43:遅い帰宅
夜の帳が降り、辺りに人っ子一人いない頃。ウィルドはコソコソ家路を急いでいた。ついクリフの家に長居してしまったのである。やたらクリフはアイリーンのことを話題に出し、早く帰った方がいいんじゃないかと口を酸っぱくして言っていたが、ウィルドは聞く耳持たなかった。そのせいで起こった惨事である。何故もっと早くに帰らなかったんだと今では後悔しかない。
しかし、そうだとしても、子爵家から誰も迎えが来ないのは少し不思議だった。ウィルドが遊びに夢中になり、帰る時間を忘れるのはしばしばあったが、その時は必ずアイリーンかステファンが迎えに来てくれた。それが、今日は無かった。いや、別にそれが寂しいとかそう言うんでは決してないけど!
「ただいまー」
元気よく扉を開ける。つい先ほどまでコソコソしていたのが嘘のようである。というか、単純なウィルドは、今の時間が帰宅時間よりも大分遅いということをすっかり忘れているだけだった。
「あれ、フィリップ一人?」
呑気に居間へ向かうと、そこにはテーブルで本を読んでいるフィリップしかいなかった。素早く部屋を見回してみたものの、アイリーンはいない。ホッと胸を撫で下ろしながらソファに座った。
「うん。兄様たちは買い物してて、母様は……まだ帰ってない」
「あ、そっか。そういえばこの前帰りが遅くなるとかなんとか言ってたなあ」
してやったり、とウィルドは笑みを浮かべると、ぐでーんとそのまま寝っ転がる。アイリーンがいないのならば、少しくらいダラダラと過ごしても大丈夫だろう。フィリップの咎めるような視線は感じながらも、ダラダラは続行だ。クリフの家でお土産として持たされたレモン風味の揚げ菓子を取り出すと、バリバリと食べだした。
「フィリップもいる?」
「ううん、僕はいい。もうすぐ夕食だし」
「そっかそっか」
言いながらも、ウィルドの手は止まらない。夕食の前に食べるからこそおいしいのに、と言いはしないが、彼の瞳はそう告げていた。
「ただいま」
そうこうしているうちに、ようやくステファンとエミリアが帰ってきた。
「お腹空いた、エミリア」
居間に入って来た二人に対し、ウィルドは寝っ転がったまま間髪入れずに零した。ステファンは苦笑を返す。
「すっかり遅くなっちゃったからね」
「ごめんね、兄様。すぐ夕餉作るから」
「謝るのはステファンだけかよ」
「フィリップもごめんね」
「俺を無視するなー!!」
「ウィルドはその手にあるものを全部食べてから文句言って欲しいものね。食いしん坊なんだから」
ウィルドは思わず赤くなって揚げ菓子の袋を背中に隠す。一応彼にも羞恥心はあるようだ。
「兄様、やっぱり母様、今日も劇場に行ってるの?」
「ああ、そうみたい。今日も練習で遅くなるんだって」
「えー、でも師匠、自分がやるのちょい役だって言ってなかったっけ。そんなに毎日練習しないといけないもんなの?」
「どうだろうね。でも端役って言っても姉上は素人だし。舞台の立ち方とか声の出し方、振る舞い方にも指導が必要なんだと思うけど」
「ふーん。何か大変そうだなー」
頬杖をついて宙を見上げる。何かと小うるさいあのアイリーンが誰かに教えを乞うなど、全く想像もつかなかった。
「はーい、皆さんできましたよー!!」
「早っ」
「ミルクが足りなかっただけだからね」
エミリアはテーブルにどんと鍋を置いた。白い湯気がもくもくと立つ。食欲をそそるおいしそうな匂いだけを目前に、待てをさせられるのは辛い。誰もがそう思った時、子爵家の胃袋を掴む少女、エミリアが口を開いた。
「じゃあ残念だけど……先に食べる? 折角シチュー作ったんだけど」
エミリアは悲しそうにシチューを見やる。その声に、男性陣はう、と固まった。折角、と言ったが、月に何度も作られるその料理は正直飽きたと言っても過言ではない。しかしそうは言っても、所詮作ってもらう側が文句を言う訳にもいかない。それに何だかんだ言ってエミリアの料理はおいしいので、今まで一度もその台詞が口をついて出たことは無かった。そうして、言うに言えないまま、今日も今日とて黙ってシチューを腹に収めるしかないのである。
食後、子供たちは居間に留まったまま各々没頭した。ステファンはフィリップに勉強を教え、ウィルドはだらしなくソファに寝そべったまま図鑑を読み、そしてエミリアは椅子に座って裁縫をしていた。あまり手先が器用でない彼女は、うんうん唸りながら針と格闘しているようである。
「エミリア、それ何やってんのー?」
「姉御からの課題」
「課題?」
訝しげに眉を上げながら、ウィルドは立ち上がってエミリアの手元を覗き込んだ。しわしわの布に、歪な縫い目が並んでいる。
「へっただなー」
「分かってるわよ。だから練習してるんでしょう」
む、とエミリアは唇を尖らせる。
「わたし、裁縫苦手だから」
「でも随分熱心だよね。何かあったの?」
向かいのテーブルからステファンが尋ねた。
「べ、別に……。その、ただ姉御みたいに上手になれたらなって……」
「あはは、その出来で? 何年かかるんだろ」
無神経なウィルドがけらけら笑う。ギンッとエミリアは睨み付けたが、彼は全く意に介さない。ステファンは苦笑いを返した。
「でも、料理だってエミリアが熱心に練習したから上手くなったんだよ。だから裁縫だって練習を積み重ねれば上手くなる。大丈夫だよ」
優しい言葉と表情。
それは、以前にもどこかで見たもの。
やっぱり姉弟なんだとエミリアは実感し、ポカポカと心が温かくなった。
「うん、ありがとう」
「……ま、確かにエミリアの料理は随分上達したけど」
「今更そんなこと言っても遅いから。明日からウィルドの分だけ減らすから」
「ひっどー!! ちょ、それはないって、今俺成長期だから!」
「無理です」
「悪かったって、エミリア、ごめんって!」
必死にウィルドは両手を擦り合わせるが、エミリアは全く意に介さない。今度は全く逆の立場になったとステファンとフィリップは顔を見合わせて噴き出した。久しぶりに声を上げて笑ったような気がした。
そんな団欒の中、バーンと扉が開かれた。アイリーンの満面の笑みと共に。
「帰ったわよー!」
その姿に、弟妹達はしばし呆気にとられた。いつもの行儀作法に厳しかった彼女はどこへ行ったのだろう。
「お帰りなさい」
「師匠、何かご機嫌だね」
「うふふ、分かる?」
ニヤニヤと笑いながらアイリーンは右手を懐に伸ばす。そろそろとそれを掴むと、一気に日の目に晒す。
「じゃーん!」
「何ですか、それ?」
「おいしいものじゃないよね」
「何だ紙切れか」
始めはキラキラしていた子供たちの瞳も、食べ物じゃないと分かった瞬間に淀む。子爵家の闇を垣間見たような気がして、アイリーンは慌てた。
「世の中は食べ物だけが全てじゃないのよ? 何をそんなに落胆して――」
「お金も大事だよ」
「……ええ、そうね。お金も大事ね。いえ、だからね、世の中は食べ物やお金だけが全てではなくって、だからほらこれ――」
アイリーンは泣きそうになって再び紙切れを掲げる。こんなはずじゃなかった。もっと歓声を上げて喜ばれると思っていた。
「これ……私が出る演劇のチケット。モリスさんに頂いたの……」
いらないと突き返されたらどうしよう。
お土産が食べ物ではなく、こんな紙切れであることに、急にアイリーンは申し訳なくなってきた。次第に自身も喪失する。
「その……どなかたに交換を申し出ましょうか。食べ物と、これを交換してくれないかって。その、そうよね、私が出る劇なんかより、偶には贅沢に外食でもしたいわよね……」
ふ、と暗い笑みが口元に浮かぶ。そうだ、劇なんてちょっとの時間つぶしにしかならない。ちょっと満足感があって、ちょっと高揚感があって、ちょっと弟妹達に練習を重ねた自分の姿を見てもらいたいなどと、そんな大それたことを考えるなんて――。
「凄いじゃないですか姉御!!」
「これで母様の劇が見られるの!?」
「え、え?」
突然の変わりように、アイリーンは目を白黒させた。エミリアの頬は上気し、フィリップも珍しく興奮している。
「みんな見られるんだよね?」
「姉御、もっとよく見せてください!」
ひらひらと揺れるそのチケットは全部で五枚。数も十分だ。
アイリーンはすっかり鼻を高くした。
「まさか私もこんなに貰えるとは思ってなかったんだけどね。これはもうきっと日頃の私の行いが良いからなんでしょうね~」
「でもこれで母様の舞台が見られるんだね!」
「そうね。楽しみにしておいて」
フィリップの頭に手を乗せ、アイリーンは頷く。
「あ、でも席は少しバラバラになるかも。ほら、一枚だけちょっと離れてるのよね」
「あと一枚はどうするんですか?」
アイリーンは腕を組んで考え込む。モリスにも、弟妹は四人だからチケットは四人分で十分だと言ったのだが、折角だから誰か誘ってくださいともう一枚追加してくれたのである。劇を好みそうな知り合い、となると、浮かぶのはただ一人。
「そうねえ、日ごろの感謝も込めてアマリスさんに譲ろうかしら。こういうの好きそうだし」
「それがいいですね。何かとお世話になってますし」
特にウィルドが、と皆の視線が彼に向く。
畑仕事を担っている彼は、何かとアマリスの元へ話を聞きに行くことが多かった。それだけにとどまらず、お茶やお菓子をご馳走になったり、昼寝場所を提供してもらったり。
「な、何だよー。フィリップやエミリアだってよく遊びに行ってるだろ? 俺だけじゃないよ!」
「まあまあ、とにかく明日アマリスさんの所へ行ってみるわ。みんなもこの日は空けておいてね」
「はい、姉御、頑張ってくださいね!」
「もちろんよ!」
グッとアイリーンは握りこぶしを作る。しかしその反面、弟妹達が揃って見に来るのだから失敗だけはできないと、更なる圧力を己の身にひしひしと感じるアイリーンだった。




