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愛と鞭  作者: まくろ
第十二話 姉の噂を頭痛に病む
71/120

71:全ての元凶

「寒―い」

 ステファンが丁度別荘行きの馬車に乗っている頃、子爵家の扉が開かれた。白い息を両手に吹き付けながら、エミリアは一目散に家の中に入る。その後ろから、フィリップもついて行った。


「フィリップ、紅茶でも飲もっか」

「いいの?」


 寒さに耐えきれず、エミリアはそういった。暖炉によって部屋が暖まるにはまだ時間がかかる。その前に、体の芯から温まりたかった。


「大丈夫大丈夫。子爵家の台所はわたしが預かってるんだもの、バレやしないわ!」

 黒い笑みを浮かべながらエミリアリーはキッチンに立つ。薪は森へ行けば無料で手に入るが、紅茶はそうはいかない。だからこそ、何か特別な――それこそ、ケーキやお菓子を食べる時くらいしか出されないのだが、そこはエミリア。全て計算済みであった。


 湯を沸かし、ティーカップに注ぐと、その中に外で天日干ししておいたティーバッグを入れた。あまりに使い回し過ぎたティーバッグ。出来上がったそれは、もう紅茶というかただの白湯というか……。しかし子爵家の者は、その紅茶と呼ばれているそれをよく好んで飲んでいた。それはもう、この独自の紅茶に慣れ過ぎて、他所の家でたまに飲む本物の紅茶が不味く感じるくらいに。


 その事情を良く知っているクリフ。彼は、自身の家で紅茶をご馳走になると、いつも味が濃いと文句を言うウィルドに、もう何も言うまいと諦めてもいた。


 エミリアがお湯を沸かしている間、フィリップは、テーブルの上に置いてあった羊皮紙を手に取って見ていた。まだ少ししか字を習っていない彼は、何か文字列が並んでいたとしても、理解することができない。つまらなくなって裏を返せば、途端にフィリップの表情は明るくなった。そこには、最近できたらしい、洒落たお菓子店の案内が書かれていた。識字率があまり高くないこの街の住人にも分かってもらえるよう、色とりどりのお菓子の絵が描かれている。際限度の高いその可愛らしい絵の数々は、見ている者の食欲を誘い。


 フィリップは涎を堪えながら、一心にそれを見続けていた。


「あれ、フィリップ、それどうしたの?」

 エミリアがティーカップを二つテーブルの上に置いた。フィリップはにっこり笑ってそれを受け取る。


「ここに置いてあったんだ」

「ああ、中心街に新しくできたお店ね。いつも近くを通ると甘い匂いがするの」

「いつか行けたらいいね」

「そうね。姉御におねだりしようかしら」


 広告を横目で見ながら、エミリアはフーフーとカップに息を吹きかけた。


「……何だか、それを見ていたらお腹が空いてきたわ」

「……僕も」

「確か、戸棚に姉御が隠しているらしいお菓子があったのよ。それ、ちょっとだけ頂いていいかしら」

「いいと思う。ちょっとだけなら」


 フィリップがニヤリと笑った。腹黒いエミリアと共に生活しているせいか、近ごろ、彼はなかなかに彼女に似てきた。アイリーンがこの場にいたならば、きっと卒倒していただろう。


「確か……この辺に……」

 エミリアはごそごそと手当たり次第に探してみたが、目当てのものはなかなか見つからなかった。


「姉御、もしかしてもう食べちゃったのかしら」

「そうなのかな……。結構前からそこにあったよね。随分大切にとっておくんだなって不思議に思ってたんだけど」

「じゃあウィルド辺りが食べた……とか」

「有り得る……」


 思わず居間に沈黙が漂った。少し食べたのならいざ知らず、全部食べてしまったのならさすがに言い訳も経たない。つい先ほどまで自分たちも同じことをしようとしていたのを棚に上げ、二人はすっかりウィルドを犯人と断定し、彼の行く先を祈った。


 ――と、噂をすれば影が差すとはこのことで、騒がしい音を立ててウィルドが帰ってきた。騎士団で訓練をしてきたのか、あちらこちら泥まみれである。思わずエミリアは顔を顰めた。


「もう……泥くらい落としてきなさいよね」

「いいのいいの、このくらい。それよりお前ら何飲んでんだよ! 俺にも入れてくれよ」

「それくらい自分で用意してよ」


 エミリアは素っ気なく言った。折角のお菓子をウィルドが食べたのだと思うと、自然に態度が悪くなるのも仕方がないというもの。しかしそんな彼女を物ともせず、ウィルドは奇妙な笑い声を上げた。


「ふふ……いいのか?」

「何がよ」

「エミリアの領地が汚されるぞ?」

「…………」

「エミリアの監督が無かったら俺が何をしでかすか……分かったものじゃないな!」


 なぜかウィルドは胸を逸らして自慢げにそう言い放った。しかし彼にはそう言うだけの理由があった。


 ウィルドは基本不器用だ。言動に繊細さの欠片もないし、慎重に、冷静にやるということを知らない。全て自分の気の赴くままに行動するのである。その彼が、台所に立ったらどうなるか……。それは既に一度、実証済みだった。包丁で指を切るわ、包丁が落ちて床に刺さるわ、火にかけておいた鍋をひっくり返すわ、挙句の果てには蹴躓いて小麦粉を辺りにまき散らかすわ……。その時のエミリアの絶望っぷりは半端ではない。


「仕方ないわね」

 彼女は即答した。面倒くさいが、やらないわけにはいくまい。席を立って、準備を始めた。そんな彼女を尻目に、ウィルドも重い腰を上げた。


「でもなあ、折角紅茶を飲むなら、偶には贅沢したいよな……」

 そう言って彼がごそごそやりだしたのは、先ほどエミリアが漁っていたところと同じ戸棚。エミリアは呆気にとられた。


「もしかして……ウィルドが探してるの、ヒュルエル通りの焼き菓子?」

「え、知ってんの?」

「そりゃあもちろん……。姉御のだよね?」

「たぶんな。随分前からあるから、いつか食べてやろうって狙ってたんだ。でもおっかしいなあ、全然見つからない」

「それなら多分もう無いわよ。わたしだってさっき食べようと思って探したもの。ウィルドじゃないんなら、きっと姉御がもう食べちゃったんじゃない?」

「はあ!? そりゃないよ! 楽しみにしてたのに!」


 ウィルドは心底悔しそうに地団太を踏んだ。彼の食べ物に対する執着が簡単にわかる行為だった。


「でも仕方ないわよ。もともとは姉御のものなんだし。ほら、ここに置いておくからね」

 ことりとカップをテーブルに置いた。ウィルドは未だ、躍起になって戸棚を漁っていた。


「そんな……そんなのってないや! 楽しみにしてたのに、いつか絶対に食べてやろうって楽しみにしてたのに!」

「もう諦めてこっちに来なさいよ。折角の紅茶が冷めるでしょう」

「くっそ……くそ……」


 脱力したままウィルドはぼんやりとテーブルに近寄ってきた。あまりの落胆ぶりに、エミリアもフィリップも励ますのが面倒だった。


「~~っ、このままじゃ腹の虫がおさまらない! 師匠に一言言ってやらないと気が済まない!」

 考えなしに、ウィルドはダンっとテーブルに拳を叩きつけた。その衝撃に、ギリギリまで入っていたティーカップが倒れる。それは、テーブルの上一面に紅茶をまき散らしながらゆっくりと床へ落ちていった。パリンッと音を立ててカップが割れてようやく、三人はハッとした。


「ちょ……ウィルド、何してるのよ!」

「こっ、こんな所に置いてるほうが悪いだろ!」

「テーブルにティーカップを置いて何が悪いのよ! 床にでも置けって!?」


 テーブルの下を覗いてみたが、時すでに遅し。アイリーンお気に入りのティーカップは、粉々に砕けていた。


「……姉御、怒るわよ」

 エミリアはじとっとした目でウィルドを睨む。ウィルドは居心地が悪くなって、さっと視線を避けた、その先に。


「……あ、これなんか書いてあるっぽい」

「え?」


 先ほどの濡れたテーブルの上に、びしょ濡れの紙を見つけた。それは、表はただの広告だったが、裏には何やら書かれていたようだった。


「字が滲んで、よく分からないわね……」

「まあどうせこんな紙に書いたんだ、大した内容じゃないさ」

「そう思いたいだけじゃないの?」

「何をー?」

「二人とも落ちついて。今は床を片付けようよ。母様が帰ってくる前に――」

「いえ、もう遅いわ」


 振り返ると、疲れたような表情を浮かべるアイリーンが立っていた。サーっと血の気が引いていく。


「なに、この惨状は」

「…………」


 誰も何も答えられない。自然とエミリア、フィリップの視線が、事の元凶、ウィルドは向かうが、彼も一向に口を開こうとしなかった。アイリーンはため息をつく。


「いえ、今はそんなことを言っていても仕方がないわね。今はまずここを片付けましょう。ウィルドは塵取りと箒を。エミリアは雑巾を持って来て」

「……はーい」

「フィリップはこのカップたち、一旦キッチンに持って行ってくれる? 拭くのに邪魔になりそうだし」

「分かった」

「ああ……もう、床にまで零れてるし」


 ぐちぐち言いながら、アイリーンは惨状を確認していく。しかし、ふっとテーブルの上の、べたべたになった紙に目を止めた。何かの広告のようだが、見るからに汚らしい。そう判断すると、彼女は一瞬の躊躇いもなく、それをゴミ箱に投げ捨てた。この時の彼女の行動を見た者は誰も居ない。


 その後、次々と子供たちが戻ってきて、それぞれに手分けをして片づけ始めた。みな一様に顔色が悪く、無言だ。それもそのはず、アイリーンが先だってそうなのだから。


 ようやく掃除が終わると、エミリアは雑巾を洗いに、フィリップは箒を片付けに部屋を出て行ってしまった。動物的本能なのか、二人はきっとしばらく帰って来ない、とウィルドは悟った。この場には、にこにこと笑うアイリーンと、冷や汗を流すウィルドただ二人。


「ウィルド、これはどういうことかしら?」

 何ですぐに俺って決めつけるんだよ!と叫びたいところだが、残念ながらその通りなので何も言い返せない。


「床に粉々になっていたカップ、なかなかの年代物でね、売ったらそれなりの値段になるんじゃないかって思ってたの」

 一歩一歩とウィルドに近づく。その間、ウィルドは蛇に睨まれた蛙のように、さっぱり動けなかった。


「でもさすがにね? 私もそこまでがめついわけでもなし、ほかに人数分揃ってるティーカップもないから、それを一生ものと思って大事にしようと思ってたんだけど、ね」


 ついにウィルドの手前でアイリーンの足は止まった。大きく息を吸い込んで、そして――。


「ウィルド!」

 雷が落ちた。


「だからごめんってー!!」

 騎士になるため、最近は訓練を頑張っていたウィルド。不思議とそれに比例するように、言動にも落ち着きが見られ始めていたウィルド。


 そんなウィルドへ、その日は久しぶりに姉からの鉄槌が落とされた。

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