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愛と鞭  作者: まくろ
第十二話 姉の噂を頭痛に病む
74/120

74:一人の時間

 さて、案外近くで優雅に暮らしているステファンはというと。

 昨日は夜遅くまで勉強を頑張っていたので、起床はいつもより大分遅かった。しかし目覚めは悪くない。


 何しろ、階下の騒がしい声に起こされることも無く、遅刻しそうなウィルドを急かすことも無く、寝坊した姉を慌てて起こすことも無く。


 こんなに穏やかな起床は久しぶりのことだった。

 誰に睡眠を邪魔されることなく、ステファンはベッドの上で何とも穏やかに目覚めた。外から聞こえてくる鳥の囀りが耳に心地よく、ステファンは思い切って窓を開けてみた。途端に身を切るような寒さが彼を襲ったが、それすらも心地よく感じられる。


 子爵家宅の周りにも小さな森があるが、今彼の目の前に広がる自然の数々の比ではなかった。丁寧に切りそろえられた木々に、彩りよく植えられた花々、それに、小さいが、立派な池も設けられている。さすがはジェイといったところか。性格言動共に、一見してそれだとは分からないが、こういう別荘を持っていることをいざ目の前にしてみれば、なるほど、確かに立派な商家の子息……のように見えなくもない、かもしれない。


「ステファン様、おはようございます。失礼してもよろしいでしょうか」

 扉の向こうから声がかかる。男性の声だった。


「あっ、どうぞ」

 ステファンは軽く腰を浮かす。その時になってようやく、自分が未だ寝間着姿であることに気が付いた。しかし着替える時間もなく、かといって隠れるところがある訳でもない。うろうろと無駄に時間を浪費した後、すぐに執事らしき男性がさっと扉を開けた。ステファンは少々居住まいの悪い顔をしながらも、彼を迎え入れた。


「おはようございます」

「おはようございます。こちら、お使いくださいませ」

「あ……すみません、わざわざありざとうございます」


 執事がテーブルに置くのは、洗顔用の水である。ご丁寧に、ひと肌ほどに温められているらしい。ボウルに水滴がついていた。


「朝食はどちらにお持ちいたしましょうか?」

「あ……っと、部屋までお願いできますか? 昨日と同じところだと、僕には広すぎて少し落ち着かないので」

「かしこまりました」


 再び深く頭を下げ、執事は去って行った。ふう、と思わず息を吐き出し、ステファンは柔らかいソファに座り込んだ。


 まさに使用人の鏡、とでも言うべきなのだろうか。

 この別荘に仕える使用人たちは、皆所作も言葉遣いも礼儀も心得ているようだった。たとえ、それが主人の息子の友人という、彼らには何の関わりもない少年であっても、である。


 しかしそれは、ステファンからして見れば少々もの寂しいことでもあった。笑みを浮かべてみても、きっちり礼を返され、世間話を投げかけてみても、帰ってくるのは社交儀礼だけ。いつも子爵家の騒がしい家族に囲まれている彼にしてみれば、この別荘は少々静かすぎるように思えた。


 極めつけは、昨晩の夕餉での出来事である。到着してからステファンが通されたのは、豪華な装飾の広い晩餐室だった。部屋の中央に大きなテーブルが置かれ、それを囲う様にたくさんの椅子が並べられていた。が、そこに座り、大量の料理を食べるのはステファン一人だけ。いつもならば、ウィルドのガチャガチャうるさい食事の音に、エミリアの世間話、フィリップの笑い声など、食事中は音が絶えなかった。それが、この場にはなかった。広い部屋に一人だけの食事。時々料理を運んでくる使用人も、どこか畏まっているようで、ステファンは落ち着かなかった。


 それなら、やっぱりこの部屋で一人で食事をとるほうがずっと楽だ。


 この部屋に食事を運ぶことで、使用人たちに余計な手間を取らせるのではないかとステファンは冷や冷やしたが、間もなく大量に運ばれてくる朝餉の数々を目にし、閉口した。昨晩、料理の数をもう少し少なくしてくれないかと頼んだのだが、聞き入れては貰えなかったようだ。貧乏性な彼としては、食べ物を残すのは嫌だが、しかしそのような駄々を捏ねているような量ではなかった。この時だけは、家からウィルドを借りて来たいと、ステファンは心からそう思うのであった。


*****


 その頃、ステファンの友人、ジェイ宅では。


 ジェイが御者に頼んで、馬車の準備をしてもらっている所だった。己の両親には内緒にしたいのか、こそこそと準備をしている。彼が目指す場所は、もちろんステファンのいる別荘。


 しばらくはステファンに別荘を貸し、勉学に集中させると豪語していた彼だが、二日と持たずに、もう既に暇になっていた。もう一人の友人ニールはというと、家族で隣国へ旅行へ行くらしく、忙しいと突っぱねられた。となると、否が応でもステファンの元に行くしかないではないか。


 ジェイは無理矢理そう納得すると、ニマニマしながら大きいリュックに荷物を肩に下げた。その様を見、御者はこっそりため息をつく。彼から先の一連の話は聞いていた。だからこそ、余計にそのステファンとやらが気の毒だった。勉強するために別荘を借りたのに、二日と勉強に励む前に、冷やかしにこのジェイ坊ちゃんが遊びに行くのだから。真剣にやっている身としては、いい迷惑だろう。それが、この彼には分からないらしい。


 とにかく、今はこの己の欲望に素直なお坊ちゃんの言うことを聞くしかないと、御者は首を振って御者台に乗り込んだ。しかしその隣に、覗き込むようにして少年がこちらを見上げていることに気が付いた。


「ひえっ!」

 思わず情けない声が上がったが、その少年は構わなかった。物珍しそうに馬と御者台とを交互に見ながら、後ろに頭を回した。


「ジェーイっ」

「ん? 誰か呼んだか?」

「俺俺、ウィルドだよ」


 気安い口調でその少年、ウィルドは口にした。心なしか、後ろの方で息を呑む音がしたような気がした。


「今からどこか行くの?」

「――っ!」


 今度こそはっきりと聞こえた。


 この主人の息子は、ウィルドとやらが苦手なのか?

 御者はそう推測すると、いつでも出発できるように、手綱をぎゅっと握った。


 ジェイの方も、慌てて馬車に飛び乗ったところだった。返事もせずに馬車に飛び込むその様は、どうみても妙な勘繰りを生むに決まっていたが、この時のジェイはそんなこと微塵も頭を過らなかった。ただひたすらに、ステファンの言葉を思いだし、自分のこのささやかな小旅行が台無しにならないことだけを祈っていた。


「あのさあ、ステファン――」

「知らない!」


 最後まで話を聞くことなく、ジェイは素速く頭を振った。彼は、自分が嘘が苦手だということをよく分かっていた。ウィルドにそれを見破られないためにも、彼とあまり長く話す必要はないと判断した。


「ごめんね、ウィルド。俺ちょっと今から用事があって――」

 さすが嘘が苦手だと豪語するだけある。ジェイの瞳はあからさまに泳ぎまくっていた。しかし残念、ウィルドの方はというと、ジェイの異変に気付くほどの観察眼は無いに等しかった。


「そっか……ジェイなら知ってると思ったんだけど……」

 そうしてウィルドは至極簡単に引き下がった。次に彼が顔を上げた時、もう馬車は走り始めていた。


「あ、ならさ、何か他に心当たりない? ステファンのやつ、行方不明でさ――」

「ごめんウィルド、俺本当に急いでて――! また今度話そう!」


 ガタゴトと盛大な馬車の音に掻き消され、ウィルドの声はほとんど聞こえなかった。馬車の窓から顔を出し、ジェイは大きく手を振った。あまりの忙しなさに、ウィルドはしばし呆然としながらそれを見送る。


 一方、ジェイは馬車の中でホッと胸を撫で下ろしていた。何とかバレずにすんだと、すっかり任務を遂行した気満々だった。


「坊ちゃん……いいんですかい? しばらく友人とやらを、勉学に集中させる予定だったんでは?」

 小窓から御者の小言が漏れてきた。ジェイはもちろん明るく笑い飛ばす。


「だって暇なんだもーん。ステファンだって、案外暇してるかもしれないし!」

「……それじゃあ何のために別荘を提供したのか分からないじゃあないですか」

「あはは、いいのいいの!」


 明るい笑い声を響かせながら、馬車はガタゴトとステファンのいる別荘へと向かった。その日の夕方には別荘につき、呆れた様な顔のステファンに出迎えられたが、しかし驚くべきことに、彼は意外と歓迎してくれるようだ。いつもより少しだけ嬉しそうな顔をしながら、一緒に夕餉を食べ、そして少しだけだが、一緒に辺りを散歩までした。


 ステファンがここまで俺を構ってくれるなんて……。

 しかし一日経過しても、その優遇ぶりが変わらないのは、さすがのジェイも訝しんだ。ステファンがこの別荘へ来てから、二日目の夜だった。


「何か……あったのか?」

「え、何で?」

「いや、昨日今日とやたら構ってくれるから。勉強は良いのか? ……俺が言うのもなんだけど」

「ああ……そうだね」


 実は今日、小さな池で釣りもした。なんと、まさかのステファンからの誘いだった。戸惑いながらジェイはこれを承諾したものの、今更ながらに不安になってきた。

 ジェイが躊躇ったように瞳を揺らすと、ステファンは観念したように息を吐き出し、顔を俯けた。


「なんかさ、ちょっと捗らなくて」

「勉強? 珍しいな」

「ちょっとここ、落ちつかないんだ。いや、別にここが悪いんじゃなくて、僕の問題。……僕の家っていつも騒がしかったからさ、ここはちょっと静かすぎるなって。自分でもよく分からないんだけど」


 珍しく、ステファンが弱気になって見えた、いや、実際に弱気なのだろう。そんな彼を見るのは、おそらく初めてで、ジェイは何と言ったものか悩んだ。そして咄嗟に出た言葉が。


「帰るか」

「えっ?」


 当然ステファンは聞き返した。慌てたように、言い訳をする様に、ジェイは捲し立てた。


「いや、そういう案もあるよーってことで。ほら、突然環境が変わったからやる気も削がれたのかもしれないし」

「いや、でもそれはさすがに。まだ数日と経ってないし、それに折角ここまで世話してもらったのに、そんな情けない理由で帰れないよ」

「でも自分にとって勉強しやすい所が一番じゃん」


 再び言葉が飛び出した。これにはステファンも思う所があったのか、うっと詰まった。そんな彼を見て、ジェイは少しだけ表情を和らげた。


「そんなに気負わなくても、ここへ来たのはいい気分転換ってことでいいじゃん。今回のことでステファンにとって一番勉強を頑張れるのは自宅だって、それが分かっただけでも十分だよ」


 ジェイが大人びて見える。

 情けない思いで縮こまりながら、ステファンがそんなことを考えていると、それを見透かしたようにギロッとジェイが睨んだ。


「で、どうすんの。家に帰るのか、帰らないのか。別に俺はどっちでもいいけど、でも俺に遠慮してここに残るとかだったら承知しないからな」

「…………」


 もう心は決まっていた。ジェイに相談した時点で、自分の中ではもう既に決着がついていたのかもしれなかった。しかし、自信が、勇気が無かっただけだった。


「家に、帰るよ」

 どこかすっきりとした表情だった。ステファンは続ける。


「折角いろいろしてくれたのに、我儘言ってごめん。この恩は絶対に忘れない」

「気にすんなよ。ステファンが合格してくれるだけで十分だから」

「……あはは、それは荷が重いな」

「何をー? ステファンなら全然行けるだろ」


 適当に言ってくれる。

 ステファンはそう思ったが、その気楽さが、今は有り難かった。


「じゃあ今から帰るか? 俺、荷物の準備してくるよ」

「いや、ジェイさえよけれは、帰るのは明日でいい?」

「俺は別にいいけど……何で?」

「いや、このままほとんど勉強せずに帰るのは、僕の矜持が許さない。一応明日の朝まで集中して頑張るよ」

「……そういう所が生真面目なんだから」


 片手を振って、ステファンは早速部屋に閉じこもった。別荘には後半日しかいられないが、しかしまだまだ楽しむ術はあるはずだ。残り少ないが、まだまだ楽しもうとジェイは意気込んだ。


「明日、か」

 しかしどうしても思い浮かんでしまうのは明日のこと。


 両親には内緒で家を出てきてしまった。

 家に帰ったら親に怒られるだろうなーと、ジェイは呑気なことを考えていた。正直なところ、家出だ誘拐事件だと騒がれているのはステファンの方なのだが、この時のジェイにはそんなこと思いもよらなかった。もちろんステファンだってそうである。こんなに早く帰ったら皆呆れるだろうなあなどと考えていたが、それがまさか、涙ながらの再会になるとはちっとも思っていないのである。

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