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愛と鞭  作者: まくろ
第十二話 姉の噂を頭痛に病む
72/120

72:不法侵入

 壁時計の音だけが静かな居間に響く。夕餉はとっくの昔に食べてしまったし、フィリップやウィルドだってもう寝ている。深夜はとうに過ぎたし、外は静まり返っている。にもかかわらず、ステファンが帰って来ない。


「……どうしたんでしょうか」

 沈黙に耐えきれなくなって、ついにエミリアが口を開いた。本来ならば、もうとっくに寝ているこの時間。アイリーンがステファンを待つと言うので、彼女もここに残ることにしたのだ。


「分からないわ。何も聞いてないわよね?」

「はい。朝出て行くときも普通でしたし、遅くなるとも聞いていません」

「何かあったのかしら」


 今までにない事態に、アイリーンの胸は締め付けられた。

 ステファンは今まで、何も言わずに家を出たことは無かった。友人の家に泊まりに行くのはもちろんのこと、帰るのが遅くなる時、遊びに行く時すら一声かけてから出て行く。そのステファンが、無断で帰って来ない。嫌な想像をしてしまうのも無理はない。


「どうしたのかしら」

 再び声が漏れる。エミリアも黙って頷く。長い夜だった。


*****


 日が昇るとともに、アイリーンは行動を開始した。結局、ついにステファンは帰って来なかった。嫌な予感ばかりが頭の中を巡る。


 着替えて髪を結って財布を持って。そんな簡単な身支度だったが、逸る気持ちが動作に表れたのか、パタパタと騒々しくなった。テーブルの上で突っ伏していたエミリアが、その音にゆっくりと顔を上げた。


「ん……姉御……?」

 目を擦りながら小さく尋ねる。彼女の小さい肩から、毛布が滑り落ちる。


「あ、ごめんなさいね、起こしちゃった?」

「ううん、大丈夫です。それよりもどこかへ行かれるんですか……?」

「ええ、もうそろそろ学校も開くだろうし、行ってみるつもり。その後で騎士団に行ってみるわ」

「姉御、今日は学校はお休みです」

「…………」


 ぴたりとアイリーンの動きは止まった。しばしの沈黙の後、彼女は膝から崩れ落ちた。


「何のために朝になるまで待ったのよ~っ、もう!」

 頭を掻きむしり、思い切り嘆く。早く朝になれと気を揉んでいたあの時間が、今では恨めしい。


「とにかく、やっぱり今は学校に行ってみるわ。泊りの行事だとか何とかあるのかもしれないし」

「わたしも行きます」

「それは心強いけど、エミリアはここにいて。ウィルド達の世話をよろしく。二人が起きてきた時、誰も居なかったら余計に心配するでしょう?」

「でも……」


 なおも言い募るエミリアに、困ったような笑みを返した。


「すぐに帰ってくるから。ほら、エミリアがいないと、あの子たち、すぐに遊びに行っちゃうかもしれないでしょう? それは別にいいんだけど、もしステファンが帰ってきた時のために、一人は家にいてほしいのよ。できればその時、私にも伝えに来てほしいんだけどね」

「……分かりました。いってらっしゃい」

「はい、行ってきます」


 扉を開けると、遮られていた冷たい空気が身を切った。思わずブルッと身を震わせながら、朝靄の中を突き進む。日は昇っておらず、まだ辺りは薄暗かった。学校につくまで、ほとんど誰にも会わなかった。人気の少なさが、普段よりも身に沁みた。


 休みのせいか、学校の門は閉まっていた。周囲にはアイリーンの身長を軽く越すほどの柵が張り巡らされ、容易には入れないことが窺える。


「すみません」

 ようやく一人、学校に沿う様にして歩いてくる男性に出会った。アイリーンは藁にも縋る思いで、彼に声をかけた。


「何か? 急いでいるんだが」

 男は口早に言った。アイリーンから目を逸らし、遠くの方を見つめている。


「この学校の教員との連絡の取り方はご存知ないでしょうか? どなたでもいいんです」

「ん? うーん……」


 男性は困った様に頬を掻いた。


「だいたいは一人か二人、残っているもんじゃないかね、当直として。最近物盗りが多いらしくてね、たぶんこの学校にも誰か一人くらいは残ってるんじゃないか」

「あ……当直、そうですよね!」


 盲点だった。言われてみれば、慈善学校と違い、この学校は国が建てたものだ。管理もしっかりしているに違いない。中に入れば、一人くらい教師か警備の者がいるはずだ。


「もしかして中に入るのかい? もう少し向こうに行くと、ここよりは柵が低いから、そこから中へ入るといいよ」

「ありがとうございます! そうさせて頂きます」


 にっこり笑うと、すぐにアイリーンは走って去って行った。今は少しでも時間が惜しかった。


「……ふ」

 男は微かな微笑を浮かべてそれを見送ったが、彼女はもちろんそれに気づくことは無かった。


 そして件のアイリーン。早速門の目の前で立ち往生していた。立ちはだかる門に、そびえ立つ柵。彼女に諦めるという選択肢はなく、どうやってここを乗り越えよう、その考えしかなかった。


「よし」

 しかし今は何よりも時間が惜しい。

 心を鬼にして、アイリーンはスカートをたくし上げた。長いスカートのままだと思う様に動けない。そもそも、今は人通りが少ないのだから、誰が自分のこの品のない行動を目撃するというのか。ちゃっちゃっと越えてしまえばこちらのものだ。急いで目的を果たせばいいだけ。


 そう自分に言い聞かせながら、アイリーンは柵にしがみついた。しかしこの柵、足がかりになるところが少ないので、登るのも一苦労だった。もともと彼女は運動神経はあまり良くない。一生懸命登っては見るものの、傍から見れば、何とも虚しく足をバタバタさせているようにしか見えなかった。


「…………」

「あっ……」


 足が滑ってしまい、アイリーンは小さく声を上げたのち、そのまま地面に激突した。幸か不幸か、まだ地面からはそう離れていなかったので、腰への衝撃は小さかった。お尻への衝撃は大きかったが。


「…………」

「いたた……もう、何なのよ……」


 キッと柵を睨んでみるが、その高さが変わるわけでもステファンが帰ってくるわけでもない。歯を食いしばって、もう一度アイリーンは挑戦した。柵は未だ高くそびえ立っているが、手をかけ足をかけ、もう一度手をかけ足をかけ。上腕二頭筋をふんだんに使うその行為は、運動音痴である彼女にとっては非常に辛いものだったが、それでもようやく柵を乗り越えることができ、そこから地面へぴょんと飛び降りた。降り立った時に尻を強かぶつけてしまったが、構うものか。今のアイリーンは、達成感で溢れていた。


「や、やった、行けた――!」

 思わず拳を握り、振り返った。あのにっくき柵を自慢げに見返してやるためだ。しかし口から漏れ出た歓声は、次第に尻すぼみしていった。柵越しに、黙ったままこちらを眺めているオズウェルと目が合ったので。


「…………」


 いつから見ていたのだろう。

 なぜここにいるのだろう。

 なぜ何も言わないのだろう。


 アイリーンの中で様々な疑問が飛び交ったが、口を突いて出たのは。


「見ていたのならどうして助けてくれなかったのよ!」

「第一声がそれか! もっと他に言うべきことがあるだろ!」

「う……」


 オズウェルに激しい剣幕で怒られ、アイリーンはしゅんとした様子で頭を張り巡らした。


「……ど、どうしてここに?」

「それはこっちの台詞だ! 全くこんな早朝に何をやってるんだ!」

「べ、別に何も……。というよりそもそもね、何でこう間の悪い時に限ってあなたがやって来るのよ! 私に何か恨みでもあるの!?」

「そんなわけないだろ! 通報があっただけだ、学校に侵入しようとしている物盗りがいると!」

「うっ……」


 アイリーンは思わず押し黙った。確かに傍から見れば、今の彼女はただの不法侵入者。何も言い返すことができなかった。


「それにいつも口を酸っぱくして淑女だ淑女だと言っている割には、マナーの欠片もない。こんな所をそんな恰好で登るとは」

「あ、あなたに関係ないでしょう?」

「通報されたから俺が来たんだ。関係あるに決まっている」


 通報されたからと言って、どうしてこんなにも早くここへ駆けつけることができたのだろうか。つくづく驚異の速度だ。いったいどこの誰がこんなに早く騎士団に駆けつけ、そしてやって来る騎士がいるのだろうか? ……仕事熱心にもほどがある。


「――で、何があったんだ」

 思いがけず優しい声だったので、アイリーンは一瞬面食らった。しかし相も変わらずオズウェルはこちらを見つめたままなので、やがて彼女は観念し、口を開いた。もともと学校の後は騎士団に寄るつもりだったので、それほど抵抗もなかった。


「ステファンが、昨日から家に帰ってきていないの」

「……無断でか?」


 オズウェルは面食らったように聞き返した。アイリーンは頷く。


「ええ。エミリアたちも何も聞いていないって。だから何か知ってるか、学校に聞いてみようと思って……」

「なるほどな」


 オズウェルは顎に手を当て、しばらく熟考する。


「最後に弟を見たのは昨日の朝か?」

「ええ。それきり誰も見ていないの」

「――で、学校に忍び込むことにしたと」

「……だって、学校には当直がいると教えてもらったもの。それ以外に私、この学校と連絡を取る手段を知らないわ」

「…………」


 オズウェルは黙り込んだ。この様子では、騎士団にも何も連絡が来ていないのだろう。


 正直なところ、この学校でもあまり有益な情報が手に入れられるとは思っていなかった。何か事件に巻き込まれたとしても、最後の頼みの綱はやはり騎士団だった。しかしこれも駄目となると、いよいよ事態は振り出しに戻ってしまった。


 途方に暮れ、アイリーンは下を向いた。しかしその時、ずっと黙っていたオズウェルの口が動いた。


「行くか」

「え? な、何――」


 オズウェルは軽くそれだけ言うと、柵に掴まり、身軽にそこを飛び越えた。


 長い間私が奮闘していた柵を、彼はいとも簡単に乗り越えた。

 少々そのことが不満だったものの、それよりもオズウェルのその行動に、アイリーンは困惑するばかりだった。


「い、いいの? だって団長ともあろう方が、学校に不法侵入だなんて――」

「お前といるとな、どうとでもなれという気分になるんだ」


 ふっと笑みを浮かべる。アイリーンはその微笑に見惚れ――なかった。


「……それは褒めているの?」

「どうとでも取れるな」

「自分で言わないで」


 むっつりと口元をひん曲げた。オズウェルは軽く笑うと、さっさと背を向けて歩き出した。


「ほら、早く行くぞ」

「え、ええ……」


 戸惑いながらも、アイリーンは彼の後をついて行った。

 何だか不思議な感じだ。怒るでも諭すわけでもなく、一緒について来てくれるだなんて、今までの彼からは想像もつかない。


 ……でも少しだけ心強いかもしれない。

 決して口には出したくはないが、アイリーンはこっそりそんなことを思った。

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