44:チケットの行方
アマリスが一人で経営している花屋は、基本常に営業している。それは、休むのが惜しいとか経営が困難だとかそう言うのではなく、単に休むよりも働いて誰かと話していたいという彼女の本心からによる。誰もそれは疑わなかった。むしろそう言われれば納得だ。
だからこそ、子爵家の面々はいつでも彼女の店へ立ち寄ることができた。家庭教師の仕事の合間や学校帰り、ほんのちょっとした休憩でも彼女は大歓迎してくれる。アマリスは常に話し相手を欲しているのである。
今だって、彼女とアイリーンの距離は、相手の顔を判別できるかできないかくらいの距離だ。にもかかわらず、アマリスの話し相手探知機は、ビビビッと目ざとくアイリーンを探知したようである。辺りに響く大きな声で呼びかける。
「おーいアイリーン! 久しぶりだねえ!」
つい一週間ほど前にも会ったばかりだ。そう言えば、三日会わなかっただけでも同じような台詞を言われたことがある。一体彼女の頭の仕組みはどうなっているのだろうかと、つくづく不思議になるアイリーンだ。
「今日はどうしたんだい? こっちに来るなんて珍しいね。何か相談事でも?」
「ええ、ちょっとお話がありまして」
「なになに、恋の相談ならいつでも受け付けるよー?」
アマリスはニヤニヤと笑う。何を邪推しているのかは分からないが、何分アイリーンも忙しい身なので、渡すものだけ渡そうとサッとチケットを取り出した。
「これ、今度私が出る劇のチケットなんです。よろしかったら貰ってくれませんか?」
「へえ、アイリーンが出る劇の……」
アマリスが固まる。
「って、え?」
「私が出る劇のチケットです」
「…………」
アマリスの口が止まることなど、一年に一回あるかないくらいだ。非常にその姿が物珍しく、アイリーンはしげしげと観察した。
その止まっていた口は、ようやくゆっくり動き出し、その動きからは想像もできない大声を発した。
「なに……何だって!?」
アマリスは大袈裟な動作で後ずさる。
「アイリーンが演劇!?」
「そんなに驚かなくても……」
「いやいやいや! 驚くに決まってるだろ!? はー……あのアイリーンが演劇……。そもそもアイリーン、芝居できるのかい?」
「……できますよ、たぶん」
しっかりと肯定できないのが寂しい所だ。昨夜も般若のようなモリスにビシバシしごかれ、内心では落ち込んでいたところなのに。
「とにかく話を元に戻しますけど、チケットをたくさん頂いたのでアマリスさんにも貰ってもらおうかと――」
「はい? あたしに!?」
「だから何でそんなに驚くんですか……」
「いや、だって!」
両手を必死に振りながら、アマリスは同時に首をも左右に振る。
「そもそもさ、アイリーンの初舞台何だろ? ならチケット代くらい払わせてよ」
「初舞台って……。別にこれ一回きりですからね?」
「え、劇団に所属するんじゃないの?」
「いくら何でもそれはさすがに。今回の劇だけにちょっとだけ出演するだけです」
「だからって凄いことじゃない、凄いよアイリーン!」
瞳をらんらんと輝かせてアマリスが迫る。素直にここまで喜ばれると、アイリーンも嫌な気はしない。
「で、いくらなんだい?」
「いえ、だからこれ無料で頂いたものなので――」
「払わせてよ!」
話を聞いてください。
アマリスは財布をも取り出した。気が早い。
「だからですね、本当、これ自体無料で頂いたものなので、私が代金を頂くわけには――」
「この劇ってどこでやるの?」
「は?」
「どこでやるの?」
「……ラヴィール通り、ですけど」
「分かった。アイリーン、店番頼むよ!」
「って、はい!?」
ニカッと笑うと、アマリスはエプロンを素早く外し、財布を手に走り出した。行動が早い。
「アマリスさん! ちょ、だからこれあげますって――」
「いやいや、折角だから買わせてもらうよ! それは誰か他の人にあげな!」
「アマリスさん!」
大きく叫んだが、それ以上振り返ることをせず、アマリスは颯爽と走って姿を消した。足も速い。
茫然とアイリーンはその姿を見送ったが、やがて首を振って椅子に倒れこんだ。彼女がどんな思考回路をしているかなんて、考えだしたら負けだ。それは彼女自身しか分からない。
しばらくボーッと店番をしていたが、その間、お客がやって来ることは無かった。とは言っても、お客が来たとしても自身が接客をきちんとこなせる自信は無かったので、有り難いことだったのだが。
アマリスは、それからしばらくして帰ってきた。ぜーぜーと呼吸を繰り返す彼女の額には、汗が光っている。
「あは、良かった。買えないかと思ったよ」
アマリスは嬉しそうにチケットをひらひらと振った。何だかこちらが恥ずかしくなってきた。
「……何もそこまでしなくても」
「アイリーンの初舞台なんだ、折角ならお金払ってでも見たいと思うのが親心だろ?」
「……あら、アマリスさん結婚は諦めたんですか?」
「言うな! まだ諦めてないから、目下良い人探し中だから!」
だんだんとその場でアマリスは足踏みをする。彼女は一緒にいても楽しい人だし、何より底抜けに明るい。なぜ誰も彼女に言い寄らないのだろうとアイリーンは不思議でならなかった。もしかしたら、言葉も行動も大雑把なアマリスは、男性からの言い寄りに気づいていないだけかもしれない。
「良い人が現れたら、私たちにも紹介してくださいね」
「……現れたらね」
すっかり意気消沈してアマリスは小さく言った。
*****
それから少しの間、アマリスと話をして、アイリーンは店を後にした。どんな劇をやるんだ何の役をやるんだと、好奇心旺盛なアマリスの質問は矢継ぎ早に繰り返されたが、それをようやく遮っての脱出だった。
家庭教師の仕事はもうないが、この後もドロシアから課された課題や依頼をやらなくてはいけない。そう思って足早に人ごみを抜けていた時。
「おい」
始め、自分が呼びかけられているとは思わなかった。
「ちょっと」
右腕を掴まれ、ようやくアイリーンは振り返った。
「あ」
「この前の財布の件はどうなった。ちゃんと戻って来たのか?」
幾分か気まずい思いで、オズウェルはアイリーンの腕を離す。
あれからしばらく経ったが、彼の方も少々反省していた。いくら子爵家のごたごたに巻き込まれたくないと言って、あそこで見て見ぬ振りはさすがに騎士団長としての行動ではなかった。そんな時、人ごみにちらちらアイリーンの髪が垣間見え、思わず声をかけてしまったという訳である。
「財布?」
一方でアイリーンはおうむ返しに聞き返す。そしてその瞬間はたと気づいた。そういえば、騎士団に盗難届を出していたくせに、あれから報告も何もしていなかった。
「ああ、ごめんなさい。伝えるのを忘れていたわ。その件についてはもう大丈夫。きちんと手元に戻って来たから」
「少年が盗んだ……とか何とか言ってなかったか?」
「気のせいじゃない?」
人込みを避け、二人は路上の隅に身を寄せた。
「見回り中?」
「ああ、これから詰所に戻るところだが」
「あ……ちょっと待って」
踵を返したオズウェルに、アイリーンは思わず声をかけてしまった。訝しげな顔をする彼に、更に言葉を濁す。
「あー……その」
「何だ」
「チケット、いる?」
「チケット?」
なかなか貰い手のいないチケットは、もう随分よれよれだった。こんなことなら封筒か何かに入れておけばよかったと今更ながら後悔する。
「ラヴィール通りに大きな劇場があるでしょう? そこで今度劇が開かれるのよ。もし良かったらいらないかなと思って」
自分が出演することは口に出さなかった。弟妹達にもアマリスにも大変驚かれたのだ、この団長殿にそれを言ったら何と言われるか分かったものじゃない。
「この前はカフェで奢ってもらったでしょう? あの時のお返し……と言ったらなんだけど」
「気にしなくてもいいと言っただろう」
「それでも私は気になるの! 黙って受け取ってよ」
折角の厚意なのに、とアイリーンが唇を尖らせると、ようやくオズウェルはそれを受け取った。
「あ……一枚でごめんなさいね。もう一枚あったらマリウスさんにでも、と渡せたんだけど……」
「本気で言ってるのか? 男二人で劇なんて言ったらそれこそ噂がどうなるか……」
オズウェルは頭を抱えた。珍しくからかう気にもなれず、アイリーンは苦笑を返した。
「でもそう言えばその噂、結局どうなったの? ちゃんと誤解だって分かってもらえたの?」
「知らん。もとはと言えば俺もマリウスから聞いたんだ。ったく、どこからそんな情報を仕入れてきてるんだ……」
「それは……どうもご愁傷様で」
今度こそ返す言葉もなく、ただそれだけ言った。
騎士団隊長としてこの街を警備してくれているのに男色疑惑とは。
つくづく可哀想な人だとアイリーンは同情した。
しかし彼女は知らない。
新たな噂、子爵令嬢アイリーンと警備騎士団長オズウェルとの恋仲疑惑が発生していることに。
噂の火種は多い。いつだったかの夜会の件に加え、二人連れだって歩く姿や、家族も交えてカフェで仲良く休憩する姿、今だって何やら親密そうに話す姿が新たな誤解を生んでいる。
その火種が燃え上がるのはいつの日か。
果たしてオズウェルは、再びマリウスからその情報を手に入れることになるのだろうか。
それは神のみぞ知る。




