90:エミリアの計画
「ウィルドにそんな過去があるとは知らなかった」
淡々ととオズウェルは言った。
いつも元気で、人見知りをしないウィルド。その笑顔の裏に、どんなことを思っていたのか。
「ええ……そうね。ウィルドが元気すぎるから、私もついそのことを忘れてしまうわ」
アイリーンは自嘲するような笑みを浮かべた。
ウィルドは、自分には何も話してくれない。
それは、彼が騎士になりたいとアイリーンに秘密の訓練を始めた頃からもう既に分かっていたことだった。
無理に聞き出すことは無いと思っていた。
でも、ウィルドは何も話してくれない。
それが、すごく悲しかった。
「ウィルドの次は誰に会ったんだ?」
「……エミリアよ」
暗く沈み込む思考を浮上させようと、アイリーンは首を振った。
「エミリアはある春の日に出会ったの。孤児院の近くで蹲ってたところを」
「孤児院……?」
オズウェルが驚いたような声を上げた。
「ええ。凄くお腹を空かせてるみたいだった。思わず私が持っていたお菓子を渡したら、すごい勢いでがっついたの。今のエミリアからは想像もつかないくらい。……何だか、その様子を見ているとね、過去の自分と重なってしまって。ああ、私もこんな風にいつもお腹空かせてたなって」
「子爵家当主が亡くなった時か?」
「ええ。……両親が亡くなった後ね、私とステファン、二人暮らしを始めたんだけれど、やがてお金も底をついてね。ずっと辺りを放浪してた。その時のことを思い出したの」
……それに、彼女自身、ステファンと共にあの孤児院にいたことがある。ほんの一瞬だが、ラッセルがしばらくここで生活しろと院長に二人を預けていった。何の因果か、エミリアはその孤児院の子供だった。アイリーン自身も幼かったので、孤児院のことはそれほど覚えていなかったが、院長のことは、いけ好かない奴と認識していた。
院長自身もその時のことは覚えていたのか、アイリーンが名乗った途端視線を鋭くした。その時、二人はそれほど言葉を交わさなかったが、彼女の元に、この少女はおいて行きたくないと強く思った。
「それで……孤児院で手続きをしたわけか」
「ええ」
アイリーンは確かに頷いた。あの日のことは、今でも覚えている。忘れるわけがない。エミリアと初めて出会った日なのだから。
「その日、私は孤児院の院長先生にお会いしたわ。私が引き取る旨を伝えると、驚いたように動揺していた。何でも、その孤児院には滅多に子供の引き取り手は現れないらしいから。他の職員の方たちと相談するって、すぐに部屋を出て行ってしまったわ。次に現れた時、彼女は手に書類を持っていて、ここに私がサインをすれば、手続きが終わります……と」
「随分簡単な手続きだな」
「ええ、それは私も思ったわ。もっと……こう、引き取り手の身分を証明するものや、役所にも必要な書類を提出しないといけないと思っていたから。でもその日、その紙にサインをしただけで終わったから、拍子抜けしてしまったわ。でも、エミリアは嬉しそうに見えたから、私もすぐにそんなこと忘れてしまったんだけれど」
アイリーンは馬車の背もたれに寄り掛かり、そして長く息を吐き出した。
院長が私のことを知らないと言ったのは、おそらく嘘だろう。
何より、エミリアを引き取りに行った時のあの彼女の鋭い視線は、忘れもしていないことを如実に表していた。
ならなぜ、騎士団員に知らないと言ったのか。
簡単だ、些細な復讐に決まっている。
アイリーンは頭に手を置き、項垂れた。
事は非常に単純で、しかし難解だ。
エミリアを引き取る旨の契約書は、おそらく院長の元にある。彼女が自分に敵意を抱いているとしたら、そう易々とそれを騎士団に提出するとは思えない。
本当、どうしましょう……。
思わずアイリーンが空を仰ぎかけた時、オズウェルと目が合った。
「エミリアが来て、家の中が一気に華やかになったんだろうな」
彼の口から飛び出たのは、こんな緊張感の欠片もない言葉で。
アイリーンは笑いを堪えながら頷いた。
「――ええ、そうね。エミリアが来るまで、家には私とステファンとウィルドしかいないでしょう? 男の子って、時々よく分からない話に熱中するから、私、少し寂しかったのよね。でもエミリアが来てくれたから、すごく楽しかった。二人でお買い物するのも、話をするのも」
アイリーンは嬉しそうに綻ぶ。
「エミリアね、兄弟がいなかったらしいから、始めはすごく戸惑っていたみたい。でもやがて、一緒に暮らすうちに慣れて来たのか、姉御、姉御って。私としては、エミリアみたいな可愛らしい子には、お姉さまって呼ばれたかったんだけれど」
お姉さまなんて柄か……?
こっそりオズウェルはそんなことを考えていたが、賢いことに、口には出さない。
「私は家庭教師、ステファンは買い物や勉強、ウィルドは畑仕事。だからエミリアには何をしてもらおうって思っていたんだけど、安易に、女の子だからっていう理由で料理担当になってもらったの。でも……ね」
アイリーンの表情が固まる。急に雰囲気が変わり、オズウェルはごくりと唾を呑みこんだ。
「始め、エミリアはものすごく料理が下手だったの」
ここだけの話よ、とでも言いたげに、アイリーンは声を潜めた。
そんなことか、とオズウェルはがっくり肩を落とした。
「……お前も料理が下手なんだろ? 人のこと言えた立場か」
「……なっ、まっ、確かにそうだけど……でも!」
勢い込んでアイリーンは前のめりになる。
「エミリアだってなかなかの残念な腕前だったのよ! 直感で調味料を入れるから味にはムラがあり過ぎるし、どれが何の食材か分かっていないから、これまた直感で料理に放り込んでいくし!」
ムキになってアイリーンは叫んだ。さっきまでは可愛い妹、と言外にそんな雰囲気を漂わせていたくせに、散々な言い様である。
オズウェルの呆れた様な眼差しに気付いたのか、アイリーンはハッとして口を噤んだ。居住まいを正すかのように咳払いをすると、再び姿勢を良くする。
「エミリアの努力は、認めていない訳じゃないのよ。あの子、ね。きっと努力してるって思われたくなかったんでしょうね。いつも夜中にこっそり起き出して料理の練習してた」
「……誰かさんとは大違いだな」
「そうね――って、一体あなたは誰のことを言っているんでしょう。茶化さないでくれません?」
アイリーンはにっこり笑う。その笑みが、どこかの弟を彷彿とさせ、オズウェルは黙った。
「でも……本当に、エミリアは良い子なの。料理が苦手なら、私にそうと言えばいいのに。何も言わずに、黙って練習して。だからかしらね、あの子の料理以上に、美味しいと思ったものに出会ったことが無いわ」
*****
エミリアはお腹を空かせていた。それはもう、自身が昔、孤児院にいた頃を、鮮明に思い出すくらいには。
「せんせー、エミリアちゃんのご飯がありませーん」
嬉々として大声を上げるのはサリー。エミリアはただ呆れたように顔を顰めていた。
「まあ……残念ね。人数分しか用意していないの。不思議ねえ、数え間違えたのかしら。誰かエミリアちゃんに分けてあげなさい」
それだけ言うと、いそいそと院長先生と職員たちは食堂を出て行った。別室で、職員たちはここよりも数段豪華な食事を摂るつもりらしい。職員たちは内緒にしているようだが、子供たちは全員そのことを知っていた。だからこそ、余計にストレスも溜まる。
「――だって。誰か、エミリアちゃんにご飯を分けてあげる心優しい子はいないー?」
皆、一斉に顔を俯けた。サリーの腰巾着である一人の少女が、大きく手を挙げた。
「サリー、あんたが分けてやれば?」
「えー? あたしー?」
クスクスとサリーが笑い声を上げる。
「遠慮しとこうかなあ。だってあたし、心優しくないもん」
「ひっどー」
数人の少女が同じように笑い声を上げた。他の者たちは、気まずそうに表情を暗くし、自分に火の粉が降りかからないよう祈るばかりだ。サリーは隣の子に顔を近づけた。
「ね、じゃああなた、分けてあげれば?」
「え――」
「食事。分けてあげたらって言ってんの」
「う、うん……」
びくびくとその少年は立ち上がり、エミリアへと近づいて行った。サリーはため息をつく。
「つまらない子」
その呟きが聞こえたからなのか、その少年が通る道に、さっと横から足が伸びてきた。当然、彼はそれに気づかずに躓いた。再びクスクスと意地の悪い笑い声が漏れだした。
「あーあ、可哀想に。大丈夫?」
「う……」
「ね、ちょっと聞きたいんだけど」
サリーは少年の前にしゃがみこんだ。
「何であの子にご飯分けようとすんの? 何さ、じゃああんたはあたしよりも心優しいってこと? 偽善ぶってるー」
分けてあげろと言われたから分けようとしただけじゃないか。
サリーは一体何がしたいのだろうか。
かつては、恐怖に震えることしかできなかったが、今は違う。冷静に、冷めたような目で観察することができた。
「随分子供っぽいことをするのね」
無意識のうちにそれが口をついて出ていた。サリーも鋭い目で立ち上がる。
「あら? 何か言ったかしら、この生意気な口は」
パシッと乾いた音を立ててエミリアの頬に痛みが走った。怯えることは無い。恐怖に震えることは無い。やり返すことも無い。
もう何を反論する元気もなかった。というよりは、ただただ、この目の前のサリーという少女が憐れだった。
他人を虐げることでしか、喜びを見いだせない可哀想な女の子。
子爵家という新たな家族を得た後では、もうエミリアは何も怖くなくなっていた。
そんな彼女に、苛立ちを募らせるのはサリーの方だった。
前は、もっと反抗的だった。もっと弱かった。
何をしても、抵抗が返って来ない。
そのことが、サリーの癪に障った。
「――っ!」
ガシャン、と盛大な音が鳴り響いた。サリーがテーブルから食器をぶちまけた音だった。唖然と周囲の子供たちはそれを見つめる。
「先生、先生!」
狂ったように叫びながら、どんどん他の食器もぶちまけていく。
「何事です!」
院長と職員数名が駆けつけた時には、サリーはもうお利口に席に座っていた。両手で顔を覆い、泣く真似までする。
「エミリアちゃんが……あたしは、止めてって言ったんですけど……」
「な……何よこれ!」
院長は茫然としたように立ち尽くした。唇がわなわなと震えている。
「――またなの? エミリアちゃん」
エミリアは何も言わない。言っても無駄だと分かっていた。
「折角ここへ帰って来たのに、あれから全く成長していないのね。問題ばかり起こして……」
瞳には怒りが煮えたぎっている。それを隠すかのように、彼女はこちらに背を向けた。
「あの子のこと、よろしくね」
そう言って院長が肩に手を置いたのは、後ろの若い職員たち。
「はい」
そう頷く彼女たちの口元には笑みが浮かんでいる。
罰については、職員たちが全権を担っていた。彼女らに任せるということは、エミリアに対して、何をしても構わないということと同義。
そのことは院長だってよく分かっていた。子供たちだって分かっている。サリーはくっ、と口元を歪めた。
これからの行く末が心配ね。
エミリアの絶望に染まった表情を見ることなく、サリーは朝餉を食べてさっさと食堂を出て行った。他の子供たちも、ちらほらと食べ始める。サリーによって食事をぶちまけられた子供たちは、ただ指をくわえて彼らを見ているだけだった。
「あんたたち、この食堂、夕餉の時間までに綺麗にしておくのよ」
職員の一人が、仁王立ちになって子供たちにそう宣言した。いきり立つのはもちろんサリーの腰巾着たち。
「――なっ、これはエミリアちゃんの仕業です! なんで私たちが――」
「彼女には!」
低い声で職員は一喝する。彼女らは一斉に口を噤んだ。
「これからきつーいお仕置きが待っているの。掃除くらいで、その時間を短くするのは、勿体ないと思わない?」
「…………」
彼女たちは応えない。しかし薄らと浮かぶその口元の笑みで、彼女らの考えが手に取るように分かった。
「こっちへ来なさい」
「――はい」
それだけ言うと、エミリアは大人しく職員たちについて行った。
自分の行く末については悲観はしていない。何があっても、家族が待っていてくれるのなら、負けない自信はあった。
分厚い扉が閉まり、食堂との世界が分断された。ここは、食堂に繋がるキッチンだった。院長先生とも、子供たちとも隔離された一室。職員たちの、憩いの場――。
「エミリアちゃんの料理を食べてから、何だか夜よく眠れるようになったのよ。今度、他にも良い感じのもの、作ってよ!」
「ちょ……ね! これどうやって作ったのよ! この不思議な触感、食べたことないわ」
「ねーえ? 次はお菓子でも作ってくれない? あたしらが作るといつもパサパサになって不味いんだよねえ」
扉が閉まった途端、職員たちはエミリアに群がった。中央に立つ彼女は、にこりと微笑む。
「皆さま、一度に話されてはわたしは答えることができませんわ」
「そっ……そうよねえ……」
照れっとした様子で各々一歩下がる。微笑みを絶やさぬまま、エミリアは言う。
「アリッサ様、今度はお肌の調子がよくなる料理を作って差し上げますわ。きっと今よりもお綺麗になっていること請け合いですわ」
「あんらー、いやだねえ、エミリアちゃんったらお上手!」
「キャロル様、よくお気づきになりましたね。それにはちょとした隠し味を入れてみたんです。栄養も満点でお勧めですよ。今度お見せします」
「そうなの? エミリアちゃん、色んなこと知ってるのね」
「べリンダ様、ではカボチャのタルトなどは如何でしょうか。よく貴族のご令嬢方がお茶会で頂いているそうですよ」
「まあ……まあまあ! そうなの? それならあたしも一度食べてみたいものだねえ」
職員たちの顔は上機嫌だった。何しろ、彼女らは今、ほとんど楽しみという楽しみは無かった。外へ遊びに行こうものなら、孤児院の職員が何を贅沢に、と陰口を叩かれるに決まっている。ならば、羽目を外す機会は孤児院にいる時くらいしかない。しかし、ここでできる贅沢と言えば、多少食事を豪華にするだけ。しかもそれすらも、院長やら年配の職員たちが目を光らせている。年若い彼女らに、心休まる時はなかった。そんな時に現れたのがエミリアだった。彼女は女神のような笑みで自分たちに美味しい食事とデザートを提供してくれた。彼女たちはすっかり小さな少女に餌付けされていた。
ここの食事が貧相なのも、仕方がないことだとエミリアは考えていた。食材を豪華にしても、作り手が貧相であれば、料理の味を落とすことなど当然だ。
皆に喜んでほしい。おいしいものを食べてほしい。
そう思うことなく、料理に熱意を入れるのは無理だ。
そう思うことなく、美味な料理を作ることは無理だ。
エミリアは確信していた。ここの孤児院の人たちに、美味しいものは作れない。努力もしなければ、温かい心もない。そんな人たちが作るものを、誰が美味しいと思うのだろうか。
「そう言えば、まだ聞きたいことがあったんですけれど――」
不意にエミリアが口を開いた。エミリアが職員たちに媚を売る代わり、彼女は素知らぬ顔で彼女たちから情報を得ていた。この孤児院のこと、院長先生のこと、そしてアイリーンのこと。まだまだ聞きたいことはたくさんあった。
「でもエミリアちゃんも大変ねえ」
エミリアの声は届かなかったようで、アリッサが口火を切った。
「家族がバラバラになったんでしょう? 何があったのか、私達もよく分からないけど」
「あたし、上の人が話しているの聞いた。姉は捕まるし、兄弟たちもそれぞれバラバラになったんだってね」
「よく分からないけど、こんなとこに放り込まれて、あんたも大変な思いしてんだねえ」
しみじみと言うのはべリンダだ。
エミリアは彼女らの言葉に固まった。
どうして今まで忘れていたんだろう。自分と姉のことで、頭がいっぱいだった。
エミリアは小さく呼吸を繰り返す。
姉御は今、王立騎士団にいる。兄様は国立学校。ウィルドは騎士団の訓練所で、そして……そして、フィリップは。フィリップは、どこにいるのだろう。わたしが孤児院へ連れてこられたあの日、彼は家に帰って来なかった。普段ならばあり得ないことだ。
エミリアはてっきり、同じ孤児院にいるものと思っていた。しかし彼の姿はなく、代わりにいるのは、いつかの頃と変わらない姿を見せる孤児院の人たち。院長が、手続きなどしていないと手の平を返すものだから、エミリアはその真相追及と対応に追われていた。
フィリップは、いったいどこにいるのだろう。
その疑問だけが、エミリアの頭の中すべてを締め、それ以外考えられなくなっていた。
「アリッサ様……」
「ん? なに?」
「わたし……わたしを、納屋に閉じ込めてください」
「――っ、どういうこと?」
突然の申し出に、アリッサは目を白黒させた。
「わたしが元気な姿で夕餉の席に現れたら、きっと皆さん不思議に思われます。そうなると、疑われるのはアリッサ様方です。わたし、とても良くしてくださった皆様方に、不憫な思いはさせたくありません」
「エミリアちゃん……」
「わたしを折檻した後、納屋に閉じ込めたということにすればいいんですわ。それなら、わたしがピンピンしていることに、誰も気づかない」
「……それもそうね」
キャロルがうんうん頷いた。
「確かに、あたしたちがエミリアちゃんと仲良くしてるってことがバレるのは頂けないわね」
「でもどうして納屋? 子供たちを閉じ込めるのは、いつも母屋のはずでしょう?」
「納屋の方がボロボロで、閉じ込めるには丁度良いと思うんです。母屋は明るくて広いから、罰を与えているようには見えないと思って……」
「それはそうね。でも……どうして母屋に閉じ込めることになっているのかしら」
それは、納屋に小さな抜け穴があるから。
そこから、以前子供が抜け出したから。
それを、最近入ったらしいこの若い職員たちは知らなかった。
「じゃあ、お願いいたします」
「分かったわ。明日の朝くらいが潮時かしらね」
「はい。ありがとうございます」
エミリアは慣れた愛想笑いを浮かべる。しかし、頭の中はフィリップのことで一杯だった。




