06:騒がしい出会い
その後もしばらく令嬢たちと談笑していたが、ちらほらと彼女らもダンスに誘われ始めていたので、一言断って離れることにした。その場にいれば、いつか自分もダンスに誘われるのかもしれないが、正直ダンスは厳しいと思った。ヒールの高い靴は履き慣れず、いつの間にか靴擦れを起こしていたからである。踵の赤い箇所が痛ましい。
壁の花となることも考えたが、常に衆目の目があることを考えると、少し一人になりたいと思った。それに、外にはあのボロボロの、しかし履き慣れた靴がある。
外の暗がりに行き、アイリーンはごそごそと靴を探した。可哀想に、誰にも盗られることなく、ボロボロの靴はまだそこに存在していた。ちょっとくらい盗もうとする人がいてもいいのにと少し虚しくなりながらも、アイリーンは壁に手をついて靴を履き替えようとした、その時。
「そこで何をしている!」
「――っ!」
突然男の声がしたので、アイリーンは驚いて体勢を崩した。
「あっ……」
何とかバランスを取ろうとするも、その甲斐なく彼女は尻餅をついた。鈍い衝撃が体に走る。しかもドレスの裾が膝まで捲れあがってしまったので、慌てて下ろす。
「招待客か? そこで何をしていた」
男は段々こちらに近づいてくる。
「べ、別に何も」
そう言ってそっぽを向いた先に、ボロボロの靴が目に入った。転んだ拍子に裾から飛び出してしまったようだ。
アイリーンは唇を噛む。仮にも自分は淑女。靴を履き替えようとしていたなど絶対に知られたくない。こっそりとその靴をドレスの裾の中に入れようと――。
「おい、今何を隠した!」
素早く近寄ってきた男に腕を取られる。
「なっ、離して!」
「何か隠しただろう」
「べ、別に隠してなんか――!」
「見せてみろ」
男は高圧的にアイリーンを見下ろす。
――何だか、無性に腹が立った。初対面なのにやたら偉そうなこの男にも、見知らぬ男に圧倒されている自分も。
アイリーンの本来の性格がゆっくりと首をもたげる。
「嫌です」
「何だと?」
冷たく言い放ったアイリーンに、同じく男も短く反応する。しばらく睨み合いが続いた。
「――というか、偉そうに命令しないでくださる? あなただって同じ招待客でしょう」
「たとえそうであったとしても、怪しい奴は見過ごせない」
「私にしてみればあなたのほうが怪しいんですが。未婚の女性の腕を掴んでドレスを捲れなどと」
「は……はあ!?」
想像した以上に男は慌てふためいた。
「別に捲れなどとは……そんなことは言ってない!」
「あらそうですか? 私にはそんな風に聞こえたのですが」
「断じて違う!」
再び男は怒鳴る。
「だから……何を隠したのか見せてみろと――」
「ほら、言ってるじゃありませんか」
「言ってない!」
何度も何度も近くで叫ぶので、アイリーンの耳は限界だ。思わず白い目で彼を見つめる。
「お前がドレスの中に隠したものを出すまで俺はここを動かないからな」
「聞き用によっては変態ですね」
アイリーンの聞き捨てならない台詞に、男は眉根を寄せたようだが、何も言わなかった。ただ黙って腕を組み、仁王立ちで彼女の前に立ちはだかった。
……ここで一言、ただ私は靴を履き替えようとしていただけです、とボロボロの靴とハイヒールを見せれば、彼も納得してくれるのかもしれない。性格は難ありだが、ただ生真面目なだけの様に見える。
しかし……しかしだ。
どうして私が譲らなくてはならないの!?
アイリーンは沸々と湧き上がる怒りを必死で抑える。もとはと言えば向こうが早とちりしたからこんな事態になったのだ。にもかかわらず、自分だけが恥をかいてはいお終いなどと許せるわけがない。
こうなったら、徹底的に交戦するしかない。
男は腕を組んで仁王立ち、女は扇子を構えてそれを睨み付ける。――一体何をやっているんだと傍から見ている者ならそう呆れるはずだ。しかし当人たちは自分の矜持を守るため必死だ。どちらも譲る気配などない。
そんな中、先に動いたのはアイリーンだった。夜会に赴く前、弟が言っていた言葉をふっと思い出したのである。
――揉め事は起こさないでください。
これは……明らかな揉め事ではないのだろうか。というか、今はまだ周囲の人に知られていないからいいものを、夜会も終盤にかかれば家路につく者も多くなってくるはずだ。そんな時に目に入る、この中庭。
暗がりに若い男女が居れば、それ相応の無粋な想像をしてしまうのは仕方がない。しかし、アイリーンはこのうるさい男の恋人として噂に上がるなどということは断じて許せない。絶対に否定してしまう。そうしたらこの男も反発して、みっともなく口論に発展して……大した揉め事になってしまいそう。
そんな嫌な想像をし、アイリーンはこの場を穏便に立ち去ることを考え始める。
そうだ、今回ばかりは姉として、何事もなくこの夜会を終えたい。今日は楽しかったわね、と弟と笑いながら家路につきたい。そのためにも。
できるだけドレスを動かさない様にしながらも、アイリーンは自らの足でハイヒールを探した。ふんわり広がったドレスの中でハイヒールとボロボロの靴とが転がっているに違いない。そう思ってのことだった。
淑女たるもの、男性に足を見せるなどもってのほかだ。しかも今の彼女は裸足だ。絶対にこの男の前で裸足を晒したくない。では、ハイヒールを穿いた状態ならどうだろうか? ハイヒールを穿き、コソッとボロボロの靴をその辺りに放り投げたら完璧だ。
ほら、私はドレスに何も隠していないでしょう? え? ボロボロの靴? 嫌だわ、それはもともとここにあったものです。そんな汚らしい物、私の物であるはずがないでしょう? ――で、私、何も隠してなかったわよね? この落とし前はどうつけてくれるのかしら? 淑女にドレスを捲れと迫った落とし前は。
完璧だ。
うんうん、と思わず頷きそうになる。内心ではこの男の悔しそうな顔を想像しながらなおもハイヒール探しを続行する。こそこそ、こそこそと。しかし目ざといこの男が、その様子に気付かないわけがなかった。
「動くな」
ピクッとアイリーンの肩が動く。
「ドレスの中で何をしている」
「別に何も」
場を沈黙が支配する。男が静かに動く気配がした。やっと諦める気になったか――とアイリーンが顔を上げるよりも早く、男は彼女のドレスに手をかけていた。
「へ、へへ変態!!」
「うるさい。大人しくしろ。確認するだけだ」
「人を呼ぶわよ!!」
「呼びたいのなら勝手に呼べ」
「な……なな!」
呆れ果ててもはや言葉にもならない。しかしそんな彼女を他所にドレスを捲ろうとするので、慌ててそれを阻止する。
しばらく頑固者同士の無言の攻防が繰り広げられた。傍から見れば何してんだ君らはと呆れられるだろうが、本人たちは必死だった。
アイリーンは次第に怒りが溜まっていた。変態にも程があるこの男。強引にも程があるこの男。生意気にも程があるこの男!
「っのおおおー!」
アイリーンは渾身の力を込めて足蹴をはなった。それは屈んでいた男の腹に見事に決まった。しかし、彼女の蹴りは、決して力を入れてはならないドレスにも影響を与えてしまった。詳しくは、アイリーンが昨夜頑張って継ぎ足ししたあの箇所――。
ビリッ……と無情にも無残な音が鳴り響いた。茫然とする女、苦しそうに腹を抑える男のそれぞれの目に、惨状が映った。破け散るドレス、広がる裾、真っ白な脚――。
「~~っ!?」
言葉にならない声を上げながら、アイリーンはドレスの裾を抑えた。ついでに男を睨み付けるのも忘れない。
「……裸足……?」
「あ……足が痛かったから靴を替えようとしていただけだったのに、それをあなたが……!」
「そ、それならそうと言えばよかっただろ!」
「…………」
それなら……そうと……?
考える暇もなかった。気づけば扇子を持った手が動いていた。
バッチーンと辺りに盛大な音が響く。
「な……何するんだ!!」
「それはこっちの台詞よ! 謝ったらどうなの!?」
「謝る? どうして俺が」
「も、元はあなたのせいで、こんな……こんな!」
「謝ってほしいのはこっちの方だ! 扇子なんかで打ちやがって!」
「あらごめんなさい。あなたの頬なんて触りたくもなかったのよ!」
「何だと……!?」
男は怒りに震える。それをアイリーンは見下すように笑う。
「誰だってあなたみたいな変態に触りたくないわ」
「ああそうだな。俺もお前の平手を食らうよりはよっぽどマシだった!」
「あら、喜んでもらえて結構。じゃあもう一回やりましょうか」
「黙れ!」
互いに一歩も譲らない応酬が繰り広げられる。しかし戦いの渦中にいる二人は気づかなかった。彼らの声が、辺りにひどく響き渡っていることに。何だなんだと次第に野次馬が増えていることに。
「姉上!!」
遠くから慌ててステファンも駆け寄ってきた。その表情はどことなく呆れていた。しかし近くに行ってみてすぐに気付く。姉の惨状に。
「姉上! 一体どうしたんですか!?」
「べ、別に……だってこの男が――!」
「落ち着いてください姉上。皆見てますよ」
その言葉にハッとして周囲を見渡す。
先ほどは人の気配など全くなかった中庭だったが、騒ぎを聞きつけたのか、招待客たちが皆、好奇な目で三人を見つめていた。慌てて彼女は足元を隠した。
ステファンもすぐに上着を脱いで彼女の足に掛ける。
「一体何があったんですか?」
念のため姉に問いかけるが、彼女は頑固にも口を開こうとしない。しかし、人気のない中庭でドレスが破れている女性と口論する男性。誰がどう見ても事の成り行きは理解できる。
「姉上と何があったのかは分かりませんが――」
男に向き直るステファンの瞳は冷たい。
「追って話し合いましょう」
気のせいではない、声は冷静だが、しかしその瞳は完全に目の前の男を蔑んでいた。
「いや、誤解だ!!」
男はその視線の冷たさに、すぐに否定の言葉を口にするが、彼に背を向けたステファンは振り返らなかった。アイリーンも冷たく彼を一瞥し、弟と共に去って行く。それが余計に周囲を好奇心を煽ってしまった。
ヒソヒソと互いに話をする声が聞こえた。ついに色に狂ったか、などという失礼な言葉まで耳に入る。
「そんな人だとは思わなかったわ」
誰かがついにその言葉を口にした。男はまだ決着のついていない――というか、野次馬によって強制的に決着がつけられそうになっている――アイリーンの背を力いっぱい睨み付ける。言いたいことは山ほどあるが、何しろここは人の目が多すぎる。悔し紛れに唇を噛むので精一杯だった。しかしその様は更に周りの想像を膨らませる。
「あの男に近づいたら食われるぞ!」
幸か不幸か、その声は男の耳には届かなかった。