79:遺恨
ギコギコと外で騒がしい音がするのは気のせいだろうか。いや、気のせいではない。
アイリーンはその日、珍しく午前は何も仕事が入っていなかった。だからこそゆっくりと惰眠を貪ろうと思っていたのだが、彼女の睡眠を妨げようという者が一人、いた。
ギコギコ、ギコギコ。
静まったと思ったら、またすぐ思い返したように音が鳴り響く。
今度こそ静まったと思ったら、次はカンカンと何かを打ち付けるような音が加わる。
もういい加減限界だった。ウィルドが秘密基地やらそりづくりやらに興味を示すのは構わないが、何も子爵家の庭で、しかもこんな朝っぱらにやらなくてもいいのではないか。
アイリーンは堪らなくなってベッドから飛び起きた。すぐにでも階下へ降りて怒鳴ってやりたいものだが、淑女としてはそうもいかない。顔を洗って着替えて髪を整えて。そうしてようやくアイリーンは階下へ降りることができた。とはいっても、その頃には目もすっかり覚め、怒りも収束していたのだが。
「……みんな? いないの?」
声をかけながらアイリーンは居間に入ったが、彼らの姿はない。
「ああ……そう、ウィルドの様子を見学しているのね」
確かに何だか庭が騒がしい。欠伸を漏らしながらアイリーンは庭へ向かった。あまり熱心に草むしりもしていないので、荒れ放題な庭へ――。
「で、できたー!!」
アイリーンの叔父、ラッセルの嬉しそうな声が響いた。同時にわーっと歓声が上がる。何だか嫌な予感がした。
「す、すっげー!! 一からこんなに完成度の高いもん作るなんて! ねえ、今度俺にも作り方教えてよ!」
「もちろん朝飯前さ!」
「いいなあ……。早速乗ってみてもいい?」
「そのために作ったんだから、どんどん乗ってくれ!」
「わたしもわたしも!」
三人は競い合いながらそれに向かって突進した。アイリーンは茫然としながらよろよろとラッセルに近づく。
「な……何ですか、これ?」
「暇だから作ってみたんだ」
悪戯っぽくラッセルは笑って見せた。全く答える気配が無いので、仕方なくアイリーンが自分で答えてみる。といっても、見ればわかる代物なのだが。
「ブランコ……ですよね?」
「うん、そうだよ。なかなかの出来栄えじゃないか?」
得意そうにラッセルは鼻の下を擦った。ステファンも感心したように寄って来た。
「すごいですね、こういうの得意なんですか?」
「ああ、前いた国で教えてもらってね。ほら、僕子供が好きだから、子供たちが楽しんでくれるようにってね、ほかにも色々な遊び道具も……」
「本当!?」
聞いていたらしいエミリアが寄って来た。ブランコの方は交代制らしく、今はフィリップが乗り、ウィルドがその背中を押していた。
「他にはどんなのが作れるの? 出来ればもっと作ってほしいな!」
「いいよ、どんどん作ってあげる」
ラッセルは大きな手のひらをエミリアの頭に載せた。嬉しそうに彼女の顔が綻んだ。そんな彼女に、ウィルドが不満そうな顔を向ける。
「ちょ、エミリアもう交代だ! 俺疲れたよ」
「えー、もう? まだ十分も経ってないじゃない!」
「じゃあ叔父さんが押してあげよう」
「え、本当!?」
フィリップも嬉しそうに笑った。
「じゃあもっと高く押してね。誰よりも高く!」
「ようし、叔父さんに任せてくれ!」
キャーキャーワーワーと、何とも楽しそうな声を上げながら一行はブランコを目一杯満喫していた。しかし一方でアイリーンは気が気でなかった。
「あの人……子供たちには接触禁止だって言うお願い忘れたんじゃないかしら」
うろうろと不安げにその場を回る。
「いくら何でも――」
「姉上」
窘めるようにステファンが声をかけた。
「楽しそうだし、少しくらい良いんじゃないですか?」
「で、でも――」
迷子の様な瞳が彼に向けられる。弟は朗らかに頷いた。しかしそれでもアイリーンの不安は尽きない。
彼らには……ここには父親がいない。だからこそ、ラッセルの様な人が真新しく、そしてその存在が嬉しくもあるのだろう。それは分かる、でも。
皆は知らないのよ。ステファンにだってきっと分からない。だって何より、あなたはまだ小さかったから。
自分よがりなこととは分かっている。だからこそ、その言葉はついに声になることは無かった。
*****
ラッセルはすっかり人気者になった。初日とは違い、きちんと同じ席につき、同時に夕食を食べることを許されたのだから、随分な進歩だ。まだアイリーンの面持ちは固かったが、子供たちはそんな姉を気にすることなく彼に話しかけていた。夕食は一段と盛り上がった。
アイリーンはそそくさと食べ終え、一人食器を洗っていた。いつもならすぐに眠たくなって自室へ引っ込むフィリップでさえも、寝てしまうのが惜しいらしく、粘っていた。
「でもおじさん、なかなか仕事見つからないね。ちゃんと探してるの?」
「ウィルド、失礼だよ」
「いや、いいんだ。事実だしね」
ラッセルはちょっと笑ったが、しかしすぐにため息をついた。
「これがなかなか難しくってね、僕は結構な不器用だから、雇ってくれる人がなかなかいないんだよ」
「おじ様が不器用? あんなにいろいろ作れるのに?」
「いや、その不器用じゃなくってね、こう、性格が不器用というか……」
「そうだよ、それならその線で仕事探せばいいじゃないか!」
突然ウィルドが大きな声を嗅げた。皆の視線が彼に集まる。
「他国でいろいろと子供の遊び道具の作り方を学んだんだよね? それを活かせる仕事は?」
「いいわね、それ!」
エミリアも目を輝かせる。一気に辺りは色めき立った。
「大工さん……とは違うかな?」
「それでもいいかもね。もしくは玩具屋とか。どこもきっと他国の技術を取り入れたいと思ってると思いますよ」
「ねえ、それよりもさ、もっと何か作って見せてよ。他にどんなの作れるの?」
「ははは、よくぞ聞いてくれた。テーブルや椅子、ベッドにタンス、そりに玩具! なんでも作れるさ!」
ラッセルはすっかり鼻を高くした。子供たちに囲まれもてはやされ、すっかりいい気になっていた。
「ここはいいねえ、やっぱり生まれ育った家だからかね」
感慨深げに息を吐き出す。
ここはラッセルの生家でもあった。彼の兄――アイリーンたちの父が結婚し、住むようになるまで、ずっとここに住んできたのである。懐かしくないわけがない。
「……せめてもの、お詫びをしてもいいかな」
懐かしさと同時に、胸にこみ上げてくる思い。
「もっと大きいテーブルを作ったり、皆の身長に合ったベッドを作ったり。僕にできることは、それくらいしかないかもしれないから――」
「そんなこと、しなくても結構です」
アイリーンの声が割って入った。いつの間にか、水の音は止んでいた。
「私達は……今のままで十分幸せです。新しいものなんて必要ありません。むしろ……返してください」
「姉上?」
ステファンが怪訝そうな声をあげた。しかしアイリーンは意に介さず、ラッセルに近寄った。
「私達、あれから苦労したんです。あなたがいなくなってから」
「そ、それは……ごめん。僕のせいで……迷惑をかけたと思ってる」
「私達だって」
戸惑ったように声を絞り出すラッセルを、アイリーンは再び遮る。
「あなたが私達の後見人になってくれたことについては感謝しています。そのおかげで爵位と生家を狙ってくる親戚たちを遠ざけることができたのだから。でも、でも――」
感情が高ぶって、一瞬アイリーンは言葉を切る。次に出てきたそれは、先ほどよりも小さく、弱弱しかった。
「どうして全部持って行ってしまったんですか……!」
父が自慢していた片手剣、母がよく身に着けていた宝石、名前をつけて可愛がっていた馬に、両親が贈ってくれた髪飾り――。
彼は全部持って行ってしまった。家はもぬけの殻だった。
「……別にお金が惜しいと言っているわけではありません」
再び言葉が重く沈み込む。
「でも、それでも……。両親が残してくれた、大切なものたち、今まで、あの時まで確かに傍にあったものまで、どうして持って行く必要があったんですか!」
あの時の絶望は、筆舌に尽くしがたい。
両親が亡くなった時、アイリーンとステファンは疲れきっていた。悲しみに暮れる間もなく、親戚たちは昼も夜も構わず家に押しかけてくる。始めはお悔やみの言葉を並べ立ててはいても、その後すぐに遺産の話を持ち掛けてきた。爵位はどうの、土地はどうの、後見人はどうの。その話は幼い二人にはちっとも分からなかった。しかし彼らが己の欲に忠実にあれやこれや話していることだけは分かった。他にも競争相手がいると教えてあげたら、その舌が更に早く回ること!
我先にと押しかけてくる親戚たちを、アイリーンが適当にいなし続けること数日、彼らはついに我慢の限界と来たか、二人の目の前で正面衝突を始めた。やれ遺産は俺のものだ、やれ爵位は頂くだの話の内容は散々たるものだった。そのくせ、亡くなった両人の忘れ形見の話になると、途端に言葉が濁る。俺の家は子供が三人いるだの、独り身だから子供は手に余るだの。
要するに、彼らは遺産だけ手に入ればいいんだ。
そのことは、幼心にもアイリーンの心に暗く落とされた。
誰も、お父様やお母様のことは気にかけていないし、わたし達のことだって厄介払いしたがっている。
いっそのこと、ステファンを連れてどこかへ行こうか。弟とはまだあまり話したことは無いけれど、でもこんな所にいるよりはマシ――。
そう思いかけていた時、二人の叔父が現れた。彼は、そこに集まる親戚たちの中で、最も血が濃い存在だった。ここにいる誰より、どれだけ血縁関係が濃いかくらいしか頭に無い親戚たちは、一気に押し黙った。彼に遺産相続の権利を主張されたら、自分たちなんかに勝ち目がないことを悟ったのである。
しかし叔父は、熱のこもった目で見つめる親戚たちなど物ともせず、一直線にアイリーンとステファンの元に駆け寄り、そして抱き締めた。固く、強く。
彼は、今までのどの親戚たちとも違っていた。アイリーンたちが強請るままに両親の話を聞かせてくれたし、拙いまでも、ご飯を作ってくれた。寝付くまでベッドで子守歌を歌ってくれた――。
その穏やかな生活はしばらく続いた。親戚たちは相変わらず屋敷に留まって遺産を狙っていたが、常に家にいる叔父がそれを牽制していた。だからこそ、時々親戚たちがアイリーンとステファンに接触を試みようとしても、叔父が阻んでくれた。両親が亡くなってから、初めての心休まる日々だった。
しかし、ラッセルはある日忽然と姿を消した。書き置きすら残さず、屋敷の貴重品と共に。根こそぎ持って行かれた屋敷の中はがらんとしていた。静かで冷たく、そして不気味。
それからというものの、アイリーンとステファンはずっと二人でやって来た。年を経るごとに、一人、また一人と家族が増えていった。しかし、その中に他人が入る隙は無い。
「なぜここへ来たんですか。仕事を探すためならわざわざここまで来ることは無い筈でしょうに」
もう叔父だとは思えない。
「もうここには無い金品でもせびろうとしたんでしょうか。それともこの家すら盗ろうと?」
形あるものだけが思い出だとは言わない。しかし、この目で両親を思い出せるような、肌で両親を感じられるような、そんな思い出の品々は、たった一瞬でほとんど消えてしまった。
「すまない……」
ぽつりとラッセルが呟いた。
「本当はもっと早くにここに来るべきだった。もっと早くに――」
「謝罪はいりません」
ぴしゃりとアイリーンが遮った。
「あなたが謝罪をしたところで、無くなってしまったものはもう戻ってきませんし、して欲しいとも思っていません」
大きく息を吸う。
「もう、ここへは来ないでください」
ついにその一言を言い放たれた。
随分長い時が流れたように思える。
重い沈黙の後、ラッセルは静かに席を立って、居間を出て行った。そのすぐ後、遠くでガチャリと扉が閉まる音がした。その後も、まるで時が止まったように、居間の中はシーンとしていた。




