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愛と鞭  作者: まくろ
第十二話 姉の噂を頭痛に病む
73/120

73:長い一日

 学校の中はシンとしていた。休みなのだから、それはそうだろう。それこそ、何か物音でもしたら、物盗りでもいるのかと勘ぐらなければならない。


 会話をする必要性も気力もなかったので、廊下を歩くアイリーンとオズウェルは無言だった。それぞれ何か思う所があるようで、口は閉ざしたままだ。


 二人が目指すのは、薄暗い校舎の中で、唯一灯りが漏れている場所だ。当直の教師でもいるのかもしれない。その灯りは非常に小さかったが、いつまでも消えることは無かった。

 教師ならば、ステファンの様子や、彼の友人の家を教えてもらえるかもしれない。騎士団からは情報は得られなかったが、藁をも掴む思いでアイリーンがもくもくと歩いていた、その時。


「見つけた!」

 低い、しかしよく響く声が後ろからかかった。唐突なその声に、二人は面食らって振り返った。分厚い眼鏡をかけた男性が、こちらに向かって教鞭を突きつけていた。はあはあと荒い呼吸を繰り返している。


「ようやく見つけた……! あんた達ですねえ、私の眼鏡を盗んだ物盗りは! 全く、騎士団に通報――って、え?」

 男性は眼鏡の縁をくいっと上げると、目を細めてオズウェルをまじまじと観察した。見る見る顔が赤くなっていく。


「ああ、コホン、失礼しました。もう駆けつけてくださったんですな。これは助かります。で、物盗りは彼女で間違いないんですね? 早く眼鏡を返してください」

「――え?」


 男性は、やれやれと首を振りながら右手を差し出した。今度はアイリーンが素っ頓狂な声を上げる番だ。オズウェルが二人の間に割って入った。


「どういうことでしょう。物盗りが出没したんですか?」

「ええ、今朝早くにね。物音がしたから見に行ってみると、額縁やら私の眼鏡やら、他金品が少々盗まれていたんですよ。今から騎士団へ連絡しようとしていたところです」

「怪しい人物など目撃は?」

「いやいや、慌てて私が駆けつけた時にはもう部屋はもぬけの殻。全く逃げ足の速いことです。でもさすがは騎士団ですねえ。行動がお早い。連絡するよりも早く来て犯人を捕まえてくださるとは。いやいや、この国も安泰だ」


 うんうんと自分に酔ったように教諭は頷いた。否定する機会を失ってしまったが、ここはきちんと訂正しておいた方が良いようだ。というより、このまま汚名を被るのはアイリーンの矜持が許さない。


「失礼ですが、何か勘違いをなさっているようで。私は物盗りではありませんわ」

「は……? じゃあどうしてここに。彼に捕まったのではないのですか?」

「私はステファンの姉です。彼が昨日家に帰って来なかったので、どなたかこの学校の教師の方に話を伺いに来ただけです」

「じゃあこの方は? 騎士団の方ですよね?」

「彼女の付き添いです」

「……はあ」


 なぜ騎士が一介の女性の付き添いに?

 教諭は不思議でならなかったが、しかしすぐにそんなことはとんでいった。それよりも大切なことを思い出したのである。


「ちょっと! では犯人はどうなったんですか! 私の眼鏡を盗んだ物盗りは!」

「それについては後で話を伺いましょう。今はまず、行方不明の少年について――」

「まだ犯人は近くにいるかもしれない! 急いで他の騎士を動員してくださいよ! 私の眼鏡が盗まれて――!」

「あーもう!」


 いい加減、眼鏡眼鏡と繰り返すこの教諭にうんざりしてきたアイリーン。思わず大きな声を出した。


「眼鏡ならあなた今かけてるじゃないですか! そんなことよりもステファン! 今あの子行方不明なんです!」

「そんなこと!? そんなことと言いましたか!? これは私の予備の眼鏡だ! 盗まれたあの眼鏡はねえ、そんじょそこらの安物のそれとは全く違うんです! 作り手も、造りも、素材も何もかも一級品のものなんですよ!」

「眼鏡とステファンどっちが大切だとお思いで? 犯人はきっと騎士団が見つけてくれますよ! 今はあなたしかステファンについて話を伺える人がいないんです!」

「ご協力お願いします。盗まれた品については、私たちが尽力して探し出しますので」


 後押しするかのようにオズウェルが一歩前に出た。その風格と体格に、ひょろひょろの教諭は、もうそれ以上苦言を呈することができなかった。しばらく口をもごもごとさせた後、咳払いをして眼鏡の縁を直した。


「……で、何が聞きたいんですか」

「あなたはこの学校の教諭で間違いないですね?」

「……サルマンです」


 アイリーンはずずいっと身体ごと前へ乗り出した。


「私、リーヴィス=アイリーンと申します。私の弟のステファンをご存知でしょうか。この学校に通っているのですが」

「……ああ、はい、知っていますが。この一年は彼のクラスを受け持っているので。……するとあなた、ステファン君の姉か何か?」

「そうです。姉ですわ」

「はあ……そうですか」


 なぜか検分するような視線がアイリーンの身体を巡る。些か居心地が悪くなって、彼女は咳払いをしてそれを中断させた。


「では昨日ステファンを見ましたか? その時の様子などは」

「特に変わったところはなかったと思いますけどねえ。何しろ、一日に何十人もの生徒を見るわけですから、たかが一介の生徒に注意を向ける暇もない」


 アイリーンはムッとした顔を見せたが、何も言わなかった。その様子を肌で感じたのか、サルマンはふっと鼻で笑った。


「大方、家出でもしたんじゃないですか?」

「そんな訳ありませんわ。家出するにしても、書き置きを残すはずです」

「家出に書き置きを残す馬鹿がいるとお思いで? そう言えば彼は国立学校を狙っているそうですね。その重圧に耐えられなかったとか」

「そ、そんなこと……」


 家出の線は全く考えていなかった。ただ何かの事件に巻き込まれたのだと、その一心でここまで来たのだが、それすらも分からなくなってきた。事件に巻き込まれたのか、家出なのか。家出にしても、どうして書き置きや相談をしてくれなかったのか。


「あ……」

 アイリーンが思案に暮れていると、不意にサルマンが小さな声を漏らした。何か気になることでもあったのかと、再びアイリーンは身を乗り出した。


「何か思い出したんですか!?」

「あいつだ、ステファン君だ! ステファン君が私の眼鏡を盗んだに違いない!」

「……はあ?」


 アイリーンとオズウェルの声が重なった。その声は不信感に塗れている。


「彼はね、以前から私に反発を持っていたんですよ。時々彼から見下されたような視線を感じていました。きっと心の中で私のことを嫌っていたんでしょう。そうして今回、勉学の重圧に耐えられなくなって、つい犯罪を起こしてしまった。家族に顔を合わせる勇気もなく、そのまま姿を消した……と」

「失礼なこと言わないで頂戴! ステファンがそんなことするわけないでしょう!」

「そうですよ。そもそも眼鏡が盗まれたのはつい先ほどでしょう? ステファンが失踪したのは昨夜のことです。あなたの考えだと辻褄が合わない」

「じゃあ計画的に実行したんじゃないですか? もともと私の眼鏡を盗むつもりで、家にも帰らなかったと。ほら、そう考えれば辻褄は合う」

「無理矢理合わせないで! あなたの眼鏡を盗んで何の得があるって言うのよ!」

「だから、私への復讐のつもりだったんでしょう。それと、勉学への重圧に耐えかねて、と。……ああ、そう言えば彼は奨学生でしたね。盗品を盗んでお金を得ることも考えていたのでは?」


 カーッと顔に熱が集まっていくのを感じた。唇がわなわなと震える。予備の眼鏡を叩いてやろうかとすら考えた時、その声は、他の喧騒にも熱にも負けることなく、すっとアイリーンの耳に入って来た。


「一旦落ち着け」

 その声は、同じく緊迫感に満ちていたが、不思議と落ち着くことができた。相手に呑まれては駄目だ。彼女を落ち着かせ得る要素があった。


「おやおや、騎士団ともあろうお方が、中立な立場ではないようだ。そちらの肩を持つおつもりで?」

「いや、至って中立のつもりですよ。しかしどうにもあなたのその発想には無理があり過ぎる。犯人を見つけるのは私達の役目なのだから、どうか今はステファンについてご協力いただけると有り難い」

「……ふん、だから物を盗んで身を隠したに決まってると言ってるでしょう。物盗りの行方を辿って行けば、自ずとステファン君の行方も分かる」


 く、と唇を噛みしめながらも、もうアイリーンは何も言わなかった。代わりに長い息を吐き出して、心を落ち着かせる。


「ステファンについては、もういいです。他に……ステファンの友人、ジェイ君とニール君について何か知りません? 話が聞きたいんです。家がどこかご存知でしょうか」

「知りませんねえ。私達は生徒の個人情報を集める趣味はありませんから」


 サルマンはもうこちらに興味はないようだった。手元の長歩に目を落としながら、あからさまにため息をつく。


「もういいですか? 私、こう見えても忙しい身なので。こうやって休日を返上してまで仕事に励んでいるんですよ。とっととお引き取り願いたい」


 私だってもう結構よ!と叫び出したいのを必死に堪えながら、何とか頭を下げた。


「……ありがとうございました。今日はこれで失礼いたします」

 それだけ言うと、さっさとサルマンに背を向けた。これ以上彼の顔は見ていたくなかった。オズウェルも黙って頭を下げ、彼女の後ろをついて来た。


 校舎を出てようやく、アイリーンは一息ついた。学校に行けば何かわかるかも、という漠然とした思いはもう完全に消え去っていた。何か情報を得られるどころか、逆に気分が悪くなった。


「もう全然分からない……」

 思ったよりよわよわしい声が出た。


「一体ステファンはどこにいるの……。何か事件に巻き込まれていないか、それとも本当に家出なの……?」

「お前が信じなくてどうするんだ。ステファンは家出をするような性質か? 何か不満があるなら、すぐに直接言いに行くような性格じゃないか」


 なかなかに自分の言葉は説得力があると、オズウェルは自画自賛した。しかしそれもそのはず、彼は何もしていないにもかかわらず、会って数日のステファンに、姉には近づくなと釘を刺された身なのだから。姉に何かあると顔を般若の様にして怒る彼のことだ、自身の家族に何やら不満があるのなら、直接言うに決まっている。


 しかしそんな複雑な事情を今のアイリーンが理解できるわけもなく、ただ静かに項垂れるだけだった。


「……一人で帰れるか?」

 校門を出ると、躊躇いがちにオズウェルが切り出した。珍しくアイリーンが憔悴しているようなので、一応心配しているようだ。彼女は力なく首を振る。


「当たり前でしょう。そんなに柔じゃないわ」

「ならいいんだが。……それとそうと、先の物取りの話だが、何か心当たりはあるか?」

「何よ、あなたまで私達を疑うつもり?」

「早合点するな。ここに来るまでに誰か不審な人物は見たかと聞いたんだ」

「不審な人物、ねえ……。何しろ朝が早かったものだから、ほとんど人は見かけなかっ……あ!」


 唐突にアイリーンは短く叫んだ。


「何だ?」

「そう言えば、今思えばちょっと不思議……に感じるのだけど、今朝学校前で一人の男性に遭遇したの。ステファンのことで頭がいっぱいだったから、思わずこの学校に連絡を取る方法を訪ねたら、学校に一人くらいは当直がいるものだって、向こうに行けば少しだけ柵が低くなってるから通り抜けしやすいって教えてくれたの。親切な人だとは思ったんだけど……ちょっと不自然かしら?」

「そうだな……。決めつけるわけにはいかないが、その時間に散歩か……。学校に詳しいのも怪しい。どんな男だ?」

「暗くてよくは覚えてないけれど……確か、黒っぽい恰好だったわ。黒い外套に、黒いズボン。あ、手には手袋……軍手のようなものもしていたわね」

「そうか」


 オズウェルは手早く証言を手帳に記していく。そのペンの動きを見ていると、次第にアイリーンの胸に罪悪感が芽生えてきた。


「あ……親切に教えてださっただけかもしれないから、あんまり鵜呑みにしてもらっても……。もしかしたら全然関係のない人かもしれないんだし」

「大丈夫。節度は守るさ」


 言いながらも、彼のペンを動かす手は緩まらない。早計過ぎたかしらとアイリーンは少々落ち込んだ。何しろ、今朝のあの男性のおかげで、少なくともこの学校には何の手がかりもないことが分かった。それだけでも儲けものだ。もう二度とここへは来ずに済むのだから。


「こっちもステファンについての情報はかき集めてみる。何か分かったら連絡する」

「ありがとう。お願いします」


 再び振出しに戻ってしまった。今はとりあえず、家に帰ってみようとアイリーンは足を速めた。何の収穫もないが、いつまでも無用にエミリア達を心配させるわけにもいかない。


 足早に角を曲がろうとしたところで、誰かにぶつかりかけた。相手は反射神経が良いようで、さっと飛び乗った。アイリーンも転びそうなところを、すんでのところで踏みとどまる。逸る呼吸を落ち着かせて改めて前を見ると、なんてことはない、家で待っているはずのウィルドだった。思わぬ偶然に、二人はしばしば見つめ合った。


「あ……っと、師匠。まさかこんな所で出くわすなんて」

「私の方こそびっくりよ。まさか、家で何かあったの?」

「ううん、ステファンは相変わらず帰って来ないよ。エミリアとフィリップが留守番してる。そういうそっちはどうだったのさ?」

「こっちも全然駄目。学校に行ってみたけど、手掛かりは無し。一応騎士団に連絡はしたんだけどね。今はまだ何も情報は入ってきていないみたい」

「そっか……。本当、ステファンの奴どこに行ったんだろうね」

「何か事件に巻き込まれてなきゃいいけど……」


 またもや嫌な想像が頭の中を駆け巡る。こんなことばかり考えていては駄目だと、アイリーンは勢いよく首を振った。


「師匠、これから家に帰るの?」

「ええ、手掛かりはないし、一度家に帰って皆にそれだけ言おうと思ってたんだけど……」

「それがいいよ。俺、ジェイの所に行ってみるから」

「ジェイ君……って。ウィルド、もしかして家知ってるの?」

「うん、何度か遊びに行ったことあるから」

「私も連れて行って!」


 勢い込んでアイリーンは叫んだ。しかしウィルドは静かに首を振った。


「いや……俺一人で行ってくるよ」

「――っ、どうして? そんな訳にいかないわ、じっとなんかしていられないもの」

「師匠、昨日寝てないんでしょ? 家に帰って一旦休みなよ」


 穏やかに微笑むウィルドが、この時だけは何だか大人っぽく見えた。


「ステファンが心配なのは、俺も一緒だし。とにかく、この頼れる弟子に任せなさいって。じゃあ」

 大きく手を振って、ウィルドはさっさと駆けて行ってしまった。何だか拍子抜けした気分だった。


「……だから、私はあなたの何の師匠なのよ」

 そう呟きながらも、アイリーンはウィルドの背を見つめ、自身も子爵家に向けて歩き出した。


 ステファンが忽然と姿を消してから一日。

 彼は案外、近くで優雅に暮らしているとは、子爵家の面々にとっては、未だあずかり知らぬことであった。

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