94:帰る家
エミリアも走っていた。おそらく、今までの人生の中で一番。
目的地はない。始めは騎士団へ向かっていたのだが、追っ手を撒くうちに、随分反対方向へ来てしまった。
「何で……何で、もう気づかれたの……!」
彼女を追うのは、孤児院の職員たち。顔を般若の様にして、職員総出で探しているらしい。
エミリアの当初の計画では、少なくとも明日の朝までは気づかれないはずだった。職員であるアリッサたちも、明日の明朝に様子を見に行くと言っていた、にもかかわらず、なぜ。
――エミリアが決死の脱出をしているとはつゆ知らず、呑気にエミリアちゃんはどこですかーとレスリーやらステファンやらが孤児院に尋ねて回ったことは、幸か不幸か、彼女は知らなかった。
そもそも、どうして逃げ出すことに過敏になっているのか。
エミリアはそれが不思議でならなかった。自分はただの孤児だ。逃げられても痛くも痒くもないはず。それどころか、子供一人分の食費が浮くのだから、職員からして見れば喜ばしいことではないのか。
――足音が段々近づいてくる。
もはや、その足音が孤児院の者なのか、騎士団の者なのか、はたまたただの通行人の者なのか分からなくなってきた。ただひたすらに、見つかりたくない、皆と一緒に家に帰りたいと願うばかりだった――。
「エミリア、こんな所で何してんの?」
しかし彼女にかけられた声はそんな素っ頓狂なもので。
「ウィルド!」
慌ててエミリアが顔を上げると、いつもと変わらない――いや、幾分か精悍な顔つきになったウィルドがいた。
「ちょ――気づかれるじゃない、こっちに隠れて!」
エミリアはすぐに調子を取り戻すと、彼の腕を引っ張った。彼は抵抗する間もなく、ストンとエミリアの隣に腰を下ろした。
「誰にバレるって? 追われてるの?」
「そう。孤児院の人たちからね」
「孤児院?」
アイリーンやステファンは子供たちの事情はそれぞれ多少なりとも知ってはいるが、子供たち同士はお互いのことはあまり知らなかった。共に暮らし始めたばかりの頃は、まだそんな話をするには幼かったせいもある。
「わたし……ね、お父さんとお母さんを流行り病で亡くしたの。親戚も居なかったから、わたしはとある孤児院に入れられた。まあ……いろいろあってね、そこから抜け出した時に、姉御と出会ったのよ」
「へーそうなんだ」
至って軽い口調でウィルドは言う。
「俺はなー……まあ俺もいろいろあって、山の中を放浪してたんだ。どうしようもなくお腹減って、辿り着いたのが子爵家の畑。毎夜毎夜盗み食いしてたら、ついに師匠たちに見つかってさー。それが出会いかな」
「……何か、ウィルドらしいわね」
「そっかなー」
「褒めてないんだけど」
ボソッとエミリアは呟いたが、ウィルドは聞いちゃいない。
「じゃあ孤児院にいたから屋敷にはいなかったんだな。エミリア、フィリップと一緒じゃなかったのか? 俺一度屋敷に帰ったのに、誰もいないからびっくりしたよ」
「そう……そうよ、フィリップ!」
エミリアは突然大声を出した。自分が今隠れている真っ最中だということはすっかり忘れていた。
「フィリップがどこにもいないのよ。わたし、てっきり一緒の孤児院に入れられるんだとばかり思っていたのに……」
後悔ばかりが押し寄せてくる。始めに全員の居場所を、あのいけ好かない騎士に聞いておけばよかった。
「どうしよう……。姉御は騎士団に捕まるし、フィリップはどこに行ったか分からないし、わたし……どうすれば……」
「そもそも師匠が誘拐で捕まったってどういうことだよ。何、俺たちが誘拐されたってこと?」
「わたしだって知らないわよ! 何が何だか……」
エミリアは混乱したように顔を俯かせる。困ったウィルドは頬を掻いた。
「本当、何がどうなってるんだろうなー。屋敷は王立騎士団に検分されてるし――」
「検分……? 一体どうして!」
「分かんないよ……。師匠が捕まったから、取りあえず家でも検めようって思ったんじゃないの?」
「…………」
茫然としたように、エミリアは両手に顔を埋めた。唯一の光も失ってしまった気分だった。
あの屋敷は、エミリアの家だった。両親を亡くした後、あの孤児院に入れられ、院長先生には、ここをあなたの家だと思いなさい、と言われた。しかし到底そうは思えなかった。家というのは、温かい空気に溢れているのではないか。温かい人たちに囲まれているものではないのか。
いってらっしゃい。おかえり。
孤児院から一歩たりとも出られないせいで、そんな当たり前の挨拶すらできなかった。それを、なぜ家と呼ばなければならないのか。
「ね……ねえ、ウィルド。このまま……このまま、皆がバラバラになっちゃったらどうしよう……!」
ついにはエミリアは泣き声を漏らした。孤児院に入れられても、サリーに辛く当たられても、泣いたことは無かった。でも、優しさに触れた時、優しさが無くなってしまう時、時々どうしようもなく涙が溢れた。
そんな彼女に慌てふためくのはウィルドの方だ。こんなに落ち込んだエミリアなど、見たことがなかった。
「だ……大丈夫だよ。そんなに心配すんなって」
適当に励ましの言葉を並べてみるが、彼女は泣き止まない。
「取りあえず……な? 騎士団に行こう。そこで話を聞くんだ。団長さんなら、きっと力になってくれる――」
「どこに行く、つもりなのかしら?」
二人の子供の前に、大きな影が差していた。エミリアはびくりと肩を揺らす。
「い……院長先生」
「え……っと、孤児院の人?」
ウィルドの声に、エミリアは声もなく頷いた。
「まあま、そんなに泣いちゃって。一人で寂しかったのね、もう大丈夫。一緒に帰りましょう?」
「…………」
エミリアは力なく首を振った。僅かに院長の表情が厳しくなる。
「エミリアちゃん。我儘言わないの。どうしていつもいつも――」
院長はそのままエミリアに詰め寄ろうとする。二人の間にウィルドは飛び出した。
「ちょっと待ってよ。今俺たち忙しいんだ。話に入って来ないで」
「私達も大切な話をしているの。ちょっとあなたは待っていてくれる?」
「待たないよ。俺たち急いでるのに」
院長はにっこり笑って宥めるように言った。しかしウィルドにその手は通用しない。きょとんとした顔でさらりと躱した。
「そもそも孤児院って何だよ。エミリアと俺たちは一緒に暮らしてるんだ。エミリアが帰る場所は孤児院じゃない」
「何言ってるの? エミリアちゃんは今私たちが預かってるの。孤児院に帰るのは当然――」
「じゃあ返してよ。エミリアは俺たちと一緒に暮らすから」
「か……返すって、そんなに簡単に……! そ、そもそも私達は王立騎士団から直々に頼まれたの。あなたみたいな子供に――」
「そんなの知らないよ。エミリア自身のことなのに、なんで大人が勝手に決めるんだよ」
「あっ……あなたねえ……!」
院長は次第にイライラしてきた。話の主導権を、こんな子供に握られていることも腹立たしい。
「エミリアちゃん」
院長は矛先を変えた。
「エミリアちゃんは分かっているわよねえ。あなたたちの帰る場所はあそこだって。今なら間に合うわよ。今ならまだ、私達はエミリアちゃんを優しく迎えるわよ」
院長は優しく微笑みながら、エミリアに手を差し出す。しかし、その瞳の奥が、全く笑っていないことなど、とうの昔に彼女は気づいていた。
「……わたしが帰るところは一つしかないもの」
そう呟き、院長の手を払いのける。
「あんな所に、誰が帰るものですか」
それは、初めて面と向かったエミリアの反抗だったかもしれない。それだけに、院長の衝撃は強かった。
「ちょっと……そこの騎士団の方! ちょっとこっちへ来て!」
彼女は通りに顔を向け、大声を出す。彼らはアイリーンの捜索に向けて駆り出された人員たちだったが、そんなこと、この院長が知る由もない。
「そうよ、そこにわんさかいる騎士団のあなた達よ! そんなにたくさんいるのなら、誰か一人くらいこっちに来てくれたっていいでしょう?」
そんな言い方をされて、誰が行きたいと思うものか。
しかし、丁度通りかかった二人組が、こちらに歩みを向けた。確かに一人は騎士団の制服を着ている。道が狭いせいか、馬を降りて歩いていたところだったらしい。
帰りは馬で優雅に帰れるかしら、と院長はのんびりそんなことを考えていた。
「ちょっと聞いてくださいよ。この子ね、この女の子、私の所の孤児院から抜け出したんですけれど、帰りたくないって駄々を捏ねて……。私達もこの子には随分手を焼いているんです。いつもいつも問題ばかり起こして……。今朝なんか、癇癪を起して朝食を地面にぶちまけたりしたんです!」
大袈裟に身振り手振りを加えて院長は伝える。
「ねえ、騎士様の方からも何とか言ってやってくださいよ――」
「僕の妹はそんなことしませんよ」
院長の言葉を遮って、若い少年の方が口を開く。院長は目を見開いた。よくよく見れば、彼は騎士団の制服など着ていないではないか――。
「食べ物を粗末にするなかれ、が子爵家の家訓の一つですからね。食べ物があるだけでもありがたいのに、ぶちまけるなんてもってのほかです」
「……な、何を言って……! で、でも、現に朝食は床に……。こ、この子がやったんじゃないなら、じゃあ一体誰が――」
「知りませんよ、そんなこと」
少年はきょとんとしていた。その顔は、つい先ほどの誰かを彷彿とさせて、院長は余計にイラついた。しかし少年は続ける。
「まあ、自分の作る料理よりも、その朝食が明らかに不味いから内心怒っていた、というのはあるかもしれませんけど」
「……あら兄様、随分な言い様ね。そんなことを言うのなら、今度から家に帰って来ても、兄様の分だけご飯減らしてやるから」
「えっ……? それは勘弁……」
くすくすと二人は仲睦まじげに笑い出す。今度は院長の方が呆然とする方だった。
「な……なに、何よ、私を馬鹿にして……!」
気づくと、その声は漏れていた。エミリアと少年は、同時にこちらに顔を向けた。彼らの一挙一動が腹立たしく、院長はついにもう一人の騎士に怒りの顔を向けた。
「あっ……あなた! あなたなら分かってくれますよね! 私……私は、騎士団の方から直々に彼女を預かるよう頼まれたんです! それを……それを、あの子たちは――」
「では俺が撤回しよう」
ようやく騎士が口を開いた。しかしそこから飛び出す言葉は自分の期待していたものではなくて。
「……っ」
口をパクパクさせることしかできなかった。
「もともと騎士団から頼まれたからあの子を引き取ったんだろう? なら俺はそれを撤回しよう。彼女はもう自由だ」
「……なっ、だっ……!」
「ありがとうございます、オズウェルさん。これですっきりしましたわ」
ポンポンとお尻を払ってエミリアはにっこりと笑う。本当に本当に嬉しそうな笑みだった。
「全く、孤児院でじっとしていればいいものを、勝手に抜け出すからこうなるんだよ」
万事うまくいったにもかかわらず、そう苦言を呈するのはステファン。
「まあまあ、いいじゃん。運よくこうして会えたんだし。それにしてもステファン、珍しいね、団長さんと一緒にいるなんて――」
「それよりもウィルド、レスリーから聞いたが、訓練所を抜け出したのか? あそこは無断で抜け出すと厳罰だぞ。ちゃんと手続きはしたんだろうな?」
「うん……? うん、どうだろうね」
「まっ、まさかウィルド、何も言わずに抜け出してきたの!? 駄目じゃない、折角試験通って騎士見習いになれたのに……!」
「もう、何でこう皆考えなしな行動ばかりするんだよ! オズウェルさん、尻拭いお願いします」
「……!? 俺がやるのか!?」
「当たり前でしょう。そのために僕は先ほど一芝居売ったんです」
「えー、ちょっとちょっと何の話? 面白そうだね、俺にも聞かせて――」
「そんな場合じゃないでしょ!」
エミリアが一喝した。ウィルドはしゅんとする。その様に、苦笑いを浮かべるオズウェルとステファン。
「時間が無い。急ぐぞ」
オズウェルの言葉に、子供たちはしっかり頷いた。




