75:困惑だらけ
ガラガラと大きな音を立てながら馬車が止まった。どことなく緊張した面持ちでステファンは降り立つ。眩しそうに目を細めながら、子爵家を見渡した。たった数日見ていないだけなのに、随分久しぶりのような気がした。
「じゃ、頑張れよ」
「うん、いろいろありがとう。恩に着るよ」
「お姉さんにもよろしく言っといてな」
「はいはい」
窓からひらひらと片手が降られる。見えなくなるまでそれを見送り、再度ステファンは屋敷に向き直った。
何だか緊張する。ただいま、でいいかな。
もう帰って来たのー?とウィルドに茶化されそうで、ステファンは扉の前で右往左往した。
さて何と説明しようか。
みんなが恋しくなって――いや、違う。
勉強が手につかなくなって――いや、これも違う。
もともと――そう、もともと数日の滞在だったということにしておけばいい。それならば、多少の不信感だけでこの場を凌ぐことができる。そうだ、そうしよう。
急に元気になって、ステファンはいよいよ扉を開けようと手をかけた。しかしそこで後ろからかかる声。
「兄様……?」
フィリップの声だ。
懐かしくなって、思わずステファンは笑顔で振り返った。しかし、その弟は、なぜかあんぐりと口を開けている。
やはりこんなに早く帰って来たのが不思議だったのか。
勝手にそう判断すると、ステファンは言い訳をするべく一気にはやし立てた。
「……いや、違う。まさか僕もこんなに早く帰るとは思ってなかったんだよ。本当、一週間くらい向こうにいるつもりだったし。……ちょっと、想定外のことが起きたというか」
照れたような顔で頬をかくステファン。
その見慣れた動作で、ようやく兄が帰って来たのだとフィリップは実感した。そして同時に、彼の言葉で確信する。薄々気づいてはいたが、今回の行方不明事件が、兄の家出だったのだということを。
「ごめんなさいっ!」
「なっ……え!?」
フィリップはうるうると瞳に涙を堪えながら、兄に抱き着いた。ステファンは、多少はよろめいたものの、弟を受け止める。
「ちょ……一体どうしたの? 何かあった?」
「僕が……僕がこの前、約束してたのを忘れて、先に帰っちゃったのを怒ってるんだよね!? だから家出なんてしちゃったんだよね!?」
「え……え?」
「ほら、つい一週間前のことだよ!」
言われてみて、ステファンは思い出してみるが……そんなこと、あったようななかったような……。随分あやふやな記憶だった。
「あ……っと、僕自身も忘れてるくらいだから、そんなに気にしなくていいよ。怒ってなんかいないし。忘れちゃったものは仕方がないんだから」
「で、でも……」
「ほら、そんな顔しないでよ。もう忘れよう、過ぎたことはさ」
「……兄様~っ!」
感極まって、フィリップは再度ステファンに抱き着いた。
なぜフィリップがこんなにも泣いているのか。
ステファンからして見ればさっぱりだったが、しかししばらくよしよしと弟の頭を撫でた。
しっかりしている弟だが、こういう時はまだまだ子供だ。
数日間会えなかった分、思う存分優しくしようとステファンが決心していると、ドサッと物音がした。フィリップ越しに彼の後ろを見て見ると、買い物帰りらしいエミリアと目が合った。彼女の下には、買い物袋が落ちている。
「あ、エミリア。お帰り」
「に、兄様……」
にっこりと微笑む。対するエミリアは、またもやあんぐりと口を開けたまま固まった。と思ったら、素早い動きで二人に詰め寄ってきた。
「わたしが……わたしがこの前兄様の料理に唐辛子を入れたこと、まだ怒ってるんでしょー!?」
そして大声で怒鳴った。耳鳴りのする耳を抑えながら、ステファンは口元を引き攣らせた。
「やっぱりあの犯人、エミリアだったんだ……」
「ほんの出来心だったの! いつも笑ってる兄様が不味いものを食べたら、一体どんな反応を示すんだろうって、ただそれだけだったの!」
なかなか腹黒いことを暴露してくれる。しかしさすがはステファン。これくらいでは動じない。
「もう気にしてないから大丈夫だよ。なかなか刺激的だったけどね」
「そ、そんなこと言って、またウィルドと喧嘩した時みたいに、心の中で鬱々と永遠に根に持つんでしょー!」
「いや、僕のことどう思ってるのさ……」
確かにウィルドの時はやり過ぎたと思う。しかしそれをここへ持ち込むのはどうだろう。やんちゃな弟と可愛い妹とで、その処遇に差が出てしまうのは仕方のないことだろう。……こんなこと、ウィルドには口が裂けても言えないが。
そんなことを考えていたら、ステファンの後ろの扉が大きく開いた。噂をすれば……とは言うが、まさかウィルドまでこの場に現れるとは。
何となく二人は見つめあったまま、動かなかった。先に口火を切ったのはウィルドだった。いつにも増して大声だった。
「ステファン、悪い! 俺が悪かった!」
加えて珍しく、謝罪の言葉をも口にしている。
この異様な事態に、ステファンはいよいよ頭が混乱してきた。
「今度はウィルド? 本当、これは一体何の騒ぎ……?」
「家出するほど……いや、確かにそうだよな。ちょっと俺、配慮が足りない時あるし……」
「だから一体何のことなのさ。家出? 皆何か勘違いしてると思うんだけど――」
「ステファン、俺に怒ってるんだろ? 俺がこの前、お前の本を汚したから! いや、でも本当、ただのんびり優雅にお茶を飲むだけだったんだ。でもソファに蹴躓いて本に零しちゃって……。悪気はなかったんだよ! 許してくれ!!」
ステファンの頬がピクリと動いた。一か月前ほどに、居間のテーブルの上に無残な状態で放置されていた自分の本。お気に入りの一冊だっただけに、その後の意気消沈ぶりはなかなかのものだった。だからこそ、ウィルドも言い出せずにいたのだろうことは、容易に想像がつく。
「……まあ、正直に名乗り出てくれたから、良しとするよ。その辺に置いてた僕も悪いしね」
思わず怒りそうになるのを、ステファンは必死にこらえた。何故だか弟妹達も落ち込んでいるようだし、ここは一つ、自分が大人の対応を見せなければ。
ウィルドの顔に、一気に喜色が広がった。
「ステファン~! お前なら分かってくれると思ってたよ!」
「そういうのはいいから。今度からは気を付けてよ?」
「うんうん、気を付ける!」
「そういう所が心配なんだよな……」
適当な返事を返すウィルドに苦言を呈した。一度謝ってしまえばもう心残りはないのか、幾分かすっきりした顔だ。
「で、姉上は? いないようだけど。出かけてるの?」
「そうだ、母様!」
「そうね、急いで連絡しないと」
途端に弟妹達が叫び始めた。
「連絡って何を?」
「兄様が見つかったってことだよ。たぶん今は学校にいると思う」
「学校? それはまたどうして?」
「少しでも兄様の情報を得るために決まってるわ!」
当たり前でしょうとでも言いたげなエミリア。しかしステファンとしては、全くもって彼女が言いたいことが分からない。
なぜ皆がこうも嬉しそうなのか、こうも感激しているのか。
それが分かるにはもう少しかかりそうだ。
「急いで姉御の元に向かってください!」
詳しいことは全く語らずに、ただそれだけを鬼気迫った表情で伝えるエミリア。自分が言葉足らずであるということには、全く気付いていなかった。
「う……うん」
それに反抗できるステファンではない。とりあえず頷き、彼女が背を押すまま、先へと進んだ。
*****
いったい何がどうなっているんだとステファンは自問自答するが、もちろんそれで答えが見つかるわけでもない。仕方なしに彼は学校向かっていた。弟妹達は言葉足らずなので、姉に聞くしかない。
しかしそんな途中で、後ろからガシッと肩を掴まれた。こんな乱暴なことをするのはウィルドくらいしか知らない。今度は何だと思いっきり眉をひそめて振り返ったステファンは、呆気にとられることになった。想像もしなかった。オズウェルがそこに立っているなどと。
「な、何ですか……?」
彼は、困惑している様に見えた。というよりも、驚いている?
つい先ほどの弟妹達と似たような反応なので、いい加減ステファンはうんざりしてきた。
ステファンは、声に不審感が表れてしまうのを必死に堪えた。
「何かご用でしょうか」
「ご、ご用も何も……」
珍しくオズウェルはどもる。次に口を開いた時、彼は微笑を浮かべていた。
「良かった。無事だったんだな」
う、と思わずステファンは固まった。彼の笑みは本当に嬉しそうで、ステファンは戸惑うしかなかった。
「ぶ、無事って……」
「喜ぶな、あいつも」
あいつ。
瞬時に姉のことが浮かんだ。この団長がそんな呼び方をするのは一人しか思い浮かばない。ステファンはすぐに調子を取り戻し、今までの怒りを爆発させるがごとく捲し立てた。
「だから! あなた達は一体何のことを言ってるんですか!? 会う人会う人僕が帰ってきたことを喜んで! 訳が分かりません」
「ん? 何か事件に巻き込まれていたんじゃないのか?」
「事件? 何のことですか」
二人の間に、奇妙な沈黙が漂った。コホン、とオズウェルが咳払いをする。
「改めて聞こう。君は今までどこにいたんだ?」
「どこって……。友人の別荘です」
「家出、か……」
む、とステファンが唇を尖らせる。どこをどうとったら家出ということになるんだ!
「勝手に決めつけないでくれませんか? 友人の厚意で、静かに勉強したいという僕に別荘を貸してくれたんです。家に書き置きを残してきたので、もちろん家出でもありません」
「……そうなのか?」
ステファンはしっかりと頷いて見せる。
やっと話が通じた。
その第一人者がこの人であることは大層不満だったが、それでも大した進歩だ。
「あ、あの~」
しかしこれからというところで、弱弱しい声が割って入った。二人が振り返ると、軍手をしている男がへらっと笑った。
「僕、もういいですかね?」
「は?」
「いや、あの、こう見えて僕結構忙しくて――」
「ああ、すまない。話の途中だったな」
言いながら、オズウェルはその男に向き直った。
いや、こっちも話の途中なんですが……。
しかしそんなことを言えるはずもなく、ステファンはその場で辛抱強く二人を待った。
「単刀直入に聞こう。その眼鏡、あなたのものだろうか?」
傍目から見ても分かるほど、男の表情はさっと変わった。見る見る色が無くなっていく。
「な……なな、何のことか……」
「……直接聞いた方が早いな。よし、一緒に来てくれ」
「え、え? ちょ、どこに――」
「確認のためだ。勘違いだったら申し訳ない」
「は、はあー?」
途方に暮れた様な顔で困惑を示す男と、彼を引きづるオズウェル。置いて行かれると、ステファンは慌てて彼に声をかけた。
「ちょ、あの! 僕との話はまだ終わってませんけど!」
「話は後だ。君もついて来てくれ」
端的にそれだけ言うと、オズウェルはさっさと歩き出した。置いてけぼりを食らうのはもちろんステファン。
「ちょ、え……?」
ようやく話の通じるらしい人に出会えたらしいのに、彼は話は後だと言う。この理不尽さに、いくら温厚なステファンでも、そろそろ我慢の限界だ。しかしその間にもオズウェルの背中はずんずんと先へ行く。
「~~っ!」
元来の真面目さ故、彼のことを無視することができず、ステファンは散々迷った挙句、仕方なく小走りに彼の後を追った。




