51:団欒
オズウェルがすっかり動けるようになったのは、それから十日も立たない頃だった。それも唐突に。
朝居間に入ったら、オズウェルが平然と椅子に座っていたので、子爵家の者たちは当然腰を抜かした。今までベッドに横たわって弱弱しい姿だったのが、唐突に目の前で平然としている姿を見せつけられたのだ。驚きも一塩である。
ウィルドなんかは、オズウェルの姿を目にした途端、うるうると瞳に涙が浮かんでいった。目の前で血だらけになった姿がよっぽど堪えたようだ。ぴんと立っている姿を見るだけでは飽き足らず、よろよろと近寄ってその身体に手を這わせる。なでなで、なでなでと。始めはオズウェルも目を細めてこれを受け入れていたが、やがてあまりにも長すぎる感動の対面に、居心地悪そうな声を上げた。
「もう、いいか。俺は元気だから。心配かけたな」
「うん……うん……!」
「ウィルド、オズウェルさんが苦しそうだよ」
「うん……」
フィリップの声に、些か名残惜しそうにウィルドは離れた。オズウェルはホッと息をついた。
「もう大丈夫なの? 怪我は痛む?」
「いや、もう随分楽になった。看病ありがとう」
「そんな、元はと言えば俺のせいなのに。全然、全然いいよ!」
「はいはい、感動のご対面はもう少し後にしましょうか。エミリアの料理が冷めちゃうわ」
パンパンとアイリーンが手を叩く。皆は揃って席に着いた。温かい湯気がもくもくと立ち上がる鍋からは、程よく食欲を増進する匂いも立ち込めている。
「お前は料理しないのか?」
オズウェルは不思議そうにアイリーンに向いた。ひくっと彼女の頬が動く。余計なお世話だ!という言葉が頭の中を飛び交うが、仮にも子供たちの手前、怪我人相手にそんな言葉づかいができるわけもない。
「私は……その、食べる専門よ。エミリアの方が料理上手なの」
「…………」
何も言わなかった。何も言わなかったが、その顔は馬鹿にしている様に見えた。鼻で笑ったように見えた。アイリーンはテーブルの下でオズウェルに蹴りを放った。脛に当たったようで、彼は涙目になったが、何も言わなかった。怪我人相手に何をしているのか、と怒る元気までは無かったのである。
「でも本当に良かったよ。ずっとこのままかと思ってた」
「世話になったな。こうして動けるまで回復したのも皆のおかげだ。ありがとう」
「団長さん、もう行っちゃうの?」
「ああ、いろいろと仕事も溜まってるだろうしな」
「ウィルド、引き留めちゃ悪いよ」
ステファンがどことなく嬉しそうに言う。怪我人とはいえ、若い女性と男性が一つ屋根の下で暮らしているのが、彼にとって懸念材料だったようだ。
誰かに知られてしまったら、それこそどんな噂を立てられるか分かったものじゃない……!
「その身体で仕事するつもり? 余計傷口が開くわよ」
しかしそんな弟の心境も露知らず、姉が口を挟んだ。フィリップもうんうん頷く。
「……そうだよ。安静にしていないと治るものも治らない」
「そうそう。怪我人なんだからもう少しここにいなよ!」
ウィルドは元気に言うが、それでもオズウェルの顔は晴れない。団長としての義務と責任を感じているのかもしれない。エミリアはカップをテーブルに置き、オズウェルを見つめた。
「……それに若い男性が家に居てくれるというのはとても心強いことですわ。オズウェルさんさえここにいてくれれば、わたし達はすっごく安心できるんです」
「僕じゃ頼りにならない?」
素早くステファンが口を出してきた。その表情は固い。
「そ……そそ、そんなことは誰も言ってませんわ。ただ、兄様……と、オズウェルさんがいてくれれば、安心感も倍増と言いますか」
何だかステファンの顔が恐ろしいので、エミリアの声はどもった。
「ふーん……。僕だけで十分だと思うけど」
「ま……まあまあ! とにかく、しばらくは団長さんにも休養が必要ってことで!」
珍しくウィルドが仲裁に入っている。触らぬ神に祟りなし。こういう時のステファンほど面倒臭いものはない。
「……皆、それよりも急がないと学校に遅れるよ」
フィリップも援護に回った。瞬時にエミリア、ウィルドが頷き、それぞれ慌ててスープを口に流し込んだ。ウィルドなんかはそれだけで飽き足らず、両手にパンを抱えて立ち上がる。
「じゃあわたしたち、もう行きますね!」
「行ってきます」
「団長さん、本当にもう少しゆっくりしていってね。怪我人なんだから!」
「ああ、そうさせてもらう」
子供たちは次々に手を振って家を出て行く。ステファンも重いため息をつき、席を立ちあがった。それを皮切りに、ようやく先ほどまでの剣呑とした雰囲気が消え去り、いつもの彼が戻ってきたように見えた。
「じゃあ僕もそろそろ行ってきます」
「気を付けてね」
「はい」
しかし、扉の向こうへ消えていった――と思ったらまたすぐに彼は顔を出した。その目はどこか鋭い。
「節度を守ってくださいね」
「節度? どういうこと?」
「こちらの話です」
大方、姉と男が二人っきりになることを危惧したのだろう。ステファンの瞳は真っ直ぐに自分の方へ向いている。
オズウェルは胃がキリキリと痛んできた。どうしてあの弟はこれほどまでに自分に敵意を向けてくるのだろうか。さっぱり分からなかった。それに怪我人がこの女性相手にどうのとは、それこそできるわけもない。
「分かった。こっちも怪我人だ。妙なことはしない」
「ならいいんですけど。では姉上、行ってまいります」
「行ってらっしゃい」
扉が完全に閉まってからようやくオズウェルは一息つくことができた。あの弟はどこか油断ならない。気を抜いていると、背後を取られそうだと思った。
アイリーンの方は、一息つく間もなく食器を洗い始めた。今日も洋裁やら家庭教師やら仕事が詰まっているのである。
「……皆学校か。大変だな」
「私ももうすぐ出かけるわよ、仕事だから。お願いだから大人しくしていてよ」
「仕事? 仕事しているのか?」
さも不思議そうにオズウェルは尋ねる。
「当たり前でしょう。どうやって子爵家の家計が回っていると思って」
「何の仕事だ? 正直なところ、お前が接客や事務やらしている姿が想像できない……」
「失礼ね、これでも立派に働いているわよ。家庭教師と、あと最近は洋裁店でも」
「きょ、教師……? 裁縫……?」
「何よ、また想像できないとでも言うつもり?」
「ご名答」
得意げにいうオズウェルに、アイリーンはもはやかける言葉もない。食器を洗い終えると、さっさとソファへ行って昨夜やりかけの繕い物を手に取った。先日、モリスの所からまた大量の注文書が届けられたのである。ドレスやら小物やら、その数は二十点以上。何日かかるか分かったものじゃない。加えてドロシアは少しでも自分の気に食わないところがあるとやり直しをさせる。今でも十分丁寧にやっているのに、その上で再びやり直しをさせるなんて、鬼以外の何物でもない。
しばらくは熱心に裁縫に注意をやっていたが、やがてその手は止まった。疲れたのではない。後ろの気配が気になって仕方がないのである。
「何よ、何か用? 緊張するんだけど」
「上手いもんだな」
「でしょう。何年服を繕ってきたと思って?」
褒められた途端、アイリーンは手のひらを返した。単純だ。
「しかし……そういえば、あの夜会の夜も変なドレスを着ていたな」
「へっ……!?」
思わず声が裏返る。
「変なドレスですって? あれは徹夜で仕上げたドレスよ!? 失礼なことを言わないでちょうだい! あの夜仲良くなった女性たちに素敵なドレスねって言われたんだから!」
「社交辞令という言葉を知らないのか」
「なっ、なな、何ですって!!」
鼻息を荒くしてアイリーンはついに背を向けた。
こんな人いつまでも相手にしてられるもんですか! 私にはやるべきことがあるんですからね!
しかしその視線の先にとあるものが目に入り、途端に彼女は意地悪な表情になる。
「あーあ、そんなことを言うのなら直さなければよかったわ」
「直す?」
「これよ、これ」
席を立ち、自慢げにそれを見せびらかした。誰かさんの騎士の服だ。先日の戦闘の最中に浴びた返り血や自身の血、敗れた箇所などをせっせとアイリーンが手入れしたのである。
「捨てても良かったのだが」
しかしその当人の反応がこれ。
「直した人の目の前でそれを言う!? 信じられないわ!」
アイリーンはわなわなと震えると、バシッと服を床に投げつけた。少々マナーがなっていないが、そうなるのも仕方がないのかもしれない。
一方でオズウェルの方は、思わず口から飛び出した己の言葉に困惑していた。あまりに酷い有様だったので、まさかすっかり綺麗になって目の前に現れるとは思っても見なかったのである。
しゃがみこみ、改めて騎士の制服を手に取る。刃で破れた箇所は綺麗に縫い合わされているし、血液のどす黒い染みは綺麗にとれている。感心しながら、思わずといった様子でオズウェルはそれに腕を通した。
「……なかなかの腕だな。むしろ前以上に着心地が良い。ボタンが取れてたりほつれがあったりしたんだが、それも直してくれたんだな」
「ま、まあね」
「ありがとう」
「…………」
居たたまれなくなってアイリーンは下を向いた。
まさか礼を言われるとは思っていなかったので、言葉に窮したのである。
「別に、ついでだし」
「大切にしよう」
「……本当にね」
何か言おうと口を開くが、すぐに止める。
「何だ?」
「……何でもないわ。とにかく家で大人しくしていることね。私は仕事に行ってくるから」
先ほどまで熱心にしていた裁縫一式をそのままに、アイリーンは部屋を出ていった。どこか彼女の顔は浮かなかった。




