93:思わぬ人々
アイリーンは走っていた。おそらく、今までの人生の中で一番。
にもかかわらず、目的地には程遠い。オズウェルから貰った地図が、手の中でくしゃりと音を立てた。
「――っ」
曲がり角の向こう側から、いくつか荒い呼吸が聞こえた。アイリーンは咄嗟に物陰に身を隠す。王立騎士団の制服を着た男たちは、鋭い目で辺りを見回しながら、駆け足で通り過ぎていく。完全に彼らの姿が見えなくなったのを見計らって、彼女は息を吐き出した。
少し前から、王立騎士団員の姿をよく見かけるようになった。おそらく、自分が逃げ出したことが知れ渡ってしまったのだろう。その数は、時が経つにつれ増えていた。
街もどこかざわめいていた。普段その姿を拝むことのない王立騎士団が、いかつい顔をしながら街を闊歩しているのた、不安にならないわけがない。
何としてでも、彼らに捕まるわけにはいかなかった。早く――早くフィリップの元に。その一心で、アイリーンは必死に足を動かしていた。
「アイリーン」
が、現実はそんなに甘くはない。この狭苦しく、しかし人口の多いこの街で、彼女を知らない者はそう多くなかった。何しろ、アイリーンには様々な噂が蔓延っているのだから。
ゆっくりゆっくりアイリーンは振り返る。しかしその顔は、次第に安堵のものへと移り変わった。
「何だ、ドロシアさんですか。驚かさないでくださいよ」
そこに立っていたのは、眉根を吊り上げている洋裁店店主ドロシアだった。何やら怒っているようにも見えるが、彼女が怒っているのはいつものこと。それよりも、話をすれば分かってくれるかの方が重要だった。
「あ……あのですね、ドロシアさん。落ち着いて聞いてくださいね。今、巷では私が誘拐を働いたなどという噂があるようですけれど――」
しかし安心するのはまだ早かった。何しろ、ドロシアは人一倍声が大きかった――。
「お前さん、この所全く顔を見せないと思ったら――」
「え?」
「懲りずにまたシャルルの所に行こうとしとったんじゃろ!」
「っ!?」
ドロシアの大声に、アイリーンは思わず耳を塞いだ。そんな彼女に構うことなく、ドロシアはつかつかとアイリーンに歩み寄った。
「どうせあたしんとこの賃金が安いから不満が爆発したんだろう! シャルルのとこで雇ってもらおうとしとったんだろう!」
「な……何言って――」
そう言ってアイリーンは辺りを見回す。この大声を聞きつけて、誰か騎士団員が駆けつけてこないか、冷や冷やしていた。しかしその目が捕らえたのは、騎士の姿ではなく、同じく見たくもないシャルル・ド・ヒュルエルの文字で――。
「だから誤解ですって!」
ようやく合点がいった。大方、シャルルの店の周りでうろうろしていたアイリーンを発見し、目を吊り上げて怒鳴るに至ったのだろう。本当に誤解であるアイリーンの立場からして見れば、いい迷惑なのだが。
「なーにが誤解だ! じゃあなんでお前さんはシャルルの店の前におる! お前さんを信じてたあたしが馬鹿だったよ!」
「ちょ、分かったから一旦静かにして……!」
何をどう言い訳しようにも、きっとこの頑固な老婦は聞き入れてくれないに決まっている。せめて小さな声で話してくれないかとアイリーンは一歩近寄った。しかし、ドロシアの目は相変わらず目ざとい。
「……っ、それにそのあんたの有様は何なんだい! 折角あたしが縫ってやった服をそんなに汚して……! ええ? そんなにあたしが不満かい!?」
「あ……こ、これは……」
これにはさすがのアイリーンも言葉を濁す。
今アイリーンが着ている服は、ドロシアからの贈り物だった、いつも適当に繕った服を着ているアイリーンに対する。
素直ではないドロシアは、そんなんじゃない!と鼻息荒く否定するだろうが、アイリーンにぴったりなその服は、紛れもない贈り物だろう。
――しかし、その贈り物であるアイリーンの服は。
長い牢獄生活に薄汚れ、激しい運動によりすっかりくたびれていた。ドロシアが怒るのも無理はない。アイリーンの頬は引き攣った。
「あ、の……これには、ちょっといろいろ訳がありまして……」
「もう知らん! お前さんなんか、お前さんなんか――」
プルプルとドロシアの身体が震える。いつも怒っているドロシアだが、一度暴走すると、本気で手が付けられなくなる。本当にどうすればいいの、とアイリーンが天を仰ぎたくなった時、救世主は現れた。
「ちょっといいだろうか」
「なんじゃ、お前さんは」
「王立騎士団の者だ。彼女に用がある」
彼は紛れもない王立騎士団の制服を着ていた。
「リーヴィス=アイリーン本人で間違いはないだろうか。ちょっと王宮で話を――」
「今アイリーンと話しているのはあたしだよ。割り込むんじゃないよ!」
「……何だと? 俺は騎士だぞ、刃向うつもりか!」
「はあ? 騎士? 知るかいそんなもん」
ドロシアは一刀両断した。こういう時の彼女こそ、頼りがいのあるものは無い。
「とにかく、あたしの話が終わるまでお前さんは引っ込んでな」
「なっ……! 侮辱罪でひっ捕らえるぞ!」
「ひっ捕らえる? やれるもんならやってみい。お年寄りを敬えなくなったら人生終わりじゃあ」
「こっ……この――!」
何だなんだと周りには人が集まって来ていた。騎士は顔を真っ赤にしているが、固く握りしめているその手は動かない。さすがにこの衆目の場で、老婦に手を上げるようなことはしないだろう。
そこまで見届けると、アイリーンは人ごみに紛れて姿を眩ました。この騒ぎに、他の騎士がわらわらと集まってきても堪らない。
急いでこの場から離れないと――とそれだけを考えていたせいか、アイリーンは曲がり角で何かとぶつかった。思わず騎士団か!?と咄嗟に身構えたが、なんてことはない、ウィルドの友達のクリフであった。
「クリフか……」
「お、お姉さん!?」
しかしこのクリフ、アイリーンが考えるより盛大に驚いていた。びくびく肩を揺らしている様子から、誘拐事件についての噂を耳にしているのだとアイリーンは推測した。声を落として身を屈める。
「クリフ、お願い。私を信じて見逃して!」
後ろからバタバタと足音が駆けてくる。先ほどの騎士が増援を呼んだのかもしれない。
「お願いね! 私のことは見なかった振りを――」
言いながら、アイリーンは素早く曲がり角の向こうに消えた。結局クリフはほとんど言葉を発さないまま、それを見送ることとなった。やがて、そう時間をおくことなく数人の騎士たちがクリフの元へとやって来た。
「おい少年!」
「ひゃっ、ひゃい!」
クリフだって、噂のすべてを信じているわけではない。確かにウィルドの姉は恐ろしいが、ウィルドやその他の家族とは仲良く暮らしている様に見えた。あの仲良さそうな家族が、誘拐によって形作られたとは到底思えない。何が真実かは分からないが、どうも今回ばかりは、あのお姉さんが誘拐なんてするようには見えないのである。
「今子爵令嬢のリーヴィス=アイリーンを見なかったか!? 女はどこに行った!」
しかし良くも悪くもこの少年、嘘がつけなかった。
「あ……はい――あ、じゃなくて!」
「おい、謀ろうとすると命はないぞ」
騎士の声がドスの効いたそれになる。クリフはさらに慌てた。
「い、いや、違うんです。お姉さんは……あれ、ウィルドのお姉さん? あ、違った、血の繋がりはないんだっけ……その、お師匠さんは――」
「はあ? 師匠?」
「は、はい。師匠……らしいんです。俺――僕も詳しくは知らないんですけど、でもウィルドに聞いてみても、その由来を教えてくれなくって――」
「…………」
「その、だからウィルドにとってお姉さんじゃないんなら、僕がお姉さんと呼ぶわけにはいかないかな……って。だって、だってウィルドのお姉さんじゃないのに、僕なんかがお姉さんなんて呼んだら、今度何て言われるか――」
「……何だこいつ」
いつしか、騎士たちの目は可哀想なものを見る目へと変わっていた。必死に言葉を紡ぐ間にも、クリフの瞳はあちらこちらをくるくる移動していた。
頭が……弱いのか?
騎士たちの目は、ますます優しくなった。
「おい、もう行こう」
一人が言い出した。
「悪かったな、坊主。俺たちもう行くから、気を付けて家に帰るんだぞ」
「はっ……はい……」
ぼうっと口を開けて見送る少年の姿は、どこか哀愁を漂わせていて。
騎士たちはもう何を言うでもなく、くっと唇を噛みしめながら、前を向いた。




