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愛と鞭  作者: まくろ
第三話 母の心子知らず
8/120

08:幼き日

 日はもう既に傾き、辺りは夕闇へと移り変わろうとしている。

 アイリーンは、下町を足早に歩いていた。もう閉まってしまったか、と不安に思いながらも辿り着いた先は、未だ看板が出ており、中にいた店主も呑気に鼻歌を歌っていた。


「こんばんは」

 こぢんまりとした店の中に入ると、一気に花の香りが鼻孔をくすぐった。様々な花の香りが混じり合っているにもかかわらず、その匂いは濃くなく、逆に心地よさを感じさせる。


「おお、アイリーン、よく来たね」

 振り返った大柄な女性――アマリスは、よく日に焼けた顔を緩ませながら振り返った。


「最近来なくて寂しかったよー? あたしの世間話に付き合ってくれる人がなかなかいなくってさあ。暇ったらありゃしないよ。あ、そうだこの間も――」

「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


 アマリスの話はいつも長引く。自分が話したい時は、ばっさりと遮るのが一番だった。


「ウィルドに食用の花があるってこと、教えたのアマリスさん?」

「あれ、なんで分かったの。あの坊やには内緒にしてねって言っておいたのに」

「……それくらい分かります」


 もしも学校でその話を教えられたとして、しかし種を入手する手段はないだろう。一方で花屋であるここなら、その情報も種も簡単に入手できる。何より、ここの店主は人が良かった。いいよいいよ持っていったと太っ腹に種を持っていかせたことなど想像にたやすい。


「別にいいだろう? 勉強になるだろうし」

「良くないです。目の前でむしゃむしゃ花を食べられた姉の気持ちがお分かりに? 私は野生児を育てたいんじゃないんです」

「あれ、でもその言い方だと、花は食べたら可哀想って言ってるように聞こえるんだけど。そういうことだよね?」

「……揚げ足取らないでください」

「はいはい。相変わらず素直じゃないねえ」


 あはは、とアマリスは豪快に笑う。彼女のこの笑いは、嫌いではなかった。――おそらく幼い頃の自分は嫌いだと言い切るだろうが。


 彼女との出会いは数年前にさかのぼる。その頃、アイリーンは単なる捻くれた少女で、何の役にも立たない花など、ただの雑草にしか見えていなかった。しかしそれは、何もかも大らかなアマリスとの出会いによって変化が起きた。


*****


「ねえそこのお嬢ちゃん! お花はいらないかい?」

「――は?」


 今より少し幼いアイリーンは、今ほど自分の性格、機嫌を制御することもできずに、不機嫌丸出しな表情で振り返った。少女の思いっきり寄せられた眉根を見て、声をかけたアマリスも顔を引き攣らせる。


「おや? お嬢ちゃん、機嫌悪そうだね」

「機嫌悪い人に向かって機嫌悪いねって言ってどうなるの? 更に相手の機嫌が悪くなるだけだと思うけど」

「はは、まあそりゃそうなんだけど。いや、こりゃあ一本取られたね」


 あはは、と明るい笑い声を上げるアマリスを尻目に、さっさとアイリーンは歩き出そうとする。しかしアマリスはすぐに彼女を引き留める。


「ちょいとちょいと、何か悩みがあるならあたしが聞いてあげるよ?」

「別にいらないわ。見知らぬ人にぽんぽんと話す人がいるわけないでしょう」

「あはは、確かにそれはそうだ」


 再び明るい笑い声を上げる。何だかアイリーンはその笑い声に腹が立った。面白くもないのに何笑っているの、馬鹿にしてるの、という怒りに襲われる。その感情のまま、アイリーンはアマリスを睨み付けた。しかしすぐに彼女の表情は真面目なそれに変化したので、ヒヤッとした。


「な、何よ」

「でもさ、お嬢ちゃん。正論ばっかりでつまんなくない?」

「は?」

「いやあ、あたしって頭あんま良くないからさ、難しいこと言われてもよく分かんないんだよねえ」


 アマリスが空を仰ぎ見る。


「だからさ、その時その時を生きてるんだよ。でもお嬢ちゃんみたいに、一つ一つの動作に理由を付けてたら、何だか生き辛そうだなって」

「……はあ?」


 生き辛そう? 私が?


 他人から哀れみを受けているようで、アイリーンはますます腹が立った。しかしそんな彼女の心中を知る由もなく、アマリスは能天気に一輪の花を差し出す。


「ね、お嬢ちゃん。機嫌悪い時にこそお花だよ! ほら、何だか見てると心が落ち着いてくるだろう?」

「なるわけないじゃない」


 バッサリとアイリーンが一蹴する。


「そんなのお腹の足しにもならないわ」

「なんだお嬢ちゃん、お腹空いてるの?」


 そっぽを向いていたアイリーンの頬が、パッと色づく。


「なっ、違うわよ! べ、別にお腹なんか空いて――」

「そうだろう、そうだろう。お腹が空くと人はイライラするって言うしね。でもほら、そんな時にだってお花は――」

「うるさい!」


 気づくと、反射的にアマリスの持っていた花を振り払っていた。音もなくそれは地に落ちる。


「お腹、空いてるんだね」

 静かな声が上から降り注いだ。すぐに足音が奥の方に消えた。アイリーンが顔を上げる間もなく、その足音は再びアイリーンの側に戻ってきた。


「ほら、これ食べな」

 顔をわずかに上げると、目の前にパンがあった。むき出しのパンを、むき出しの手で掴んでいる。アイリーンが言えた立場ではないが、もう少し何か工夫ができたのではないかと思った。


「安心して。金なんかとらないよ」

「――お生憎様、お金なんか持ってないわよ」

「あはは、そっかー」


 しかし気を悪くするでもなく、なおもアマリスはパンを差し出した。


「ほら食べな?」

「……どうも」


 一言告げると、アイリーンはパンを受け取り、齧りついた。見た目と相まって意外と重量感のあるパンで、それは十分アイリーンのお腹を満たしてくれた。しかし、どうもぱさぱさのパンが口の中の水気を吸収しまくり、水が欲しくなった。しかし、目の前でニコニコ笑っているアマリスには、どうにもそのような気遣いがあるようには見えなかったので、黙っていることにした。


「お腹いっぱいになった?」

「……まあ、なったけど」

「良かったね。ほら、お花のおかげで気分も大分楽になったでしょ?」

「……私が落ち着いたのはパンのおかげだわ」

「あ、バレた?」


 アマリスは舌を出して笑う。


「そりゃあそうだよ。生きるためには食べ物は必要。お花はその代りにはなれないさ。でもそれぞれにはそれぞれの大切な役割がある。そう思わないかい?」


 アイリーンは黙ったままアマリスを見つめる。


「食べ物はもちろん人が生きるために必要さ。でも生きることに必要なのは本当に食べ物だけかい? 食べ物だけがあれば生きていけるのかい?」


 生きるために必要なもの。


 食べ物以外だったら、まずお金が挙げられるだろう。しかし彼女が言っていることはそういうことではない。


「なんか説教臭くなっちまったね。悪かったよ」

 アマリスはポリポリと頬を掻いた。


「またおいで。悩みがあれば聞いてあげる」

 そして何を思ったのか、急にアイリーンを抱き締めた。


「なっ、何して――」

「んん? 何だか急に抱きしめたくなっちまってねえ。ああ、故郷の小さい弟を思い出すわー。まあもうとっくに結婚しちまってるんだがね。でもさあ、いくら何でも姉であるこのあたしを差し置いて先に結婚するっていうのは酷いと思わないかい? あたしだって別に女を捨ててるわけじゃないのにさ、ただ良い人が現れないってだけで――」

「し、失礼します!」


 よく分からない話を延々と続けられそうな気配を察知し、アイリーンはバッとアマリスの腕から逃げ出した。


「ええ? もう行っちゃうの? またおいで~」

 後ろから呑気な声が追ってきたが、しかし彼女は振り返らなかった。


*****


「姉上、お帰りなさい」

 家につくと、とてとてっと弟のステファンが出迎えてくれた。


「遅かったね」

「え……ええ、ちょっといろいろあってね」

「あれ、姉上、髪にお花が……」

「え……な、何?」


 急いで鏡で確認すると、アイリーンの髪に一輪の花が編み込まれていた。いつの間に……と思いだしたが、すぐに思い当たる。最後に急に抱きしめられた時だ。


「可愛いね。似合ってる」

「あ、ありがとう……」


 ニパッと笑顔で言われて、悪い気はしない。


「そうだ姉上。今日畑の作物がよく取れたんだ。だから姉上もたくさん食べれるよ。遠慮しないでね?」

 おずおずとステファンは言う。聡い彼のことだ、もしかしたら気づいていたのかもしれない。


「うん、たくさん食べようかな」

 弟の頭を撫で、アイリーンは居間へ向かう。そこには、まだあまり料理はうまくないが、着々と腕を上げていっているステファンの手料理がテーブルに並んでいた。二人一緒に席に着く。


「……これは?」

 テーブルの中央に小さな花瓶が置かれているのに気付いた。そこには小さな黄色の花がちょこんと活けられていた。


「あの、畑の隅っこに咲いてたんだ。栄養取っちゃうから引っこ抜いて捨てようとしたんだけど、でもどうしても捨てられなくって……」

「……そう」


 その花を見ていると、花屋の大らかな誰かさんを思い出した。すぐに思い至って、自分の髪に編み込まれている花に手をやった。


「取っちゃうの?」

 なぜかステファンは泣きそうな顔をした。


「ううん。萎れたら勿体ないからこうするだけ」

 そう言って、アイリーンはその花を花瓶に挿した。黄色の花と青色の花。色も大きさも違うが、なぜか見ていると癒された。


「可愛いね」

「うん!」


 ステファンは元気よく頷いた。久しぶりに、姉の笑顔を見たような気がしたからだ。


 それから数日、その命の灯火が消えゆくまで、まるで姉弟が寄り添うかの様に、そのテーブルには大小二つのの花が飾られていた。

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