」
その思い出は、今の自分にはあまりにも眩しくて、涙がこみ上げてくる。情けなくて思わず上を向いた。
中学になったら上手く話せなくなって、友達は居なくなった。
思えば、俺の人生が狂い始めたのはこの頃だ。
俺の中学生活は、初日の失態のせいで地獄の幕開けとなった。
元々腹を壊しやすいタイプの俺は、入学式に全校生徒の前で漏らした。
耐えて耐えて耐えた末のものは隠しようも無く膝を伝い落ち、みるみる内に足元に色の付いた水たまりを形成した。
誤魔化しようも無い事態に、周りの生徒が悲鳴を上げる中、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
無理して入学式なんか出ずに、保健室に行けばよかったと、この時を振り返って何度悔やんだか知れない。
この出来事のせいで俺はゲリベン君というあだ名を付けられ、普段から漏らしてなくても汚い奴の扱いを受ける事になってしまった。
当然新しい友達も出来ず、小学校からの友達にすら避けられるようになった。
ゲリベンからガリ勉にようやくジョブチェンジ出来たのは、三年の後半の受験の頃だった。
中学デビューの失敗を高校で取り戻そうと、必死に勉強して都内で有数の進学校を受験した。
何とか合格出来たお蔭で、俺のあだ名はガリ勉君となった。
高校では中学の悪夢から解放されて、バラ色の人生が待っていると信じていた。
しかし、進学校の勉強のレベルは高く、授業についていくことが出来ずすぐに落ちこぼれた。
中学時代誰とも会話しなかったせいで、コミュニケーションも禄に取れず、当然友達は一人も出来なかった。
部活にも入らず、勉強も出来なかったが、進学校なので受験勉強は頑張った。
しかし結果は全滅だった。結局五浪して親のコネで私立大学に入った。
そこでも友達は出来なかった。それどころか、選択科目が多い大学の性質上、高校以上に人と会話する機会は無くなった。
その上、五浪で同学年でも五つも年上の自分は明らかに違和感があり、誰も近付いてすら来なかった。
このままではまずい、と思った俺は今までの自分の失敗を取り戻せるような事はないかと考えた。
そして、ステータスの高い職業に就くのはどうかと考えた。そうだ、弁護士だ。
俺は奮起して、司法試験に挑むことにした。大学を二留して卒業し、三十歳になっていた。
それからずっと家に引きこもって勉強し続けたものの、試験に落ち続け……全てが無駄になってしまった。
薄桃色の小さな花びらが、はらりはらりと散っては足元に積もる。
何と美しい光景か。
こんな中で死ねるのだけは幸せな事かもしれない。
家から持ってきた鉄のバケツをひっくり返して上に乗り、桜の一際太い枝にロープを括り付ける。
花咲かず 蕾も出来ず 散るばかり
くだらない句が浮かんで、何となくポケットに入っていたレシートに書きとめる。
(花は咲かないと散れないのにね)
自分のくだらない句に、くすくすと笑う可愛らしい少女の顔が浮かんだ。
その笑いは嘲りではなく、優しい冗談だった。誰からも疎まれる自分に、話しかけてくれる優しい声だった。
大人しくて引っ込み思案で、でも最低な俺にも話しかけてくれた女の子。その子の幻が、最期になって浮かんできた。大人になってからは、殆ど接点がないというのに。
あの子にありがとう、って言いたかったな。
でも、今となっては何もかもが遅い。
飲み干したカップ酒の瓶の中に遺書代わりにレシートを入れて、バケツの横に置いた。
そういえば、まだ純粋で幸せで居られた小学生の頃。
正義感の人一倍強かった俺は、もしも自分が悪い行いをする大人になってしまったら、死んで詫びなきゃならない、なんて思ってたっけ。
もしも僕が悪い大人になったら、神様、どうか僕を死刑にしてください。
初詣でこんな事を真剣に願った事もあった。
ギリギリ犯罪には走らなかったが、今の俺の有様を知ったら、昔の俺は絶望しちまうだろうな。
ふっ、と自嘲の笑みが零れる。
バケツの上に再び乗り、今度は首を入れる輪の結び目が解けないか強く引っ張って確認する。
……大丈夫だ。
よし、と覚悟を決めて頭をくぐらせる。
「神様、お願いします」
そして俺は、足下のバケツを思い切り蹴った。