99:印象
所変わってステファンとウィルド。
彼らは窓から侵入したは良いものの、その部屋から全く動けずにいた。何故なら、彼らが一息つく間もなく、扉をバーンと開けて何者かが入って来たからだ。二人は慌てて傍らのベッドの陰に屈んだ。幸いこの部屋は広いが、近くまで来られたら、確実に見つかってしまうだろう。ステファンの心臓は早鐘の様に鳴った。
「ど、どうしよう」
「どうしようったってなあ……。あの人が部屋を出るの待つしかないんじゃね?」
「でもあの人、掃除道具持ってる。きっと隅々まで掃除するつもりだよ。そんなことされたら一発で見つかるよ」
そう、部屋から入って来たのは、この屋敷のメイドだった。両手には箒と塵取りを持っている。窓が開いていたのも納得だ。ステファンは渋い顔になった。
「本当……どうしよう。ここで騒ぎになったら、外にいる姉上にも危険が及ぶかもしれないし。もしかしたらエミリアやフィリップにも」
「あ、団長さんは数に入ってないんだ」
「困ったな……。これじゃあ何のためにここに侵入したのか」
ステファンが頭を抱えている間にも、そのメイドはどんどん掃除の範囲を広げて行っている。見つかってしまうのも時間の問題かもしれない。
「なあ」
不意にウィルドが声を上げた。眉を顰めたままステファンは振り返る。
「なに」
「俺さ、ちょっと時々思うことがあるんだけど」
「何だよ、こんな時に」
今はこの危機を脱することの方が重要なのだが、ウィルドがやたらと神妙な顔つきをしていることが気にかかる。ステファンはしぶしぶ彼に向き直った。
「ステファンって、第一印象はすごくいいよな。人当たりがいい……のはもちろんそうなんだけど、なんか、見た目だけで、ああ、この人はいい人だなって言うのがパッと見て分かるんだ」
「……ちょっとよく分からないな。何が言いたいの?」
「いや、俺も感覚的にしか分からないんだけど、でもそう言う雰囲気がステファンにはあるんだよ。多分、師匠に意地悪な要素が全部持って行かれちゃって、後に生まれたステファンは……優しい成分が凝縮しちゃったと言うか」
「……それ、姉上には絶対に言わない方がいいよ」
呆れたようにステファンは言った。
ウィルドに悪気はないのは分かっている。褒めるつもりも貶すつもりもないのだろう。おそらくウィルドは、自分が感じたままのことをそのまま口に出しているだけだ。しかしこのことが姉の耳に入ったが最後、彼女がカンカンになって怒るのは目に見えている。そもそも、言葉通りに取ってしまうと、彼の言葉は姉を貶している様にしか聞こえない。……悪気が無いから余計に性質が悪い。
「――で、結局何が言いたいの?」
いい加減面倒になって来て、ステファンも適当になってくる。今は何より、ここから脱出することの方が大切だ。
「早くしてくれないかな。いつあの人がここに来るか分かったものじゃ――」
「だから! 俺が言いたいのは、ステファンが言うことは、大抵みんな信じるよねって話」
「はあ?」
「期待してるから。頑張ってね」
にかりと笑うと、ウィルドはポンとステファンの背中を押した。彼のポンは、華奢なステファンにとってはドンである。あっと声を漏らす暇もなく、ステファンはベッドの陰から押し出された。慌てて顔を上げると、ポカンと口を開いたメイドと目が合う。彼女の目は、やがてゆっくりゆっくりと見開かれていって――。
「あっ、あなた、誰ですか!?」
その口から鋭い声が飛び出した。ステファンは慌てて立ち上がる。
「あっ……あの、僕――」
「近づかないでください! 騎士団を呼びますよ!」
「――っ」
それは困る。それが一番困る。
ステファンは必死に頭を回転させた。しどろもどろになりながらも、拙く言葉を紡ぎ出す。
「あ、いや、ちょっと道に迷ってしまって……。そう、そうなんです、ここの人に道を聞こうと思ったんですけど、呼んでも誰もいらっしゃらないので……その」
我ながら意味が分からない言い訳だ。
誰も来てくれないからって、屋敷の窓から侵入する輩がどこにいる。
「あ、あの……本当にすみません。道を聞くだけのつもりだったんです」
困り切って、ステファンは彼女の顔色を窺うように下から覗き込んだ。彼に自覚はない。が、メイドの方は、彼の困ったような上目づかいにやられた。母性本能が働いた。ポッと彼女の頬が色づく。
「あ……の、大丈夫ですわ。そんなに恐縮なさらなくても。この辺り、少し入り組んでいて、分かりにくいですもんね」
「は、はあ……そうなんです」
「ご案内いたしますわ。どちらへ行かれたいのでしょうか?」
「あ……えっと、ですね……」
再び窮地に陥る。ステファンは必死に頭を回転させたが、この周辺のことなどさっぱり分からなかった。ただでさえ休日に遊ぶことなど数少ないのに、その彼が、来たことも無い地域の店など知る由もなかった。
がっくりと項垂れながら、彼はしぶしぶ口を開く。今度こそ騎士団を呼ばれること確実だ、と覚悟しながら。
「ヒュルエル通りの、焼き菓子店に行きたいんです。弟が、そこのケーキをひどく気に入っていて」
「ヒュルエル通り、ですか?」
メイドの声は不審で溢れている。それはそうだ、ヒュルエル通りなんて、ここからどれだけ離れているとと思って。目的の店よりも全く正反対の地域に迷い込むなど、方向音痴にも程がある。……もしくは、口から出まかせを言っているか。
……ああ、騎士団を呼ばれる。僕のせいで、姉上やフィリップの身に危険が――。
「全く、方向音痴にもほどがありますねー! 全くの正反対じゃないですか」
項垂れるステファンの耳に、ふふふ、と明るい笑い声が届いた。え、と顔を上げると、すっかり破顔しているメイドと目が合った。今度はステファンの方がポカンと口を開けた。
「あのですね? ここはクラーヴィス通り。西にあります。東のヒュルエル通りとは正反対ですよ?」
「あ……はは、そうだったんですか。それはお恥ずかしい……。僕、ひどい方向音痴で」
「本当に重症みたいですね。ヒュルエルの方に行きたいのに、まさかここに迷い込む方がいるなんて」
なおも漏れ出る笑いを、メイドは片手で覆った。そのまま小首をかしげる。
「私で良ければご案内いたします。焼き菓子店、ですよね?」
「……え」
思わぬ申し出に、一瞬ステファンは固まった。しかしすぐに我に返る。
「あ、いえ、大丈夫です。道だけ教えて頂ければ、後はもう自分で――」
「そんな! 重度の方向音痴の方を一人で行かせるだなんて、そんなひどいこと私にはできませんわ!」
「いえ、でもご迷惑じゃ……。あ、それにやらなくてはならない仕事もあるでしょう?」
「大丈夫です。理由を話せばわかっていただけますわ。何だかあなた、放っておけませんもの」
「…………」
取り返しのつかない所まで来てしまった。何とか不法侵入の罪からは逃れられそうだが、しかしまさかここから離れることになろうとは。
「……お願いします」
しかし、さすがのステファンも断ることはできなかった。ここで断れば、本当に騎士団を呼ばれてしまう。怪しいにも程がある。
「では早速行きましょう。こちらです」
メイドは手早く窓を閉めると、掃除道具を持って扉へ向かった。慌ててステファンもその後を追う。
「あ……持ちますよ」
「まあ、優しいお方。ではお願いしますわ」
左手に掃除道具。右には責任感の強いらしいメイド。
……こうなってしまっては、逃げだすことなんて不可能に近い。
ステファンは部屋を出る時、せめてもとウィルドの方を見やった。エミリアの方も執事が一緒なので、そうそう脱出することはできないだろう。となると、最後の頼みの綱はウィルドだけだ。
後は頼んだよ!という思いを込め、ステファンは彼を熱心に見つめた。――が、返ってくるのは堪え切れていない笑い声のみ。
……家に帰ったら一回殴ろう。こうなったのもウィルドのせいだし。
そう決心すると、ステファンはどことなく晴れやかな気分になった。
*****
ステファンとメイド、二人の気配が完全になくなるまでかつ、自身の笑いの発作も完全に止むまで、ウィルドはその場を動こうとはしなかった。
……まさか、あんなにうまくいくとは思いもしなかった。というより、上手くいき過ぎて変な方向に事が進んでしまった。
ステファンは知らぬことだろうが、彼はもともと年上の女性に人気があるようだった。立ち居振る舞いが貴族然としているにもかかわらず、それが嫌味には見えず、儚げな笑みも母性本能をくすぐる。彼を遠目に、女性たちが嬉しそうに話をしているのを、ウィルドは何度も見かけていた。だからこその試みだった。
「結果は……まあ上々かな」
二人でコソコソ隠れている所を見つかるよりは、一人が犠牲になった方がいいに決まっている。
我ながら最適な方法だったと自負しながら、ウィルドはようやくベッドの陰から這い出た。長い間ずっと同じ姿勢だったせいで、体のあちこちが凝り固まっているような気がする。
伸びをしながらウィルドは扉へ歩み寄った。廊下から人の気配はしないが、用心するに越したことは無い。そーっと扉を開け、その細い隙間から様子を窺った。
無人であることを確信すると、素早く部屋を出た。右と左、廊下はどちらも長く続いている。一瞬躊躇った後、すぐに左へ向きを変えた。
「よし、こっちかな!」
ウィルドは元気よく拳を振り上げると、ずんずんつき進んだ。
こういう時は、直感に限る。ステファンのように、慎重に慎重を重ねていたら、間に合わないことだってある。
……しかし残念ながら、この時の野生児の勘は当たらなかった。彼が向かった方向は屋敷の西側。ほとんど使われていない客室しかなかった。
エミリアは執事の懐柔に失敗し、ステファンはメイドに連れていかれ、ウィルドは見当違いの方向を突き進み。
僕たちに任せてください!と胸を張ったわりには、散々な戦歴だった。




